羽幌町。 羽幌町のランチやグルメおすすめ!名物や海鮮丼は?北のにしん屋さんは?

2020年 羽幌町で絶対泊まりたいホテル!旅館ランキング 5選 【トリップアドバイザー】

羽幌町

7 4 北西 0 60 11時 22. 8 4 北西 0 60 10時 22. 7 4 北西 0 60 09時 22 3 西北西 0 60 08時 21. 9 2 北西 0 60 07時 21. 3 1 北 0 60 06時 18. 4 2 東南東 0 60 05時 16. 6 3 東南東 0 26 04時 16. 5 3 東南東 0 0 03時 16. 5 2 東南東 0 0 02時 16. 9 2 東南東 0 0 01時 17 2 東南東 0 0 24時 17. 5 2 南東 0 0 23時 18. 4 1 南東 0 0 22時 18. 4 1 東南東 0 0 21時 19. 4 1 東南東 0 0 20時 20. 2 2 東北東 0 0 19時 21. 1 2 北 0 48 18時 21. 9 1 北西 0 60 17時 22 2 北北西 0 60 16時 21. 4 3 北北西 0 60 15時 22. 3 3 北北西 0 60 14時 22. 3 3 北北西 0 60 ウェザーリポート 全国から届くお天気リポート 防災・減災メニュー• 天気メニュー• 季節・レジャー情報• 北海道の都市の天気予報• 苫前郡羽幌町 北海道羽幌町付近の空の写真.

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2020年 羽幌町で絶対泊まりたいホテル!旅館ランキング 5選 【トリップアドバイザー】

羽幌町

町名の由来 [ ] が転訛したものであるが、以下の諸説がある。 「ハプㇽ(hapur)」(柔らかい)…海岸の砂がやわらかであったことから• 「ハポロペッ(ha-poro-pet)」(流出?・広大・川)…現在の羽幌川が出水時に砂浜を潰決する様から• 「ハㇷ゚オㇿオペッ(? -oro-o-pet…前半部不明)」(の鱗茎?・そこ・多くある・川) 1.はやらが採用しているものである。 2.はによるもので 、町でも同様の説を紹介している。 3.は1973年(昭和48年)に国鉄北海道総局が発行した『北海道 駅名の起源』において、2.説を「疑問である」としたうえで、紹介されているものである。 5 29. 0 30. 2 2. 7 36. 9 9. 4 48. 9 14. 9 58. 8 18. 9 66 22. 8 73 24. 6 76. 3 21. 1 70 14. 9 58. 8 7. 3 45. 1 1. 1 34 11. 3 52. 7 23. 5 23. 6 30. 9 5. 5 41. 9 10. 6 51. 1 15. 2 59. 4 19. 2 66. 6 20. 9 69. 6 16. 9 62. 4 11. 0 51. 8 4. 2 39. 6 29. 1 7. 7 45. 8 16. 6 23. 7 1. 4 34. 5 6. 3 43. 3 11. 5 52. 7 16. 0 60. 8 17. 3 63. 1 12. 3 54. 1 6. 6 43. 9 0. 8 33. 7 23. 5 3. 8 38. 8 cm inch 198 78 150 59. 1 94 37 13 5. 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0. 4 58 22. 8 172 67. 7 686 270. 1 平均月間 56. 5 81. 9 137. 6 172. 3 200. 4 191. 8 171. 7 171. 6 176. 8 129. 5 54. 4 35. 6 1,580. 1 出典: 気象庁 羽幌町中心部周辺の空中写真。 1977年撮影の7枚を合成作成。 を基に作成。 留萌管内中部に位置する。 天売島(西側)、焼尻島(東側)の島嶼部も含む。 山: ピッシリ山 1032m• 河川: 羽幌川、築別川• 島: 、 隣接している自治体 [ ]• : 沿革 [ ] 町の本格的な開拓は近隣の、より遅い明治中期以降であるが、大正期に優良な石炭を産出するが発見されて以来、中心の都市として発展。 昭和40年の国勢調査では人口30,266人、世帯数6,840戸を数えた。 しかし、閉山の(昭和46年)以降は過疎化が著しい。 昭和40年頃には、、築別線、上羽幌線が通るの賑わいは最高潮に達した。 昭和45年まで羽幌炭礦鉄道では、女子、ジャンプ、の実業団チームを有し、スポーツの町としてのの発展に大いに寄与した。 炭鉱閉山後の1971年(昭和46年)、人口がついに3万人を割り込み、あわてて市制を施行しようとしたが、町が時に人口を大幅に水増しするという不正を行っていたことが発覚、町長ら幹部を含む83人が違反などの容疑でされる事件となった。 その後も人口減が続いており、市制施行には至っていない。 27年 羽幌村が設置される• 羽幌村戸長役場が設置される(苫前村(現在の苫前町)のから独立)• 初山別村が設置される• 初山別村が初山別村戸長役場(現在の)として独立する• 二級町村制施行、 羽幌村• 一級町村制施行、 羽幌村• 町制施行、 羽幌町• (30年) を編入する• (34年) を編入する• ふるさと羽幌100年記念式典を行う 経済 [ ] 産業 [ ] 主要産業は漁業、農業、観光() 金融機関 [ ]• 羽幌支店• 羽幌支店 企業・商業施設 [ ]• 総合衣料品店 八幡屋• ハートフルはぼろ()• スーパー・衣料品店・飲食店などが入っている商業施設 特産品 [ ]• 焼尻めん羊(サフォーク)• 甘エビ• ねばり長芋• あっちゃんみそ• 羽幌メロン 農協・漁協 [ ]• オロロン農業協同組合(JAオロロン)• 北るもい漁業協同組合 郵便局 [ ]• 羽幌郵便局(集配局)• 天売郵便局• 焼尻郵便局• 築別郵便局• 羽幌北大通簡易郵便局 公共機関 [ ] 警察 [ ]• 姉妹都市・提携都市 [ ]• 地区()• (54年) 旧と友好都市提携 1896年(明治29年)、平村より羽幌町字に40戸が入植した歴史にちなむ。 1900年、平村より羽幌町地区に獅子舞道具がもたらされて平越中獅子舞(羽幌町指定無形文化財)が始まり、現在まで伝承されている。 1976年、羽幌町から獅子舞の源流調査などのため町議団が平村を訪問して以降交流が深まり、友好都市提携に至る。 2004年に平村は合併によりの一部となったが、以後も交流は続けられている。 (55年) 姉妹都市提携 明治20年代、石川県・富山県から集団入植が行われたが、内灘町からも多くの移住者が羽幌町に移り、漁業(・漁)や農業に従事した。 1922年(大正11年)頃、内灘町出身者がをに奉納し、以後今日まで羽幌加賀獅子舞(羽幌町指定無形文化財)として伝えられている。 地域 [ ] 人口 [ ] 羽幌町と全国の年齢別人口分布(2005年) 羽幌町の年齢・男女別人口分布(2005年) 羽幌港 空港 [ ]• () 鉄道 [ ] 現在、町内を走る鉄道路線は存在しない。 鉄道を利用する場合の最寄り駅は、。 廃止された鉄道路線 [ ]• — 、• 築別線・上羽幌線• () バス [ ]• — 羽幌町に本社設置• 羽幌線代替バス、札幌線(特急はぼろ号) コミュニティバス [ ]• (沿岸バスに運行委託) 港湾 [ ] 羽幌港• 羽幌 — 焼尻 — 天売 道路 [ ]• 一般国道• 都道府県道• レジャー [ ]• 羽幌町総合体育館(パワデール)• おろちゃんランド• 羽幌町スポーツ公園パークゴルフ場• 町民スキー場 名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事 [ ] はぼろバラ園 文化財 [ ] 天然記念物 [ ]• 焼尻の自然林• 天売島海鳥繁殖地 道指定有形文化財 [ ]• 旧小納家住宅(北海道指定有形文化財) 1900年(明治33年)竣工の洋風木造建築。 として利用されている。 ので、商店を兼営し郵便局などを併設した小納家の住宅。 町の文化財 [ ]• 厳島神社旧鳥居の双脚• — 保管• (羽幌町指定無形文化財) — 平越中獅子舞保存会 9月の祭で奉納される。 1900年(明治33年)、富山県(現・)の地区 から羽幌町平地区に獅子舞道具がもたらされ 、に獅子舞を奉納したことから始まる。 (羽幌町指定無形文化財) — 羽幌加賀獅子舞保存会 7月の祭で奉納される ほか、町内外のイベントで披露される。 1922年(大正11年)頃、石川県内灘町からの移住者がをに奉納したのが始まり。 ニシン漁の衰退とともに1953年(昭和28年)に一時中断したが、1974年(昭和49年)に羽幌加賀獅子舞保存会が結成されて復活した。 (羽幌町指定無形文化財) — 羽幌越中赤坂奴保存会 7月の祭で奉納される。 1923年(大正12年)頃、富山県出身者によってもたらされ、に奉納されたのが始まり。 神社 [ ]• (越中赤坂奴舞) — 羽幌町指定無形文化財• 寺院 [ ]• 観光 [ ]• はぼろバラ園• 朝日公園花菖蒲園• 雲雀ヶ丘公園(焼尻島)• 赤岩展望台(天売島)• 観音岬展望台(天売島)• 海の宇宙館(天売島) 祭事 [ ]• 祭り 6月下旬• 祭 7月上旬(平成22年7月8日〜10日)• サンセットサマーライブ 7月上旬・はぼろサンセットビーチ(休止)• サンセットビーチSummerフェスタ 7月下旬・はぼろサンセットビーチ• 羽幌・焼尻めん羊祭り 7月上旬(平成22年7月3日〜7月4日)• 天売うに祭り 8月上旬(平成22年7月31日〜8月1日)• 食文化 [ ]• マスコミ [ ]• 羽幌支局• 中部支社• 羽幌タイムス その他 [ ]• 『』ロケ地• 日本テレビドラマ版『』ロケ地• 天売島と焼尻島は北海道内でこの2か所のみ、のが実施される(通常投票日の2日前)。 これはニュースでも衆議院選挙・参議院選挙・北海道知事選挙・北海道議会議員選挙など投票があるたびに必ず取りあげている。 、町内の山林で通称「北海太郎」と呼ばれる、巨大なオスのが射殺された。 体重は少なくとも450kgあったとされる。 羽幌町人口水増し事件 [ ] 1970年に行われた国勢調査において町の人口は2万8千人余であったが、翌1971年になって町議のがきっかけとなり約5,900人もの人口の水増しが行われていたことが発覚した。 町では前回の1965年の国勢調査で当時の市制施行要件を上回る3万人余の人口を記録し、新庁舎の建設に着手するなど市制施行に向けた動きが活発になっていたが、町の経済を支えていたの経営が悪化したことで人口の流出が進み、調査時には3万人を大幅に割り込んでいた。 警察の捜査の結果、町長ら幹部を含む83人が統計法違反やの容疑で送検された。 出身の有名人 [ ]• — 脚本家• — 洋画家• — 歌手• — 元世界チャンピオン• — 剣道元日本2位• — 作家• — サイエンスエンタテーナー• (焼尻島) 書家・日展作家• — 漫画家• — 元参議院議員• — 実業家・ハスコム会長 脚注 [ ] 出典 [ ]• 北海道 環境生活部 アイヌ政策推進室 2007年. 2017年10月20日閲覧。 羽幌町. 2019年3月22日時点のよりアーカイブ。 2019年3月22日閲覧。 気象庁. 2011年6月22日閲覧。 『広報はぼろ』 平成21年12月号. 羽幌町. 2012年2月6日閲覧。 友好交流協会. 2012年2月4日閲覧。 羽幌町. 2012年2月5日閲覧。 北海道文化資源データベース. 北海道. 2012年2月6日閲覧。 『広報はぼろ』 平成22年9月号. 羽幌町. 2012年2月6日閲覧。 内灘町. 2012年2月5日閲覧。 北海道文化資源データベース. 北海道. 2012年2月5日閲覧。 『教育ほっかいどう』 377号. 北海道教育委員会. 2012年2月5日閲覧。 [] 2017-01-27 CSV. Report. 総務省. 2017年5月20日閲覧。. 文化遺産オンライン. 文化庁. 2012年2月6日閲覧。 北海道文化資源データベース. 北海道. 2012年2月6日閲覧。 北海道文化資源データベース. 北海道. 2012年2月6日閲覧。 (公式ホームページ)、• 読売新聞 2007年9月1日• 補注 [ ]• では、故郷をしのんで獅子頭を制作した、との記述がされている。 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。

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大きな街があった羽幌炭砿(羽幌炭鉱) 大きな街があった羽幌炭砿(羽幌炭鉱) 僕が高校時代に夕張のPRのために「バリバリ夕張」とうフレーズがあったが、羽幌出身みのや雅彦のアタックヤングというラジオ番組の中の葉書ネタで「ボロボロ羽幌」というのがあって、うまいこと考える人がいるんだなあなんてヘンな感心をしたことがある。 「ボロボロ羽幌」はあくまでギャグなのだが、日本海に面したであったが、平成9年に1万人を割った。 羽幌の市街から山に入っていったところに羽幌炭砿はあった。 この辺りは農業集落から炭坑集落に変化していき、同年太陽小学校が開校した。 太平洋戦争中は、戦時中の生産資材、労働力の不足により発展はみられないが、タコ部屋労働者、朝鮮から連れて来られた人々によって炭鉱は続けられた。 戦争が終わり、戦後復興のための石炭増産が望まれ、昭和22年に上羽幌地区の開発、同23年に羽幌砿地区(三毛別本鉱)の開発が始まり2つあわせて羽幌鉱業所ができる。 築別、上羽幌、羽幌の3つの年産量は昭和31年に50万トン、36年に100万トン、人口もこの地区のみで1万人を超えた。 しかし昭和30年後半になると、石炭産業はエネルギー革命の影響を受けて次々と閉山していくなか羽幌炭砿は合理化(40年に築別、羽幌両砿業所を統合)、機械化によって優良炭を産出していた。 43年には最高113トン産出が、44年に大断層のため築別東坑が閉鎖されると、45年には西坑も閉鎖し、羽幌坑、上羽幌坑の二山体制にしたが、坑内条件の悪化、流言飛語、労働力の低下により経営が難しくなり、この炭鉱の最高産出量を記録した僅か2年後の45年11月に閉山した。 ちなみに羽幌町の人口は、昭和44年32,095人(6,958世帯)が最高で、昭和50年13,000人台、昭和60年12,000人台、平成9年10,000人台を割る。 またその年((2002年)の5月に訪問。 大きめの写真は2002年撮影したもの(築別炭鉱病院跡のみ2001年訪問のもの)。 上羽幌坑近辺 羽幌川の上流の道道747号と741号のT字路付近に上羽幌坑があった。 訪問した平成13年7月のこの付近は、夏草が覆い尽くした荒地と畑が広がっており、道路から離れているホッパー等の炭鉱跡や学校等の街の遺構は分からなかった。 廃坑になってから時間が経っているので撤去されている可能性も高く、もしかすると自然に帰っている可能性もありそうだ。 翌年の訪問時も、遺構ホッパーや学校跡などを発見できなかったが、探せば有る模様。 羽幌からの道道沿いには、森林鉄道の橋脚跡が残る。 そして上羽幌地区に入ると、屋根のない煙突とブロック建築の廃屋が出迎える。 炭鉱住宅だったのか? 長屋の廃墟、(2001年撮影の裏側を撮影) 747号から741号に曲がって少しだけ走ったところには、コンクリートブロックでできた長屋住宅の廃墟群が道路の両側に残っていた。 かつてはもっと炭鉱住宅が並んでいたのだが、ここだけが集中して残っている。 訪問時は、インターネット上でもあまり有用な情報があまりなく、行って見つけた時にはドキッとしたのを覚えている。 左の写真(2001年撮影)は草木に被われた長屋住宅の一部だが、草木にそれほど被われていない住宅跡もあった。 それらの中には、道路工事や公共事業の工事事務所として使われた形跡もあった。 道道から見える限り6列だが、を見る限りは7列 羽幌坑近辺 上羽幌をあとにして、道道747号を曙方面に向かい小さな峠を越え、森を抜けてきた道路から突然現れる建造物。 異様だ。 羽幌砿跡である。 車を止めてあたりをうかがうと、写真の並び順と同じく、立坑、炭鉱の建物、ホッパーが残っていた。 炭坑施設はそのまま放置されたような佇みかただった。 ホッパーのみは道道からすぐの場所で内部も見ることができるが、立坑と真ん中の写真の建物の周りは木々が生茂り近づくのは困難かと思われる。 立坑は木々に囲まれてはいるが、建設してからそれほど時間が経っていないせいか、古さを感じさせない。 立坑の手前には住居跡に 残された煙突だけが残る。 右下の木に隠れているが 建物に大穴があいていた。 炭鉱の建物はかなり大きい。 そしてホッパーの横には羽幌 砿業の看板が残っている。 ホッパー前から分かれる林道を走ってみると、新緑の森の中から立坑だけが顔を出していた。 道を進むと、何軒ものピンク色した壁の炭鉱住宅跡が並んでいた。 一部は緑の壁の廃墟もあったが、違いがあったのだろうか? また、遠くに鳥居も見えたりしたので、この辺りには沢山の人が住んでいたのであろう。 曙方面にホッパーから先に進むと、旧道跡にガソリンスタンド跡がある。 そして風化の進んで屋根のつぶれた廃墟群が、ホッパーまで続いていた線路跡の向こうに残る。 それからさらに進んでいくと、放置されたかなり大きい中学校の廃校があり、玄関(昇降口)まで行ってみると近所の農家が農作業車両の置き場としているようだった。 築別坑近辺 道道747号を曙まで走ると、ここにも荒れ果てた小学校跡が残る。 ここで右折をし、道道356号を築別炭坑を目指し築別川に沿ってしばらく走ると、正面にピンクの建物が目に飛び込んでくる。 これは太陽小学校跡で、平成13年に訪問する1、2年?までは学校跡を「緑の村」という名で、宿泊施設?キャンプ場?資料館?として運用されていた模様。 学校としては大きな学校であったようで、この山奥でもプールがあり、円形体育館も大きいのだ。 この地に多くの子どもがいたことがよくわかる施設跡である。 訪問時、建物はきちんと封鎖されていたが、しばらくすると侵入者が現れ、荒れ果てた状態になっていると聞く。 道道を進み、緩やかなカーブを曲がると羽幌砿とは形の違うホッパーが現れる。 この辺りまで炭鉱鉄道が伸びていた さらに道道を少し行くと交差点があり、その角には朽ち果てた病院跡と、橋がある。 病院を道道から見ているものであるが、真っ直ぐな 道道を作る際に、病棟側?は壊されてしまったようだ。 残された建物にも建築跡が残る。 橋を渡ると左手には消防署跡が残っている。 右側には、炭砿が発展すると思って建てたであろう新しい近代的なアパートが、4棟草木の中に眠っている。 建築時期は閉山する昭和45年以前のものであろうが、建ててすぐ閉山したと思われる。 この周りにはたくさんの住宅が並んでいた。 この道路の先を探索しようと思ったが、道も悪いうえに、草木に阻まれた。 平成13年2001年訪問時、このアパートを見て帰ろうとしたら、羽幌町?の職員がアパートの入口付近で、重機を動かしていたが何をしていたのだろうか? 消防署の裏は、炭鉱の施設があった付近で、背高のっぽの煙突が目立つ。 これは火力発電所の跡らしい。 ほかにもコンクリートの基礎、高い櫓があったりと、ちょこちょこと遺構が残る地である。 炭鉱病院の先の道道を進むと、2股に道が分かれる。 そのあたりから川の対岸にコンクリートの廃墟が見える。 これは、前出のアパートの前の道を進むと行けるようだ。 道が2股に分かれたところに、写真ではわかりにくいであろうが、坑口?だか排気口?と思われる遺構があった。 近くに行って確認したかったが、軽装なので草木に阻まれ近づくことはしなかった。 築別坑を後にし、道道で海側へ戻る。 道道沿いには、1941年に築別と築別炭鉱間で営業開始した羽幌炭礦鉄道跡が寄り添っており、河川には橋梁が残っている。 特徴的なこととして、戦時中全国から寄せ集めて作られたガーター橋でつくられており、橋桁は、その鉄橋の長さに合わせて作られており、形もまちまち。 戦時中の突貫工事、これは戦争遺跡ともいえるのではないでしょうか? 3つの炭鉱跡地は空知の夕張や三笠周辺の炭鉱跡とは異なり、生活感が無いゴーストタウンと呼べてしまうが閉山して30年も過ぎていることは何故か感じなかったのが不思議だった。 さらに羽幌炭砿の現在と過去を紹介したページがあります。

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