鳴か ぬ なら 殺し て しまえ ホトトギス。 鳴くまで待とうホトトギス

ホトトギス3つの俳句『鳴かぬなら~』個性がおもしろい!戦国三武将の業績や性格の象徴!

鳴か ぬ なら 殺し て しまえ ホトトギス

鳴かぬなら殺してしまえホトトギスって織田信長の名言なの? 鳴かぬなら殺してしまえホトトギスって織田信長のことですけど、 他にもありますよね。 豊臣秀吉は、鳴かぬなら鳴かしてみせようホトトギス。 徳川家康は、鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス。 でも、この言葉って本人が言った名言なんでしょうか? 実は、このホトトギスの言葉は 後世の作り物です。 これらの川柳は、江戸時代後期に現在の長崎県の肥前(ひぜん)国。 平戸藩主の松浦静山の随筆「甲子夜話(こうしやわ)」に書かれているんです。 鳴かないホトトギスをどうするかで、 天下人の3人の武将たちの性格を表した川柳として有名なんですよ。 鳴かぬなら殺してしまえホトトギスは、 すぐに殺すことで織田信長の短気なところと気難しさを表しています。 鳴かぬなら鳴かしてみせようホトトギスは、 鳴かないホトトギスを鳴かせてみせる豊臣秀吉のひとたらしさ。 そして、好奇心旺盛なところを表しているんですね。 鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギスは、 徳川家康の耐えに耐えた忍耐強さを表現しているんだとか。 簡単で3人の性格がよく伝わりますよね。 とても分かりやすい表現だと思います。 でも、本当に織田信長は短気で気難しい性格だったのでしょうか? 織田信長の性格って?性格にまつわるエピソード 天下人の1人である、織田信長。 天下人である人が本当に短気で気難しい性格で天下が取れるんでしょうか? 織田信長にまつわるエピソードを見てちょっと性格を知ってみましょう! 〇織田信長は尾張の大うつけ! 織田信長の少年時代は尾張の大うつけと呼ばれていました。 常識がなかったり、バカげた行動をする人のことを「大うつけ」と呼んでいたんですね。 その行動は、確かにすごいものばかりで現代でもやったらかなり怒られるものも! 柿などを食べながら、だらしなく町を上半身裸格好で歩くいたり、 町の仲間達と狩りや相撲などをして遊んだそうです。 父の葬儀で遅刻した上に、いつものラフな格好で登場。 そして、焼香を位牌に投げつけ帰ってしまったとか。 信長がこんなんなので、母親は弟ばかりに愛を注いだそうです。 確かに当時の殿様の子供ですから、礼儀正しさは重要ですよね。 それができていなかった信長はの大うつけと呼ばれても仕方がないかと。 〇我慢強い努力家!?織田信長 そんな、大うつけと呼ばれた織田信長ですが、実は我慢強い努力家でもあります。 信長は、竹槍の訓練試合を見て周囲が驚く新しい戦法を発明していました。 それは槍をふつうの物より長いものを作ること。 戦国時代の槍の長さの常識は、一間半(約2. 7メートル)。 ですが、信長は三間半(約6. 4メートル)と言う長さに改めたそうです! 一見単純に見えますが、 信長の研究と努力の賜物なのだそうです。 また、織田信長が天下布武を出す前、 当時力があった武田信玄や上杉謙信に贈り物を送っていた時期があるんです! しかも、武田信玄に「兵馬の法、政治の道を教えてもらいたい!」。 そうやって武田信玄と戦う気がないこと伝えたんだとか。 新しい戦法を発明したり、強者に礼儀を見せることで戦闘を回避する等、 ただの大うつけでしたら絶対にしないでしょうね。 時期には強者に対し礼儀を尽くすことでことができた、とても慎重な戦国武将です。 〇人間らしい優しい面も もちろん、信長にも優しい面があります。 今の関ヶ原町山中に「山中の猿」の呼ばれている男が暮らしていたそうです。 彼は体に障害があり、物乞いをして生きていました。 その道を頻繁通っていた信長は、この男を見かけるたびに可哀想だなと思っていたみたいです。 ある時、信長は山中村の人々を集めて「山中の猿」に木綿20反を与えたそうです。 そして、一言。 「これを金に換えて、この者に小屋を建ててやれ。 それから、この者が飢えないように毎年麦や米を施してくれれば、おれはとても嬉しい」 そしてその場に居合わせた人々は皆、涙を流しました。 織田信長イケメンじゃないですか!! どうですか?エピソードを聞いて印象が変わりましたか? また、比叡山焼き討ちも織田信長は理由もなしに焼討したのではなかったそうです。 当時の比叡山は、腐敗堕落した僧兵・僧達が多数いたが、 天皇ですら一歩引く権力を持っていたので誰も立ち向かえない状況だったから。 事前に延暦寺側に言っていた条件を、延暦寺側が破った制裁。 そもそも、焼き討ちなんてなかった。 様々な説がありますが、どうやら焼き討ちしたとしても何かしらの理由はあったみたいです。 今までのエピソードを見ても、ホトトギスのたとえのような短気で冷酷な人ではなさそうですよね。 どちらかというと個人的には、かなり合理的で時に人情に溢れた人間だったと思います。 短気で冷酷な人なら、そもそも部下がついてきませんしね。 何かしらの魅力が無ければ、とっくに暗殺されていたでしょう。 なので、「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」な人間ではないと思います!!.

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「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」は本当に織田信長が言った言葉なん...

鳴か ぬ なら 殺し て しまえ ホトトギス

【俳句「ホトトギス」アラカルト】 また、ホトトギスをつかった俳句も有名ですね。 「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」 織田信長 比叡山の焼き討ち、 伊勢長島一向一揆の虐殺など、 信長の残忍さと短気な性格がよくわかる句です。 「鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス」 豊臣秀吉 短気な信長に機転をきかせて仕えた秀吉の、 知恵者ぶりがわかる句です。 敵地にある を築いた腕前があります。 「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」 徳川家康 信長に息子を殺せと命令され、 秀吉に三河から関東の江戸へ移転を命じられるなど、 苦難続きで秀吉の天下取りを支えてきた家康が、 晩年に天下取りの野望を実現した話がよくわかる句です。 この三句は性格判断によくつかわれますが、 あなたはどの句が好きですか? いやいや、どの性格が自問自答してみてください。 【徳川家康遺訓】 徳川家康62歳の時にしたためた遺訓があります。 一、人の一生は、重き荷を背負うて遠き道を往くが如し、 急ぐベからず。 一、不自由を常と思えば不足なし。 一、心に望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。 一、堪忍カンニン は無事長久の基。 一、怒りを敵と思え。 一、勝ことばかり知りて負るを知らざれば、 害その身に至る。 一、己を責めて、人を責めるな。 一、及ばざるは過ぎたるに勝れり。 それに対して、 「過ぎたるは猶 なお 及ばざるが如し」 という言葉もあります。 これは 「やりすぎることはやり足りないことと 同じようによくない」の意味です。 東洋思想は中庸(中道)概念が根本です。 やり過ぎない!やり足りない! 昨今の日本の外交がマドロコしく感じるのは、 私だけでしょうか!? ですが、この家康遺訓が、 264年間、 と称される を続けることができ、 世界に誇る 江戸文化の華が咲いたのですね。 【光秀のホトトギ ス】 明智光秀にもホトトギスの句があるのを御存じでしょうか? 光秀は 「鳴かぬなら 放してしまえ ホトトギス」と 「鳴かぬなら わたしが鳴こう ホトトギス」 があります。 前の句は捕らわれの身からホトトギスを 自由にする光秀の優しさが感じられます。 後の句は、本能寺の変を現した句だとしたら 誰も暴走する主君(信長)を 止められないのなら、私が止めてみせる ! と、いった背景が感じられますね。 明智光秀が急に謀反をおこしたのは、 信長が天皇家にとって代わろうとした野望を知り、 有力公家衆に押されて裏切りに走ったという説があります。 だとすると、意味が深い句に思えてきます。 天下餅の短歌とホトトギスの句は作者が誰かわかっていません。 江戸時代後期にかかれた 『甲子夜話』(肥前の平戸藩主・松浦静山の随筆)に 三英傑の性格をあらわす句として紹介されていて、 九州平戸に伝わる詠み人知らずの句だそうです。 名を伏せたのは徳川幕府の時代に 家康を批判する句なんて公表したら 大変なことになるからでしょうか… ところで、実は三英傑の句のあとにこんな四番目の句がありました。 鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス 鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス 鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス いや待てよ 鳥屋に売ろう ホトトギス 急に落語のようなオチがついて面白いですね。 【今日の一言】 数秒間「心を空っぽにする」これが人士のコツ 中野東禅(曹洞宗僧侶) 何か事を起こそうとするときには、 この人生のコツを身につけると 俯瞰フカン して状況をみることができます。 一日に一度の 「心を空っぽにする」…思考しない瞑想法 を、お勧めします。 関連記事 環境に右往左往することなく 家康のような思考で 明日からの人生に、 心穏やかな日々が 訪れることでしょう。 この世に生きた証しを残す 人生を送りたいものです。 あなた様の幸せな日々に、お役に立てれば幸いです。 最後までお読みいただきありがとうございます。 『灰色の状態から脱皮したスキルのヒストリー』 の無料レポートです。 あなた様の 自己実現に お役に立つヒントがきっと見つかると存じます。

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ドライな武将「鳴かぬなら そういう種類の ホトトギス」

鳴か ぬ なら 殺し て しまえ ホトトギス

鳴くのは鳥の勝手なのだが・・・・・・。 明智光秀が初めて主人公になる大河ドラマ『麒麟がくる』の注目度は高い。 を上梓したばかりの三重大学・藤田達生教授もドラマの展開に期待する。 「信長の時代は、新旧真逆の価値観が社会を覆い、両者が激しく対立していました。 本能寺の変を起こした光秀は、信長側からみれば謀反人ですが、室町幕府将軍・足利義昭側からみれば忠臣でした。 これまでは信長側の視点からのドラマ作りが多かったのですが、光秀側の視点からドラマがどう描かれるのか興味深いです」 久方ぶりの本格戦国大河ということで、織田信長(演・染谷将太)、豊臣秀吉(演・佐々木蔵之介)、徳川家康(演・風間俊介)の三英傑が勢ぞろいする。 三英傑といえば、その性格をよく表しているといわれる〈鳴かぬなら~〉の歌がある。 鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス (信長) 鳴かぬなら 鳴かせてみようホトトギス (秀吉) 鳴かぬなら 鳴くまで待とうホトトギス (家康) あまりにも有名な三首だが、いつ誰が詠んだ歌なのかは、実はわかっていない。 現在、わかっている範囲で、もっとも古くこの三首が紹介されているのが、江戸時代の旗本で勘定奉行、南町奉行を務めた根岸鎮衛(ねぎし・やすもり)が著した随筆集『耳嚢』(みみぶくろ)。 天明年間(1781~1789)から約30年にわたって綴られたものをまとめたものだ。 ホトトギスの歌は、こんな感じで紹介されている。 連歌 その心 自然に 顕わるる事 (歌には、詠んだ人の心情がそのままあらわれるの意) 古物語にあるや、また人の作り事や、それは知らざれど、信長、秀吉、恐れながら神君ご参会の時、卯月のころ、いまだ郭公を聞かずとの物語いでけるに、 信長、 鳴かずんば 殺してしまえ時鳥 とありしに秀吉、 なかずとも なかせて聞こう時鳥 とありしに、 なかぬなら なく時聞こう時鳥 とあそばされしは神君の由。 自然とその温順なる、又残忍、広量なる所、その自然をあらわしたるが、紹巴もその席にありて、 なかぬなら 鳴かぬのもよし郭公 と吟じけるとや。 『耳嚢』の作者・根岸鎮衛は、古い物語に記されている話なのか、作り話なのかわからないが、と断りを入れながら、信長、秀吉、家康に加えて連歌師の里村紹巴(じょうは)が一堂に会していたとする。 「そんなことあるわけがない」とわかってはいても、三英傑が、順番にホトトギスの歌を詠む情景を想像するだけで楽しくなる描写だ。 旗本で奉行職を歴任した根岸だけに、家康に対して、〈恐れながら神君〉と最大限に敬意を表していること、家康は温順で、信長は残忍、秀吉は広量と評しているのも興味深いが、明智光秀が主人公の『麒麟がくる』が放映されるのを受けて、注目されるのが、この場に、連歌師の里村紹巴が同席しているとされていることだ。 里村紹巴といえば、本能寺の変で、明智光秀が亀山城を出陣する数日前に張行した連歌の会(いわゆる「愛宕百韻」)の参加者のひとり。 旧作大河『国盗り物語』(1973年)では、光秀が〈時は今 雨が 下知る 五月かな〉と発句を詠んだ瞬間に、里村紹巴が、光秀謀反の決意に気づいたように描写されている。 根岸鎮衛がなぜこの場に里村紹巴が同席している設定にしたのか、専門家による解明が待たれる。 こちらは、文政4年(1821)から天保12年(1841)年の間に綴られたもので、前出の『耳嚢』より新しい時代に描かれたものだ。 夜話のとき或人の云けるは、人の仮託に出る者ならんが、其人の情実に能(よ)く恊(かな)へりとなん。 郭公を贈り参せし人あり。 されども鳴かざりければ、 なかぬなら殺してしまへ時鳥 織田右府 鳴かずともなかして見せふ杜鵑 豊太閤 なかぬなら鳴まで待よ郭公 大権現様 このあとに、二首を添ふ。 これ憚る所あるが上へ、固(もと)より仮託のことなれば、作家を記せず。 なかぬなら鳥屋へやれよ ほとゝぎす なかぬなら貰て置けよ ほとゝぎす 同じホトトギスを「時鳥」「杜鵑」「郭公」と書き分けているのは、大名きっての文筆家である松浦静山の遊び心だろうか。 『耳嚢』よりもあっさりした書き方だが、〈憚るところあるが上〉と記された俗っぽい二首は、十一代将軍・徳川家斉作という説もある。 事実とすれば、大名だけではなく江戸城にまで三首の歌が届いていたことになる。 いずれにしても、現代の私たちは、『耳嚢』で〈神君〉、『甲子夜話』でも〈大権現様〉と家康ファーストの時代に描かれた「徳川史観」による記述であることを銘記しておきたい。 〈殺してしまえ〉と、その性格が残忍であるかのように表現される信長。 もしかしたら、それが「徳川史観」による印象操作だとしたら? 何はともあれ、光秀目線で描かれる『麒麟がくる』でどのような信長が描かれるのか、注目したい。

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