源 義経 チンギス ハン。 フビライハンとは?チンギスハンや源義経との関係、元寇や子孫について解説!

モンゴル帝国を築いたチンギスハンは源義経だったって本当?

源 義経 チンギス ハン

中尊寺所蔵の源義経像 ところが、これには異説がある。 義経は死んでおらず、大陸に渡ってモンゴルの皇帝チンギス・ハーンになったというのだ。 この説は次のように主張される。 源義経=チンギス・ハーン伝説 義経が生き延び、北へ北へと逃れていったことを示す伝説が岩手県・青森県・北海道の各地にある。 さらに関東や東北の旧家には、義経が平泉から逃れる際の兵糧や軍資金を示す古文書が残っている。 義経はどこに逃げ延びたのか。 中国の古書『金史別伝』には、義経の子が金(満洲・河北にまたがる国。 1115~1234)の将軍になった、と伝える。 また、清朝編纂の『古今図書集成』の序文では清の乾隆帝(在位1735~1795)自らが、清朝は義経の子孫だ、と記している。 つまり義経は北海道からさらに満洲にわたったと思われるのだ。 さらに義経は満州からモンゴルに入り、そこで チンギス・ハーンになったと考えられる。 チンギス・ハーンことテムジンがモンゴル皇帝に即位したのは1206年。 平泉を脱出した義経が十数年かけてモンゴルで力を得たとすれば、年代的なつじつまは合う。 チンギス・ハーン モンゴルの古い軍旗や兜の紋章には日本の笹竜胆紋に似たものがある。 笹竜胆(ささりんどう)といえば清和源氏、すなわち義経の家系の家紋である。 清和源氏の旗と言えば白旗だが、チンギス・ハーンの即位式には九棹の白旗が立てられた。 これはチンギス・ハーンこと義経が、自分は清和源氏であることと「九郎」であることを示したと考えられる。 義経は騎兵の機動力を生かした奇襲を得意としたが、これはチンギス・ハーンが率いたモンゴル騎兵の戦い方そのもの。 チンギス・ハーンの祖先は ニルン族の流れをくむ キャト族、母の名は ホエルン・イケとされる。 義経は 「日本」の 「京都」の生まれで、幼いころは 「池禅尼」(いけのぜんに)に命を助けられた。 チンギス・ハーンの出自に関する記録は、義経の身の上話が伝言ゲーム的に誤り伝わったものだろう。 そして チンギス・ハーンという称号、これもまた「源義経」を音読みにした ゲン・ギ・ケイがモンゴル風に言い換えられたものだと考えられる。 チンギス・ハーンが義経であることを最初に説いたのは フランツ・ファン・シーボルト(1796~1866)の大著『日本』である。 明治時代にもこの説は一部の知識人の間で論じられていたが、大正13年(1924)、小谷部全一郎の名著『成吉思汗は源義経也』がベストセラーになることで一般にも知られるようになった。 その後も高木彬光(『成吉思汗の秘密』1958)をはじめとして多くの作家や郷土史家がこの説を書き継ぎ、今に至るも根強い人気がある。 義経ことチンギス・ハーンは1227年に世を去るが、その後もモンゴル帝国は拡大を続け、西はトルコ半島・東ヨーロッパから東は中国大陸・朝鮮半島にいたる広大な国土を支配することになる。 義経の大志は奥州の地で潰えることなく、ユーラシア大陸へと羽ばたいたのである。 伝説の真相とは 東北地方や北海道の義経北行伝説は江戸時代における判官びいきの産物と考えられる。 特に北海道では松前藩がアイヌ支配のために義経伝説を利用しようとした。 もっとも北海道の義経伝説では義経が盗賊や女たらしとして伝えられているものが多い。 どうやらアイヌは和人の不品行を伝えるために、松前藩から押し付けられた義経伝説を逆に利用したようだ。 こういった義経伝説で語られる年代は義経=チンギス・ハーン説と矛盾する。 たとえば、青森県八戸市に伝わる「類家稲荷大明神縁起」だと、義経が北海道を目指したのは 元久2年(1205)とされる。 それからわずか1年でモンゴルを支配し、チンギス・ハーンとして即位するのは不可能だろう。 伝説はあてにならないというなら、そもそも義経が北に向かったという根拠もなくなってしまう。 家系に箔をつけたい家が「古文書」を偽作したり、買ったりするのはよくあることだ。 関東・東北の旧家に伝わるという義経の借用書なるものは似たような文面のものが多く、同じ業者の介在をうかがわせる。 『金史別伝』は偽系図作りで有名な沢田源内(1619~1688)がその「逸文」のみを偽作したもので実在しない書物だ。 また、『古今図書集成』序には実際には義経に関する記述はない。 その記述があった、というのは日本でのみ広まった風説だ。 笹竜胆はもともと村上、宇多源氏の紋章であり、それが清和源氏と結びついたのは江戸時代の歌舞伎などの影響である。 また、笹竜胆は文字通り、笹と竜胆の花を組み合わせた絵柄だが、小谷部の著書に掲載されたモンゴルの笹竜胆紋なるものを見ても、笹はともかく竜胆に似た個所はない。 つまりそれは笹竜胆とは異質の紋章である。 左が笹竜胆紋。 右がモンゴル人が兜につけるという紋章 (出典:佐々木勝三、大町北造、横田正二『義経伝説の謎』勁文社) 義経の戦法とモンゴル騎兵の戦法は同じどころかまったく異質である。 元寇の時、義経の戦法なら知っていたはずの鎌倉武士たちが、まったく戦法の違うモンゴル騎兵相手に悩まされたほどだ。 名前の類似や旗の数などはまったくのこじつけ、語呂合わせの類である。 そもそもホエルン・イケの「イケ」はモンゴル語で「母」の意味であり、チンギス・ハーンの「ハーン」は皇帝という意味の称号だ。 池禅尼や義経の名とは無関係である。 シーボルトはたしかに日本での友人から聞いた説として、義経=チンギス・ハーン説について言及しており、しかも彼自身もこの説を検討に値するものとして深い関心を抱いていた。 ただし、シーボルトがあげる根拠はモンゴルの称号の汗(ハーン)と日本語・神(カミ)を比較する語呂合わせやチンギス・ハーンが強弓を引いたというモンゴルの伝説を日本の長弓と結び付けるといったこじつけに終始しており、彼自身も最終的な判断は保留している(藤野七穂氏のご指摘による)。 義経=チンギス・ハーン説を学問的に論破することはたやすい。 しかし、それにもかわわらず、この説が根強い人気を持ち続けた理由は文字通りの判官びいきと、島国の国民の大陸国家に対するコンプレックスとがあるのだろう。 参考資料• 小谷部全一郎『成吉思汗ハ源義経也』(改定普及版・炎書房、1979年)• 小谷部全一郎『静御前の生涯』(厚生閣書店、1930年)• 佐々木勝三、大町北造、横田正三『義経伝説の謎』(勁文社、1991年)• 須永朝彦編『書物の王国20 義経』(国書刊行会、2000年)• 高木浩明監修『源義経99の謎と真相』(二見書房、2004年)• 高木彬光『成吉思汗の秘密』(光文社・1958年、角川文庫・1973年、新装版・光文社・2005年)• 荒巻義雄『義経埋宝伝説殺人事件』(講談社、1985年)(文庫版改題『義経埋宝伝説の謎を追え!』徳間書店、1992年)• 荒巻義雄、合田一道『義経伝説推理行』(徳間書店、1993年)• 鹿島昇『義経=ジンギス汗新証拠』(新国民社、1987年)• 木村鷹太郎『希臓羅馬神話』(南洋堂、1922年)• 国史講習会編「成吉思汗は源義経に非ず」(雄山閣、1925年)• 関幸彦『源義経・伝説に生きる英雄』(清水書院、1990年)• 新谷行『アイヌ民族と天皇制国家』(三一書房、1977年)• NHK歴史発見取材班『歴史発見5』(角川書店、1993年)• 土井全二郎『義経伝説をつくつた男』(光入社、2005年)• 伊藤孝博『義経北行伝説の謎』(無明舎出版、2005年)• 森村宗冬『義経伝説と日本人』(平凡社、2005年)• 千坂げんぼう編著『ネツトワーク対談東北を語る』(本の森、1999年)• 斉藤利男『平泉 よみがえる中世都市』(岩波書店、1992年)• 御所見直好『鎌倉史話探訪』(大和書房、1990年)• 岡野友彦『源氏と日本国王』(講談社、2003年).

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こんなに凄いぞ【チンギス・ハン】史上最大のモンゴル帝国を作り上げた史上最大の男!逸話や死因まとめ

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場所が残ってるならこの話の信憑性は高そう…… 畠山の同情もあり、からくも逃げ延びた義経一行。 まずは蝦夷(現在の北海道)に逃げ延びます。 そこから海を渡り、モンゴルに行き チンギスハンと名を変えて歴史の舞台に舞い戻ってきたという都市伝説です。 源義経とチンギスハンは同一人物!? チンギスハンは資料が少なく、謎の多い人物です。 チンギスハンが歴史に初めて登場したのは、義経の死から17年がたった頃。 若干のずれはありますが、源義経とチンギスハンは同年代になるわけですね。 チンギスハンはモンゴルで大型の弓矢を使っていという記録が残されています。 大型の弓矢を使っていたのはチンギスハンだけと言われています。 当時のモンゴルでは小型の弓矢しかなかったのに不思議ですよね。 日本では大型の弓矢を使っていたので、大きな共通点と言えそうです。 かなりの戦上手で知られる源義経だけに、モンゴルに渡り帝国を築き上げるのも可能な気もします。 そしてこの「源義経=チンギスハン説」を最初に唱えたのは、 ヨーロッパから大陸を渡ってやってきた医師「シーボルト」です。 大陸を渡ってきた彼が言う言葉なら、妙に信憑性があるように感じてしまいます。

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チンギス・ハンを5分で!源義経と同一人物説って?│れきし上の人物.com

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源義経、プロフィール 源義経(みなもとのよしつね) 出身地:京(京都市) 生誕:1159年 死没:1189年4月30日 享年:31歳(自殺) 時代:平安時代 源義経って何した人?どんな人? 源義経(みなもとのよしつね)は、兄の頼朝(よりとも)といっしょに平氏をほろぼします。 超大活躍した義経ですが、兄の頼朝(よりとも)とケンカし追放され、最後は自害します。 ここでは大人気の武将・源義経の 経歴をカンタンに紹介していきます。 源義経のカンタンな経歴 源義経は9男で、父に源義朝(みなもとのよしとも)。 兄に源頼朝(3男)がいます。 父が「平治の乱」で戦に敗れて死んだとき、義経はまだ2歳でした。 大人になるまで、兄の頼朝とは顔を合わせたことがなかったといいます。 義経はお寺(京都)にあずけられます。 やがて義経は、 自分の母(超美人)が命と引きかえに、父を負かした平清盛の愛人にさせられたことを知ります。 「いつか必ず平氏をほろぼす。 」 義経は強く心に誓い、明けても暮れても訓練を続けました。 16歳で寺をぬけ出すと、京都から奥州の平泉(岩手県)に行き、藤原秀衡(ふじわらのひでひら)のもとですごしました。 1180年、いよいよ兄の頼朝が平氏を倒すために戦いをはじめると、22歳の義経は頼朝のもとへかけつけました。 そして義経は、兄の頼朝から軍の指揮を任されて勝利。 大活躍するのです。 一の谷(いちのたに・兵庫県)では、崖をかけおりるという不意をつく戦法で平氏に勝利。 名言「崖を鹿が通るなら、馬も通る」は有名です。 屋島(やしま・香川県)では、嵐の中で平氏軍の背後に回り、油断しているところをおそって勝利します。 そして壇の浦(だんのうら・山口県)へと追いつめた平氏を、ついにほろぼしたのです。 兄の源頼朝については、こちらの記事でカンタンにわかり易く紹介しています。 義経の悲劇は? 義経の活躍はすさまじいものでした。 まさに快進撃。 ヒーロー、英雄です。 しかしその裏側で、 悲しみが待ちうけます。 兄・頼朝は兄弟であっても、義経を他の家臣と同じように扱います。 でも義経は、「兄の家来は、おれの家来」のような振るまいをしたり、当時は名乗って戦を開くのが礼儀だった武士の世界で、奇襲ばかりで勝つなど、型破りなことをします。 そこで梶原景時(かじわら かげとき)という人物が悪口を頼朝に吹き込みます。 さまざまなことが重なって、 兄の頼朝は「鎌倉に戻れば死が待つ、腰越という手前の場所より先は近づくな」という指示を義経に出します。 決定打は、後白河法皇(ごしらかわほうおう)から勝手に冠位、貴族の身分をもらったことでした。 何故冠位をもらってはいけないのかというと、義経はあくまで頼朝の部下です。 冠位をもらうということは、後白河法皇の家臣になるということです。 部下が親分に忠誠していないことなのです。 実は後白河法皇は、頼朝を快く思っていなかったので、義経をとりこみ兄弟仲を裂こうとしていたのです。 でも義経は兄・頼朝が好きなので、腰越状(こしごえじょう)という兄への忠誠を誓う思いをつづった手紙を送ります。 でも聞き入られず、捕えられそうになったことで、青年時代にお世話になった、平泉の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)を頼ります。 しかし、藤原秀衡(ふじわらのひでひら)の子・泰衡(やすひら)は義経がいると自分が危ないと、頼朝にビビりました。 子・泰衡(やすひら)は、父・秀衡(ひでひら)の死後、義経がいた場所を襲います。 追いつめられた義経と妻子は自害したのです。 兄に愛されたくてでも上手くいかない姿は英雄からは遠いものです。 弁慶と牛若丸の伝説について 源義経の幼名は、 牛若丸です。 そう、あの有名な「弁慶と牛若丸」の牛若丸なのですね。 その本人です。 伝説のあらすじは、、、 京都で、弁慶という乱暴者がいました。 決闘をして、勝ったら相手から刀を奪い、1000本まであと1本でした。 いよいよ1000本目になるという日の夜、五条大橋を笛を吹きながら歩いてきたのが牛若丸でした。 弁慶は、牛若丸の腰に差さっている刀を見て、「いい刀だ。 これこそ1000本目の刀にふさわしい。 」と言い、牛若丸に勝負を挑みます。 しかし、牛若丸は弁慶の剣を鮮やかにかわし、返り討ちにします。 弁慶は降参し、牛若丸の家来として仕えることにしたのです。 といったもの。 超有名ですね。 その牛若丸が、のちに兄と一緒に平氏をほろぼす「源義経」なのです。 義経が自害する直前も、追い詰められる義経をかばい、弁慶は義経のため立ったまま死にます。 男でも惚れてしまいますよ。 このエピソードから、義経の圧倒的な剣の強さもわかるでしょう。 まとめ 源義経を5分で!牛若丸の伝説やチンギス・ハーン説についてでした。 源義経をカンタンに語るポイントは、 ・兄の源頼朝といっしょに、平氏をほろぼした ・のちに兄・頼朝と対立、自害に追い込まれた ・義経はチンギス・ハーンではない ・「弁慶と牛若丸」の牛若丸だった! 最後まで読んでいただきありがとうございます^^ 義経が下った奥州(陸奥国)は後白河法皇の院分国、それ故院の近習藤原師綱が陸奥守となり陸奥国府へ下向し陸奥国在国官人目藤原基衡が陸奥国衙領(信夫郡)を押領しているとして糾弾し基衡の家来佐藤季春を打ち首にしました。 藤原師綱の後任藤原基成陸奥守の娘を藤原秀衡が娶っています。 藤原秀衡は後に鎮守将軍、陸奥守に補任されています。 任期は四年程度なので後任の陸奧守も補任されています。 鎌倉時代にも陸奥守補任歴があり北畠顕家まで続いています。 この当時の陸奥国府は信夫郡にありました。 鎌倉幕府滅亡ご陸奥国府へ入った北畠顕家ですが、中先代の乱が起き陸奥国府を留守した間に北朝方に陸奥国府は占拠されました。 北畠顕家等は陸奥国府へ戻れず、仕方なしに信夫郡隣の伊達郡霊山に仮の南朝陸奥国府をおいたのです。 刈田郡以北は藤原緒嗣の徳政論により軍事等が停止され胆澤、玉造、多賀等の城塞は近隣の百姓等が輪番で守る事となっていました。 837年頃になると上記の城塞付近へ入植した百姓達の多くが逃げ返る事態となりました。 結局、平安時代末期の陸奥国域は石城諸郡、石背諸郡のみが陸奥国域となっていたのです。 平泉や多賀城は平安時代末期には陸奥国の外で逆賊の支配地に帰してしまったのです。

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