初め まして お嬢さん 西 の 国 から。 イルミナティとかの新世界秩序(NWO)は日本に何か恨みでもあ...

阿部首相が「強い憤り」って・・・: ”元”西大宮カイロ院長BLOG~

初め まして お嬢さん 西 の 国 から

アフリカから欧州への難民の流出、南スーダンをはじめとした地域武力紛争や飢饉(ききん)の発生と人々の苦難が世界的に関心を呼んでいます。 アフリカにかかわって40年以上になる勝俣誠・明治学院大学名誉教授(開発経済学、元同大国際平和研究所所長)に現状と先進国の課題について聞きました。 (山沢猛 (写真)かつまた・まこと1946年東京都生まれ。 早稲田大学卒。 フランス・パリ第一大学博士課程修了。 セネガルのダカール大学などに勤めたあと、明治学院大学国際学部教授など歴任。 著書に『新・現代アフリカ入門』(岩波新書)、『娘と話す世界の貧困と格差ってなに?』(現代企画室)など。 一つの体験を紹介します。 アメリカが2003年にイラク戦争を始める直前に、私は西アフリカのセネガルにあるダカール大学で「日本現代史からみた南北問題」という講演をして、会場で日本の憲法前文をフランス語で朗読してもらいました。 講演の後、何人かが憲法の全訳がほしいといってきました。 さらに、セネガルの公法学者で、コンゴ民主共和国の内戦後、国連の依頼で同国の憲法草案作成にたずさわった人が、「こんな立派な憲法があることを知らなかった。 ぜひ参考にしたい」と言ってきました。 憲法前文の後半は国際主義です。 「自国のことのみに専念して他国を無視してはなら」ず、「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようとつとめている国際社会において、名誉ある地位を占めたい」。 高貴といえる理想をうたっています。 私は前文と9条がいま確かな現実性をもってきていると思います。 まず、アフリカは実に多様な地理的世界だということです。 いろいろな地域の文化、歴史をもっています。 「ところ変われば品変わる」です。 アフリカ諸国は54カ国で、国連決議を無視してモロッコが占領している西サハラをのぞいて、多くが第2次世界大戦のあとに欧州の植民地から独立しました。 しかし、いまもって「最貧大陸」といわれるように、貧困や格差から抜け出せていません。 貧しい地域ほど、温暖化による干ばつや洪水などの影響を受けやすくなっています。 ソ連が崩壊し冷戦が終わった1990年代初めから、この大陸に「民主化」の波が起こりました。 独立後つづいた独裁的政権から、複数政党制と選挙の実施によって新しい統治体制をつくる動きでした。 それから20年以上になりますが、民主化によって国民生活が安定するというシナリオには程遠いのが現状です。 (写真)異常気象による集中豪雨のため馬車で村と往来するセネガルの住民=2013年(勝俣氏撮影) というのは、あの民主化は多くが欧米主導でした。 まず選挙をやるように迫り、新しい政権ができると、その国のさらなる市場開放を迫るなどということです。 選挙の実施を機会に、内戦まではいかないが、社会的な騒乱、局地的な武力対決が起きる、「ポスト選挙暴力」という造語が近年生まれているくらいです。 南アフリカは反アパルトヘイト(人種隔離政策)の運動で、内戦なくして民主的に統一した国をつくった模範的な国です。 他の多くの国は同じようにはいきませんでした。 一方、市民が自分たちの国を選んでいくという主体的な行為も、90年代終わりからでてきました。 たとえば街頭デモなどによって政権が変わった国に、西アフリカのマリ、ブルキナファソ、セネガルなどがあります。 欧米の武力介入が始まる前の「アラブの春」の国々もそういえます。 もちろん、選挙はその国民が平和な生活めざし政治を決定するチャンスです。 若者の失業の問題などは共通のテーマです。 どんな社会に住みたいかという論争による争点の明確化、そのための情報の公開、識字率の向上、独立したメディアの存在など、民主化を支える一連のインフラが必要です。 こうした分野での先進国の経験を生かした支援こそ重要です。 なぜ南スーダンに自衛隊を派遣するのかという根本があいまいな派遣でしたから、撤退は当然の結果だと思います。 そもそもあの国が困っていることで、日本しかできないことは何かという議論が起こったでしょうか。 ましてや自衛隊の武器使用の拡大などを試す場にすることなど、絶対にあってはなりません。 いまの国連PKOはかなり戦闘色がつよまっており、「第4世代のPKO」とも呼ばれます。 憲法の平和条項を使った非軍事的な支援に切り替えるのかが問われています。 赤十字国際委員会や、国際人道NGOなどとより連携した支援も重要です。 食料の自給はアフリカにとって死活問題であり、この安定供給は局地的な紛争の解決につながります。 日本はこの分野の援助で活躍できるはずです。 アフリカの食料は、キャッサバなどのイモ、トウモロコシ、コメ、麦、ヒエなどの雑穀と多種多様です。 南アメリカとことなり、単一作物の大規模農業(プランテーション)がほとんどありません。 日本と似ていて、小規模な家族経営の農業が一般的です。 農村に公的支援がほとんど回っていません。 小農経営がバラバラでなく日本のような協同組合をつくることが、アフリカ諸国でも急務です。 そのさい重要なことは、アフリカの農民は自分たちの生活を可能にしてきた地域の水、天気、土壌、植物について豊富な知識をもっています。 外部から持ち込まれるあらゆる技術は、この知識と断絶することなく、つながっていくことが農民が受け入れるカギになります。 土地の人が何を食べてどういう作り方をしているかをよく知らないといけません。 欧米・日本は、最貧大陸のアフリカに対して対等の、「ウインウイン」の関係にはなりえません。 持ち出す分を大きくしなければなりません。 この立場での日本のODA(政府開発援助)はアフリカに貢献できる有効な手段です。 さらにアフリカを舞台に、欧米・日本と、中国、ブラジルなど新興国が資源の取り合いをすることは一番避けなければならないことです。

次の

【確定申告】風俗嬢もやるべき?|風俗ガイドブック

初め まして お嬢さん 西 の 国 から

私は赤 ちゃん の時に 病気に なり、 車椅子 で生活 してい ます。 そのう え、叔 母が倒 れ、寝 たきり になり 、一緒 に暮ら してい ます。 波瀾万 丈な人 生です。 私は保 育園の 頃から 、小説 を書く のが好 きて、 頑張っ て書い ていま す。 いつか 原作者 になる のが夢 です。 西岡さ んのド ラマも 見てい たので 、肉離 れをし た話、 ビック リでし た。 ワーク ショッ プ行き たいで すが、 今の生 活だと 無理な ので、 せめて コメン トで気 持ちを 伝えた く、コ メント しちゃ いまし た。 また来 ます!• 連 ドラ1 話当り ギャラ を幾ら? か決 めた後 、テレ ビ局と 事務所 側の人 間が同 席の下 、出演 承諾書 にサイ ンを貰 い、正 式に出 演が決 定、漸 く、ド ラマの 製作に 漕ぎ着 き、監 督・脚 本家・ 俳優・ プロデ ューサ ー等が 出揃っ た制作 発表の 記者会 見が行 われる のが、 一般的 な通例 だと聞 いた事 があり ます。 ドラ マの話 の流れ は、視 聴率に 左右さ れる水 商売的 な要素 が大き いので 、大概 おおよ その所 の部分 で妥協 すると 予め、 オダ ギリジ ョーの ドラマ の打ち 切りの 例もあ りまし たが 9〜12 話位を 念頭に 脚本家 が執筆 するみ たいで すね。

次の

入籍後初めてのお正月の帰省

初め まして お嬢さん 西 の 国 から

西暦四世紀末の大王。 仲哀天皇との間の第四子。 母后の朝鮮征伐後、筑紫で生まれる。 神功三年、皇太子に立てられ、同六十九年、母后の崩後、即位。 景行天皇の曾孫仲姫を皇后とする。 在位中は朝鮮半島からの文物技術の導入、大和・河内地方の開発などを進めた。 四十年、末子を日継と定める。 四十一年、崩御。 陵は大阪府羽曳野市の誉田山古墳に比定されている。 応神天皇御製と伝わる歌は古事記に五首、日本書紀に四首ある。 以下には古事記の全五首、日本書紀の二首を掲げる。 ある時、天皇、 近淡海 あふみの国に越え 幸 いでます時、 宇遅野 うぢのの上に御立たして、 葛野 かづのを 望 みさけまして歌はしけらく 千葉の 葛野 かづのを見れば 百千 ももち 足 だる 家庭 やにはも見ゆ 国の 秀 ほも見ゆ 【通釈】葉がたくさん繁る葛 かづら の名に因む、葛野を見渡すと、豊かに満ち足りた民の家々が見えるよ。 山々に囲まれた、住みよい平原の土地が見えるよ。 「葉がたくさん繁る」という意を籠めた讃め詞であろう。 具体的には山に囲まれた平坦な広い土地を言う。 【補記】古事記中巻。 日本書紀巻第十にも同じ歌が載っている。 【主な派生歌】 国見山かすみきらひて遥々に海原も見ゆ国のほも見ゆ 大御饗 おほみあへを献る時に、その 女 むすめ 矢河枝比売 やかはえひめに大御 酒盞 さかづきを取らしめて献りき。 ここに天皇、その大御酒盞を取らしめながら、御歌よみしたまはく この蟹や いづくの蟹 百伝 ももづたふ 角鹿 つぬがの蟹 横去らふ いづくに至る 伊知遅 いちぢ島 美 み島に 著 とき 鳰鳥 みほどりの 潜 かづき息 衝 づき しなだゆふ 佐佐那美道 ささなみぢを すくすくと 我が 行 いませばや 木幡 こはたの道に 遇はしし 嬢子 をとめ 後方 うしろでは 小蓼 をだてろかも 歯並 はなみは 椎菱 しひひしなす 櫟井 いちひゐの 丸邇坂 わにさの 土 にを 初土 はつには 膚 はだ赤らけみ 底土 しはには に 黒 ぐろき故 三栗 みつぐりの その中つ 土 にを 頭著 かぶつく 真火 まひには当てず 眉 まよ 画 がき 濃 こに書き垂れ 遇 あはしし 女 をみな かもがと 我 わが見し児ら かくもがと 我 あが見し児に 現 うたたけだに 向かひ 居 をるかも い 副 そひ 居 をるかも 【通釈】「そこ行く蟹さん、どちらの蟹さん?」「遠い遠い、敦賀の蟹だよ」「横歩きして、どちらへお行き?」「伊知遅島、美島に着いたら、カイツブリみたいに一息ついて、楽浪 ささなみ へ向かう道を、どんどん俺が歩いて行ったら、木幡の道で、出逢ったお嬢さん。 後ろ姿はすらりとして楯のよう。 歯並びは真っ白で粒揃い、椎か菱の実のよう。 櫟井の丸邇坂の赤土を掘るだろ、初め出て来る土は色が赤っぽくて、底の方の土は黒っぽいので、真ん中の良い土を、頭を突くように、直火にはあてずに炙 あぶ って、 黛を作って眉を描いて、濃く切れ長に描いて、俺様とばったり出逢った美女よ。 ああもしたいと思って、俺様が見たお嬢さん、こうもしたいと思って、俺様が見たお嬢さんと、いま楽しい宴の席で、向かい合っているんだよ、寄り添っているんだよ」。 鳰鳥は「にほどり」とも。 カイツブリのこと。 「ささなみ」の枕詞的修飾句か。 琵琶湖の西を通る。 坂あるいは峠の名か。 天理市に和邇の地名が残る。 原文は「宇多多氣陀邇」。 「うたた」は「うつつ」に通う語か。 【補記】古事記中巻。 近江国行幸の時、応神天皇は木幡村(山城国宇治郡)で美しい少女に出逢った。 名を問うと、宮主矢河枝比売 やかわえひめ と名乗った。 天皇は「明日帰って来たら、お前の家を訪ねよう」と言った。 比売が家に戻って父にこの話をすると、父はその人が天皇であると察知し、家を飾って饗宴の席を設けた。 翌日、天皇は約束通り矢河枝比売の家を訪問した。 比売が盃を献ると、天皇はそれを受け取る前にこの歌を詠んだ、という。 その後、二人は結婚し、をもうけた。 天皇 豊明 とよのあかり聞こし 看 めす日、髪長比売に大御酒の柏を取らしめて、その太子に賜ひき。 ここに御歌よみしたまはく いざ子ども 野蒜 のびる摘みに 蒜 ひる摘みに 我が行く道の 香ぐはし 花橘は 上 ほつ枝には 鳥 居 ゐ枯らし 下枝 しづえには 人取り枯らし 三栗 みつぐりの 中つ 枝 えの ほつもり 赤ら 嬢子 をとめを いざささば 好 よらしな 【通釈】さあみんな、野蒜を摘みに、蒜を摘みに行こう。 俺たちが行く道の、かぐわしい橘の花は、上の方の枝は、鳥がいて枯らしてしまうし、下の方の枝は、人が取って枯らしてしまうから、真ん中の枝の、まだ熟しない実がいい。 その実みたいに顔色の美しいお嬢さんを、さあ一緒に寝ようと誘えば、よいだろうよ。 野生の香草の類。 アサツキ・ノビルなど。 宣長古事記伝が「ふほみつぼまり」の約で、「わづかになり初たる橘ノ實の状」のこととするのに従った。 「いざさす」を「人を誘 いざな ひ起 たつ る」の意とする宣長説に従った。 【補記】古事記中巻。 応神天皇は日向国の髪長姫の噂を聞いて召し上げようとした。 ところが、皇太子の大雀命が難波の港に着いた姫を見てその美しさに感じ入り、建内大臣に「あの姫は、私に賜わるよう、天皇にお願いしてくれ」と頼んだ。 大臣からこの話を聞いた天皇は、饗宴の時、上の歌を詠んで息子に姫を与えることを許したという。 日本書紀にもよく似た歌が載る。 また御歌よみしたまはく 水 渟 たまる 依網 よさみの池の 堰杙 ゐぐひ打ちが さしける 知 しらに 蓴 ぬなは繰り 延 はへけく 知 しらに 我が心しぞ いやをこにして 今ぞ悔しき 【通釈】水が溜まっている依羅の池の、杙を打って堰関 いぜき を支えているように、標識になる杙を打ってあるのを知らずに、池の蓴菜 じゅんさい を手繰って手を延ばすように、縄を延ばして囲っているとも知らずに、 俺のものになる前に、あの娘が息子の心を占めていたとは。 俺の心はすごく愚かだったとわかって、今になって悔しいよ。 【補記】古事記中巻。 杙を挿すのも、縄を延 は えるのも、占有権を主張することを意味した。 息子が髪長姫を自分のものにしたがっているのを知らずにいた、ということの譬えとして言っている。 秦の 造 みやつこの 祖 おや 漢直 あやのあたへの祖、また酒を 醸 かむことを知れる人、名は 仁穂 にほ、亦の名は 須須許理 すすこりら、 参 まゐ渡り来つ。 かれ須須許理、大 御酒 みきを醸みて献りき。 ここに天皇、この献れる大 御酒 みきにうらげて、御歌よみしたまはく 須須許理 すすこりが 醸 かみし 御酒 みきに われ 酔 ゑひにけり 事和酒咲酒 ことなぐしゑぐし われ酔ひにけり 【通釈】須須許理が醸造してくれた酒に、俺は酔っちまったよ。 心慰める酒、心楽しい酒に、酔っちまったよ。 ヱグシは飲めば微笑まずにいられない酒の意であろう。 クシはクスリなどと同根の語で、霊妙なもの。 ここでは酒のこと。 【補記】古事記中巻。 夏 四月 うづきに、 兄媛 えひめ、大津より船発ちして 往 まかりぬ。 天皇、 高台 たかどのに 居 ましまして、兄媛が船を 望 みそなはして、御歌よみしたまはく 淡路島 あはぢしま いや 二 ふた並び 小豆島 あづきしま いや 二 ふた並び 宜 よろしき 島々 しましま 誰 たか た去れ 放 あらちし 吉備 きびなる 妹 いもを 相 あひ見つるもの 【通釈】淡路島が、仲良く並んでいるよ、小豆島と、ふたつ仲良く並んでいるよ、どれも結構な島だなあ。 それにしても誰が遠く連れ去ってしまったのだ、吉備の生れの妻を、仲良く一緒に住んでいたのに。 【補記】日本書紀巻第十。 天皇が難波の大隅宮にいた時、高殿に登って眺望していると、妃の兄媛が西の方を眺めながら溜息をついている。 どうしたのかと天皇が問うと、媛は「吉備の国の両親が恋しくて、西の方を眺めるたびに悲しくなるのです。 どうか、しばらく実家に帰してください」と言う。 天皇は媛の親を思う情に感心し、帰郷を許した。 淡路の海人を水夫としてあてがい、大津から船出させた。 兄媛を乗せた船が出航するのを高殿から眺めながら、天皇の詠んだのが、上の歌であるという。 初め 枯野 からのの船を鹽の薪にして焼きし日に、余りの 燼 もえくひあり。 則ちその燃えざることを 奇 あやしびて献る。 天皇、 異 あやしびて琴に作らしむ。 その 音 ね、さやかにして遠くきこゆ。 この時に、天皇、 御歌 みうたよみたまはく 枯野 からのを 鹽 しほに焼き 其 しが余り 琴に造り 掻 かき 弾 ひくや 由良 ゆらの 門 との 門中 となかの 海石 いくりに 触れ立つ なづの木の さやさや 【通釈】枯野を焼いて塩を作り、その焼け余りの材で琴を造り、弾いてみるや、由良の瀬戸の暗礁に、ゆらゆら揺れて立つ、水に濡れた木のように、冴え冴えとした音をたてて鳴ったよ。 【補記】日本書紀巻第十。 伊豆の国から献上された高速官船「枯野」が朽ちてしまったので、天皇はなんとかこの名を後世に伝えたいと思った。 群卿は協議して、枯野の船材を薪として塩を焼くことにした。 焼け残った余りの材から、天皇は琴を造らせた。 弾いてみると冴えた音色を出したので、上の歌を詠んだという。 更新日:平成15年03月21日 最終更新日:平成21年04月03日.

次の