フランス 革命 処刑。 恐怖政治

フランス革命で貴族の子供は処刑されたのでしょうか?

フランス 革命 処刑

フランス革命と言えば、フランス国民によって1789年に起き、当時の国王夫妻・ルイ16世とマリー・アントワネットが処刑されたもの、というイメージではありませんか?「ベルサイユのばら」で知った方も多いかもしれません。 確かにそのイメージも間違ってはいませんが、それに至るまでのプロセス、また、国王夫妻の死後も続いた革命の様子とその終わりについては、いかがでしょうか。 王権を打倒して平和が訪れたかと言えば、そうでもなかったんですよ。 その頃のフランスの混乱の様子を、今回は主な登場人物と共にご紹介しましょう。 フランス革命の成果とその陰の悲劇を知っていただければと思います。 フランス革命以前の状況 フランスを支配していたのはブルボン朝という王家で、太陽王と呼ばれ、強大な王権の元に絶対王政という体制を敷いていたルイ14世の頃に全盛を迎えていました。 ルイ16世はルイ14世の曾孫・ルイ15世のさらに孫に当たります。 しかし、ルイ16世が即位した18世紀末になると、絶対王政の流れが少しずつ崩れていきます。 まず、1776年にアメリカが独立革命でイギリス支配から独立しました。 市民が自分たちの手で自由を勝ち取ったのです。 加えて、ルソーやヴォルテールといった思想家たちによる啓蒙思想が広まっていきました。 啓蒙思想とは、支配者(王)と被支配者(臣下、民衆など)の関係を否定し、人は平等であるという考えが根底にありました。 そして、人々が自分たちで社会を作ろうと目覚め始めていたのです。 当時のフランスの社会体制は、「アンシャン・レジーム」と呼ばれ、3つの身分に分かれていました。 第一身分が聖職者、第二身分が貴族、そして第三身分が市民や農民だったんです。 日本でも士農工商なんてありましたよね。 けれど、それよりももっと厳格なものだったんです。 そのため、第三身分の人々の不満は蓄積していったのでした。 そこへ、アメリカ市民が革命を起こして自由な国を造ったというのですから、影響されないわけがありません。 フランス革命の背景 ルイ16世の頃のフランスは、実は超赤字で国家がとても困窮していました。 というのも、ルイ14世やルイ15世が戦争をしまくったり贅沢をしすぎたりしたせいで、お金が無くなってしまったんです。 増税しようにも、もう民衆からは取りすぎていたほどだったので、さすがにそれは無理でした。 そこで、ルイ16世は、免税特権のあった第一・二身分にも税を課そうとしたんです。 ところが、それまでの特権を無くしたくない第一・二身分は猛反発。 このプランは頓挫していまいました。 加えて、この頃にアイスランドのラキ火山の大噴火がヨーロッパ中の天気に深刻な影響を与えていました。 噴煙で日照量が減り、農作物が不作となって飢饉が起きてしまったんです。 とにかく収入をどうにかしなくては…と考えたルイ16世は、すべての身分の代表からなる議会「三部会」を招集して課税の賛否を決めることにしました。 ところが、これが40日経っても結論が出ません。 特権階級と第三身分の議論は全然かみ合わなかったのです。 球戯場の誓い、新たな議会の発足 そこで、第三身分の代表たちはヴェルサイユ宮殿内の球戯場に集まり、新たな議会「国民議会」の発足を宣言しました。 これが「球戯場の誓い」と呼ばれるものです。 ちなみに、テニスコートの誓いと呼ばれることもありましたが、これは誤訳だとも言われていますよ。 ルイ16世は混乱を収拾するため、やむなく国民議会の成立を認めます。 しかし黙っていないのが第一・二身分の人たち。 彼らは、第三身分に圧力をかけようと、王に軍隊の招集を求めました。 そして、パリに向かって2万もの兵が集まってきます。 危機感と不満が頂点に達した民衆たちは、ついに行動を起こしたのでした。 革命の始まり、バスティーユ牢獄襲撃 国の財政改革のため、ルイ16世は財務長官に民衆からの人気が高いネッケルを任命していました。 しかし彼が罷免されたことで、民衆の怒りにさらに火がついたんですね。 そして、1789年7月14日、民衆はパリのバスティーユ牢獄を襲撃しました。 これがフランス革命の始まりです。 ちなみにこのバスティーユ牢獄、政治犯や精神病者を収容する施設でした。 あのサド侯爵も、革命の直前までここにいたそうです。 パリの人々が立ち上がったことで、地方にもこの動きが波及し、農民は領主を襲って財産を奪いました。 ここで、国民議会は封建的特権の廃止を宣言して領主と農奴の身分関係を無くし、フランス人権宣言を発表したのです。 この人権宣言の基本原則は、現在の各国の憲法にも通じます。 人間の自由と平等、人民主権、言論の自由、立法・司法・行政の三権分立などですね。 王が主体となって政治を行ってきた時代から、一歩前に進み出したというわけです。 ところが、国民議会の宣言をルイ16世は認めませんでした。 というのも、王妃マリー・アントワネットら特権階級の保守派は第三身分を見下しており、そうした声を王は止められなかったんです。 王が弱かったのか、保守派が強すぎたのか…。 そんな現状に立ち上がったのは第三身分の男たちだけではありません。 次に声を挙げたのは、女性たちでした。 女性は強し!ヴェルサイユ行進 ラキ火山の噴火の影響での凶作や、政情不安定によって物価は上昇し、特にパンの原料となる穀物類の価格の急騰は、人々の家計を直撃していました。 そんな中でも、王侯貴族は豊かな生活を送っていたのですから、一般市民には認められるわけがありません。 そして、家を守る主婦たちをはじめとした数千人が、「パンをよこせ!」と叫びながら、王のいるヴェルサイユ宮殿へと行進を開始したんです。 この一部が暴徒化したため、慌てたルイ16世は人権宣言を承認しました。 そして、怒りに燃えた民衆によって、国王一家はパリのテュイルリー宮殿(現在のルーヴル美術館の隣にあった宮殿)へ連行され、監視下に置かれることとなったのです。 これが1790年のことで、この時に現在のフランス国旗が革命の旗となったんですよ。 赤と青は革命軍が帽子につけていたバッジの色で、白はブルボン朝のシンボル・白百合の色でした。 一応は、まだこの時は王家も支持されていたわけです。 王が逃亡!?ヴァレンヌ事件 革命が起き始めたとはいえ、すべての人が王を否定しているわけではありませんでした。 球戯場の誓いの中心人物でもあったラファイエットやミラボーたちは、王を立てて憲法のもとに政治を行う立憲王政派で、特にミラボーなどは王政の存続のため、急進派との調整役を担っており、王にも信頼されていたんです。 しかしそのミラボーが急死してしまったので、ルイ16世は他の革命派を信用できず、密かに反革命の思いを抱き始めていました。 そこで、マリー・アントワネットが実家のオーストリアへの亡命をすすめてきたんですよ。 つまりは、当時ヨーロッパで絶大な力を誇ったオーストリア・ハプスブルク家の力で、革命をつぶしてしまえということだったんです。 ベルばらにも登場する彼女の愛人であるスウェーデン貴族フェルセンの献身的な協力もあり、亡命計画は着々と進んでいました。 しかし、そこはマリー・アントワネット。 馬車や服を新調すると言いだし、計画の実行は1ヶ月以上も遅れてしまいました。 1791年6月20日の深夜、ようやく国王一家は変装してテュイルリー宮殿を抜け出しました。 翌朝には気づかれ、捜索隊が彼らを追います。 早く逃げればいいものを、国王一行はゆっくりと優雅に食事しながらの道中でした。 しかも馬車が豪華すぎて目立ちまくり、誰がどうみても王様だとバレバレだったんです。 当たり前ですが、さっさと捕まり、パリへ連れ戻されてしまいました。 これがヴァレンヌという場所だったので、ヴァレンヌ事件と呼ばれます。 これは、単なる国王逃亡未遂事件ではすまされませんでした。 王が逃げ、外国の力を借りて攻め込んでくるという認識を民衆に持たせてしまったんですね。 つまりは、王は市民の敵ということになったんです。 そして、今まで王を支持する王党派だった人々までが、態度を翻してしまったのでした。 王を幽閉、8月10日事件 フランス革命を聞きつけた周辺諸国、絶対王政の国であるオーストリアやプロイセン(現ドイツ~ポーランド付近)は、フランスへ攻め込んできます。 一応、フランス国内でも1791年憲法というものが制定され、立憲君主制となりましたが、これは形ばかりのものでした。 1792年、ついにオーストリア・プロイセン連合とフランス革命戦争が起こります。 フランス軍は負けまくりました。 指揮官が貴族(つまり特権階級)だったので、あまりやる気がなかったのと、マリー・アントワネットが情報を敵側に漏らしていたためです。 パリ陥落の危機に瀕した革命軍ですが、各地に祖国を守ろうと檄を飛ばすと、続々と義勇兵が集まってきました。 その時、マルセイユの義勇兵が歌っていた「ラ・マルセイエーズ」こそが、現在のフランス国家なんですよ。 パリに集まった義勇兵たちや市民は、革命軍が負け続けるのは王と王妃のせいだと怒りに燃えていました。 そして、8月10日にテュイルリー宮殿を襲い、王権を停止し、国王一家をタンプル塔に幽閉してしまったのです。 これを8月10日事件と言います。 王と王妃を処刑!歓喜に沸く民衆 9月になると、革命軍は盛り返して敵国軍を押し戻し始めました。 それに伴い、義勇兵に多かった下層民の発言権が増していきます。 彼らは急進左派のジャコバン派を支持しており、その中心人物でもあるロベスピエールやマラー、ダントンらが政権の舵取りとなっていきました。 そして、男性普通選挙によって新たな議会「国民公会」が成立すると、9月21日に王政の廃止が決定し、第一共和政が成立となります。 これによってルイ16世はルイ・カペーという一般人となってしまいました。 それからすぐ、共和政府は前国王に死刑判決を下し、1793年1月21日、ルイ16世はパリ革命広場(現コンコルド広場)でギロチンによって処刑されたのです。 その後、10月6日にはマリー・アントワネットも同様にギロチンにかけられました。 王政を倒したと、人々は歓喜に沸きました。 しかし、革命はまだ終わっていなかったんです…。 ジャコバン派の独裁と恐怖政治 国民公会で力を握ったジャコバン派、特にロベスピエールは、権力を掌握すると反対派を徹底的に排除し始めました。 王党派に属した革命の初期の中心人物ラファイエットはベルギーに逃亡し、同じジャコバン派内でも意見が違ったりすればみな処刑されてしまったんです。 ロベスピエールらは公安委員会や革命裁判所などをつくり、弁護人や証人なしの裁判をどんどん行い、反対派を次々にギロチンへ送りました。 これを恐怖政治と呼びます。 フランス語では「Tereur(テルール)」といい、「テロ」の語源となったほどなんですよ。 自分たちの理想とする急進的な共和政を成就させるために、手段を選ばない彼らのやり方には、やがて反発が積もっていったのでした。 そして、再び革命が起きたんです。 テルミドールのクーデタ 恐怖政治を続けるロベスピエールらに対し、同じジャコバン派内でも反発は高まっていきました。 あまりに厳しいやり方は、正直、戦時下の日本と同じようなものだったんですよ。 これでは人心も離れていきますよね。 1794年7月27日、フランス革命暦テルミドール9日、国民公会でロベスピエール逮捕の決議が通りました。 そして翌日、彼を含む22人が逮捕され、即座に処刑されたのです。 恐怖政治は終焉を迎えました。 何事も、行き過ぎればその反動が来るという典型的なパターンです。 その後、1795年に穏健派による総裁政府が樹立され、5人の総裁がトップに立って政治を運営することになりました。 財産資格に基づく制限選挙(国民公会の時は無制限でした)を採用しましたが、これは、穏健派にはそれなりの資産を持つブルジョワが多かったためです。 それは同時に、急進的なジャコバン派の再来や、極右となる王政復活を阻止する両方の意味を持っていました。 とはいっても、右寄りの王党派や超左派など反対派の動きもあり、政情はいまだ不安定だったんです。 そこに現れたのが、ナポレオン・ボナパルトでした。 ナポレオンの登場 軍人だったナポレオンは、王党派の蜂起を鎮圧したり、イタリアやエジプト遠征で大きな成果を挙げたりしており、民衆からの人気は絶大でした。 情勢が安定しない時、人々は強い指導者を望むものですよね。 ナポレオンは、人々のまさに望んだヒーローだったんです。 彼は1799年にブリュメールのクーデタによって総裁政府を倒し、自らを第一統領とする統領政府を打ち立てました。 ここで、フランス革命は完全に終わったのです。 この5年後、1804年、ナポレオンは皇帝となります。 そしてフランスに帝政が訪れたのでした。 さて、フランス革命の話はここまでです。 ナポレオンもまた帝位を追われることとなりますが、それはフランス革命とは別の話題ですので、また別の機会に。 次からは、フランス革命を彩った人々についてご紹介しましょう。 ルイ16世:前途多難の船出 フランス革命によって王位を追われ、処刑されたルイ16世は、1770年、16歳の時にオーストリアの王女マリー・アントワネットと結婚します。 フランスのブルボン家とオーストリアのハプスブルク家は長年敵対していましたが、それを解消するための政略結婚でした。 しかし、夫婦仲は悪くなかったようで、彼女との間には2男2女が生まれています。 1774年、20歳になった彼は国王ルイ16世となりました。 ルイ14・15世のおかげで財政が破綻寸前だった国を背負い、かなり大変な未来が待っていることは明白でした。 フランス革命のイメージからすると、彼は軟弱で愚かな印象がありますよね。 しかし、財政改革を行ったり(三部会の招集はその一環)、人権思想に基づいて拷問を廃止したりと、王らしいことはやっていたんです。 しかし、すべてがあまりに遅すぎたんですね。 運にも恵まれませんでした。 実はルイ16世はアメリカ独立戦争でアメリカを支援しており、そちらでは王を尊崇する人たちもいたんですよ。 しかしこうした支援も財政悪化を招き、結果、1789年にバスティーユ牢獄襲撃を発端としたフランス革命の勃発を招いてしまったんです。 そして亡命にも失敗した後は、家族と引き離され、そのまま処刑されてしまったのでした。 実はそんなに憎まれてもいなかった 処刑直前、ルイ16世の処遇を巡っては、実は議会はもめにもめていたんです。 死刑に関する投票の結果も、賛成387、反対334と僅差だったのでした。 王妃マリー・アントワネットの数々のスキャンダルにもかかわらず、ヴァレンヌ逃亡事件までは、彼は王としてけっこう尊敬されていたんです。 科学や地理にも理解を示し、積極的に支援もしていました。 最後に残した言葉は、「私は、私の死をつくり出した者を許す。 私の血が2度とフランスに落ちることのないよう、神に祈りたい」ということでした。 王の遺体は、王党派の地権者がひそかに埋葬場所に目印をつけておいたため、後に発見されています。 そして、1815年、マリー・アントワネットと共に、歴代国王の廟であるサン・ドニ大聖堂へ改葬されました。 フランスがここまで逼迫した状況でなければ、平和な時代の王としてそれなりにやれたと思います。 しかし、歴史というものは誰にも流れは予測できませんね。 ベルサイユのばら:マリー・アントワネット ルイ16世に続いて、ギロチンで処刑された王妃マリー・アントワネットは、1755年にオーストリア女帝マリア・テレジアの11女として生まれました。 女帝に最も可愛がられた娘であり、幼い頃には女帝一家の前で演奏した幼いモーツァルトにプロポーズを受けたというエピソードもあるんですよ。 マリア・テレジアがフランスとの同盟関係を築こうとし、彼女がルイ16世に嫁ぐこととなりました。 14歳という年齢で、異国の宮廷に入ったのです。 彼女と言えば、「贅沢」。 このイメージですよね。 確かに、宮廷のトレンドセッターとして、常に最新のファッションに身を包んでいた彼女が使ったお金は莫大なものでした。 入浴の習慣をフランスに持ち込み、香水のトレンドまで変えてしまったり、奇抜なヘアスタイルで周囲の度肝を抜いたりしました。 また、仮面舞踏会で出会った愛人フェルセンとの関係や、彼女の名を騙った巨大詐欺事件(首飾り事件)などもあり、彼女の印象はより悪く民衆に伝わっていったんです。 彼女を良く思わない貴族たちによる中傷が、一般市民の感情にもより影響してしまったのが、彼女の運の悪かったところでもありました。 確かに、第三身分を下に見ていたり、敵国に革命軍の情報を流したり、民衆からすれば敵だったのかもしれません。 しかし、彼女はそれだけの女性ではなかったんですよ。 贅沢王妃の別の一面 マリー・アントワネットは贅沢をしていただけではありませんでした。 実は、飢饉の時には貧しい人々のために寄付金を集めたり、子供たちにおもちゃを買わせるのを我慢させたりもしていたんです。 また、旧態依然のヴェルサイユでの儀式を簡素化させたりもし、子供を愛する母として、プチ・トリアノンという田舎風の場所で過ごすことを好んでいました。 革命勃発の際、「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」と発言したとされていますが、実はこれも違うんですよ。 1789年以前の書物で別の高貴な女性が言ったものが、アントワネット憎さに彼女の言葉とされてしまったんです。 美しい肌を持ち、エレガントな所作で周りを魅了したマリー・アントワネット。 遺書で、彼女はこう述べています。 「犯罪者にとって死刑は恥ずべきもの。 しかし、無実の罪で断頭台に送られるならば、恥ずべきものではありません」 犯罪ではなかったかもしれませんが、その時の民衆にとっては彼女は敵でしかなかったんですよね…。 恐怖政治の申し子・ロベスピエール マクシミリアン・フランソワ・マリー・イジドール・ド・ロベスピエール(長いです)は、1758年に第三身分に生まれました。 苦学生でしたが秀才で、後に弁護士となり30歳で政治の世界に身を投じます。 ジャコバン派の中心として、穏健派を追放し、国民公会を創設した後は恐怖政治に走った彼には、共和主義者のみによって運営される小さな社会というものが理想にありました。 そのため、少しでもそれに反対するものは次々と粛清していったんです。 そして、テルミドールのクーデタによって捕らえられ、弟と共にすぐさま処刑されました。 過激なイメージのある彼ですが、生活は質素でありとてもジェントルマンだったと伝わっています。 独身だったため女性にも人気があり、彼の演説には女性がたくさん集まったそうですよ。 実は、革命以前の1775年、ルイ16世が彼の学校を訪問した折には学生代表として祝辞を述べています。 まさかそれから20年も経たないうちに、王を断頭台に送ることになろうとは、その場にいた誰が予測できたでしょうか。 ルイ16世とマリー・アントワネットの子供たち ルイ16世とマリー・アントワネットには2男2女の子供たちがいました。 あまり知られていませんが、彼らは革命の最中にどうなっていったのでしょうか。 長男のルイ・ジョゼフは1789年、7歳半で亡くなり、二女のマリー・ソフィー・ベアトリスも1歳で亡くなっています。 ここでは、残された2人:二男ルイ17世と長女マリー・テレーズについてぜひご紹介したいと思います。 悲劇の王子:ルイ17世 ルイ17世(ルイ=シャルル)は、6歳の時に家族と共にタンプル塔へ幽閉されます。 父ルイ16世が処刑されると名目上の王とされたため、ルイ17世となっているんですね。 最初はまあまあの生活ができていましたが、次第に待遇は悪化し、家族とも引き離されてしまいます。 後見人には一介の市民が付けられ、彼らから虐待を受けながら育てられていきました。 両親を否定する考えを植え付けられ、わいせつな言葉ばかりを教え込まれていったのです。 やがて、トイレもないような部屋へ押し込まれたルイ17世は、病気のために歩けなくなってしまいます。 しかし彼を助ける人もなく、ノミとシラミだらけの不潔極まりない部屋で、粗末な食事と罵りの言葉だけを受けながら、ただ横になって過ごす日々が続いていきました。 誰も彼を人として扱うことはなくなっていたんです。 ロベスピエールが処刑された後、ようやく彼は助け出されました。 しかし衰弱がひどく、1795年にわずか10歳で亡くなります。 母や叔母の死も知らないままでした。 復讐に燃えた王女・マリー・テレーズ ルイ16世の子供たちの中で、唯一天寿を全うしたのが、長女マリー・テレーズです。 国王夫妻の最初の子供として1778年に生まれました。 タンプル塔に幽閉されると、両親や弟と引き離されてしまいます。 この頃にはある程度の年齢にはなっていたので、おそらく状況も理解できていたでしょう。 そのためか、彼女は終生、革命を起こした側を恨み続けていくこととなるのです。 1795年、母の実家でもあるオーストリアへ引き取られたマリー・テレーズは、ブルボン家の再興に努力し始めます。 結婚相手に選んだのは父方のいとこ、アングレーム公ルイ・アントワーヌでした。 彼はルイ16世の弟アルトワ伯(後のシャルル10世)の息子で、彼と結婚することでブルボン家の血が保たれていくと踏んだのかもしれません。 とはいえ、二人は仲睦まじい夫婦でした。 しかし、フランスを追われたブルボン王家の一員だった彼女にはなかなか定まった居場所が見つかりませんでした。 そんな中、ブルボン家のためにと、彼女は亡命先で再会した叔父・ルイ18世を支え続けました。 生活に困れば、自分の宝石を売り払って生活費の足しにしたんです。 この間夫とは離れ離れの生活を送っていました。 2度目の革命に直面 苦労に苦労を重ねた生活のためか、マリー・テレーズは、母マリー・アントワネットとは真逆の性格となっていきました。 服装は地味で倹約家、そしてちょっと気難しく敬遠されがちだったそうですよ。 しかし、叔父ルイ18世を支え続けた姿勢は高く評価されていました。 ナポレオン失脚後、ルイ18世が王政復古を果たし、その後は義父シャルル10世が王となり、マリー・テレーズは王太子妃となります。 彼女の望んだブルボン家の復興は成功したかに見えました。 しかしルイ18世とシャルル10世はフランス革命前の特権階級優遇の政策を取り、1830年、再び革命が起きて王家は転覆します。 これが7月革命で、ブルボン家の直系の王はここで途絶えることとなりました。 シャルル10世や夫と共に、マリー・テレーズはイギリスへ亡命します。 やがて再びオーストリアの庇護下へ移り、甥と姪を育て、73歳の生涯を終えました。 夫との間には子はなく、彼女の死によってブルボン家の直系の血筋は絶えることとなったのです。 ブルボン家唯一の「男子」 彼女は父ルイ16世から「憎しみを捨てよ」と諭されていましたが、それは結局できずじまいでした。 父の処刑に賛成票を投じた王族の面会を拒み、ナポレオンを「犯罪者」と呼んだのです。 ナポレオンの100日天下の時には、反ナポレオンの演説の先頭に立ち、その勇壮さに、ナポレオン自身から「ブルボン家唯一の男子だ」と言われたほどでした。 人々から「復讐の王女」と呼ばれたマリー・テレーズですが、一方で慈善事業も行うなど、王族としてふさわしい行動もしていました。 また、反ナポレオンの演説や叔父への献身など、評価される部分も多かったのです。 彼女と弟ルイ17世ほど、フランス革命の犠牲者と呼ぶべき存在は、他にいないのではないでしょうか。 この革命のすべてが、今のフランスの礎となっている いかがでしたか?フランス革命は、単に国王夫妻が処刑されただけで終わりを告げたわけではありませんでした。 それ以降も血が流れ続け、不安定な状況の中で人々の考えも揺れ動いていたんですね。 しかし、この時の多くの犠牲が、現在のフランスの礎となったわけです。 機会があれば、ぜひフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」の歌詞を読んでみて下さい。 驚くほどの勇壮さと時に過激とさえ思える内容に、フランス革命の熱を感じることができると思いますよ。

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フランス革命とナポレオン時代を追う!【5】革命第三段階:恐怖政治と虐殺とテルミドールの反動

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名誉革命、アメリカ独立戦争と共に世界三大革命と呼ばれるフランス革命であるが、他の2つの革命と決定的に違うのは国王が処刑された点である。 フランス革命の発端を考える時、ルイ16世が開いた「三部会」がその始まりと言える。 ルイ16世はいわば改革派の国王であり、自らが推進した改革によって最終的には処刑されてしまったのだから皮肉と言えるかも知れない。 ヴァレンヌ逃亡事件にて国民の信頼を失う フランス革命当初、フランス国民は改革派であるルイ16世を歓迎し、敬っていた。 革命が起きた当時は誰も国王の処刑など考えず、立憲民主政を目指しており、最初の「国民議会」などは正式名称「憲法制定国民議会」であり、当初は憲法の制定をめざしていたはずだったのだ。 どこから歯車が狂ったのかだが、最初から歯車は狂っていたと言えるだろう。 国内の貴族や司祭階級は民衆を押さえつけることにしか興味はなかったし、革命はいわばフランス国内で主流ではない下級貴族たちによって担われており、恐らく当初は簡単につぶせると思っていたのだろう。 それが変わったのはパリ市民がバスチーユ監獄を襲った事件が起きてからである。 バスチーユ監獄の監督官ローネー侯爵やパリ市長であったジャック・ド・フレッセルが処刑されると王侯貴族たちはこぞって国外に逃亡した。 後にシャルル10世となるアルトワ伯爵などはこの時点で亡命している。 そのような中ルイ16世は国内に残った。 「王たるものは国民から逃げ出すものではない」 しかし王党派の代表格であったミラボーが死んでしまったあたりから流れが変わり、ルイ16世はついに家族と共にヴァレンヌ逃亡事件を起こしてしまう。 この事件を知った国民達は失望し、酷く怒った。 もはや国王は自分達を見捨てたのだと。 そのような王は必要なのだろうか? 板挟みになっていたルイ16世 ルイ16世自体は立憲君主制にどちらかと言えば賛同していたと言われるが、その妻であるマリー・アントワネットはそうでなかった。 ヨーロッパ最強の貴族ハプスブルク家出身の彼女は民衆など自分の所有物に過ぎないと考えていたのだろう。 そしてもう一人、後にルイ18世となる王弟も改革には反対していた。 さらに民衆の側も一枚岩ではなかった。 あくまで王政の存続を目指すもの、憲法を制定して立憲君主制を目指すもの、王族を完全に排除しようとするもの、様々な者たちがフランス革命には参加していた。 そのような中、ルイ16世一家は長年親しんだヴェルサイユ宮殿からパリのティリリュー宮殿に移され、王の権限は徐々に削られていった。 ルイ16世がヴァレンヌ逃亡事件を企てたのにはそのような背景があったのだ。 もっとも、逃亡事件を企てたのはルイ16世というよりマリー・アントワネットだったという方がしっくりくるかも知れない。 実際逃亡を手引きしようとしたのはマリー・アントワネットの愛人フェルセンであったのだから。 ルイ16世はマリー・アントワネットの意向に従っただけだも言われている。 ルイ16世はブルボン朝の王で歴代唯一1人の愛人も作らなかったことで知られる。 生涯愛したのは妻のマリー・アントワネットだけであったという。 妻への愛で身を滅ぼしてしまった。 ルイ16世とはつまりそういう人物であったともいえる。 パルナーブによるねつ造 ヴァレンヌ逃亡事件は立憲君主制を目指していた一派フイヤン派にとって大変不都合であった。 国王排除すべしの声が大きくなっていたからだ。 そこでフイヤン派の首領パルナーブは「国王は自分の意思で逃げたのではなく誘拐されたのだ」と主張した。 もちろん完全なねつ造である。 パルナーブは死んでしまったミラボーの後継者として国王一家をなんとか守れないかと奮闘していたのだ。 それにパルナーブはもはや革命は完成一歩前だと認識していた。 後は憲法さえ制定すればよいと。 1791年憲法 パリの民衆はヴァレンヌ逃亡事件の後共和政を求める集会を開いた。 共和政は決して近代だけのものではなく、古くは紀元前のローマやアテネで実施されており、ユリウス・カエサルのガリア遠征以来古代ローマの後継者たるフランスにおいては革命前から共和政を求める流れがあった。 しかし国民衛兵軍は武力をもって集会を解散させ、あまつさえ発砲までした。 その結果死者は50人を越え、共和派のメンバーは事件に関連して逮捕されることになった。 後に恐怖政治で世界を恐怖の底に突き落としたロベスピエールなどはこの時逮捕されかけたが、運よく逃亡に成功している。 共和政を排除した国会において、立憲民主政を旨とした「1791年憲法」が制定された。 これにより主権者は国王から国民に移り、ルイ16世は臣民に対して忠誠を誓う宣誓を行った。 しかしこの時王座は用意されておらず、式が終わった後ルイ16世は一人号泣したという。 それでも革命は終わった。 フランスもイギリスのように立憲民主政の国として国王と議会が協調しながら政治を行っていくはずだった。 それなのになぜルイ16世は処刑されねばならなかったのだろうか? 対外戦争 20世紀半ば、「ドミノ理論」という理論が叫ばれた。 内容は1国共産主義革命がおこるとその周辺諸国にドミノ倒しのように共産主義が拡散するというものであった。 清教徒革命や名誉革命が起きた時、そのような事態にはならなかった。 革命が起きたのはイギリスだけであり、それらが拡散することはなかったのだ。 しかし今回は大陸で起きた革命であった。 フランスの隣国オーストリアとプロイセンはヴァレンヌ逃亡事件を受けて「ピルニッツ宣言」を出す。 これは国王に手を出せばプロイセンとオーストリアがフランスに攻め込むという脅しである。 フランス国民はこれに過剰ともいえる反応を見せた。 「国王は近隣諸国と結んで革命を潰そうとしている」 そのような噂が流れた。 あるい意味それは噂だけではなく、マリー・アントワネットは実家であるオーストリアに軍事機密などの情報を流していたため事実でもあった訳だが、国内では諸外国に対し自由の為の戦争を行うべく「自由の十字軍」を結成して周辺諸国との戦争を決意する。 フランスは沸き立った。 誰もが戦争に賛成しており、開戦に反対していた人物は1人しかいなかったという。 その者の名はロベスピエール。 「国外の敵より先に国内の敵を片付けるべきだ」 ロベスピエールはそう主張した。 ご存知の通りロベスピエールは後にそれを冷徹に実行し、最後は自らが国家の敵として歴史のかなたに葬られることになる。 王室も民衆とは違う意味で戦争を支持していた。 急増の革命軍がオーストリアなどの近代式軍隊に勝てるわけもなく、そうなればハプスブルク家が自分たちを助けてくれる。 そう考えていた。 実際フランス軍は連戦して連敗した。 オーストリアの軍隊には亡命したフランス貴族も混ざっており、国内の反革命派も色づいた。 そのような中、国会で出された2つの法案が国王によって拒否されるという事件が起こる。 テュイルリー宮殿の攻防戦 1791年憲法においてフランス国王には「ヴェトー(拒否権)」が与えられていた。 フランス王権は元々古代ローマの護民官の流れを組んでいる部分もあり、それはローマ皇帝に受け継がれ、ブルボン家にも認められた数少ない権利でもあった。 法案の中身は司祭を国外に追放することを決めた法律と地方から徴兵した兵士をパリに駐屯させる法律であった。 ルイ16世がフランスの敗北を期待していることはこれで明らかになった。 国王はさらに内務大臣ロランを更迭、これが決定的な契機となってしまう。 内務大臣のロランは国王を排除したかったわけではなく、国王に自重して欲しかったため、手紙を国王に書いた。 正確にはロランの夫人が書いた。 ロラン夫人はこの時期の革命勢力の実質的な指導者で、夫の陰につきあらゆる政策を決めていたという。 マリー・アントワネットはそれが気に入らなかったという。 内容がどうこうというよりも、彫金師の娘風情が自分に意見するのが気に入らなかった。 ルイ16世はマリー・アントワネットの言うことには盲目的に従った。 たとえそれが自らの身を亡ぼすことになろうとも。 ロラン(夫人)が国王に向けて書いた手紙の写しは印刷され、フランス全土に出回った。 ロランは一躍ヒーローになり、国王は一躍悪役になった。 パリ民衆は武装蜂起し、国王一家の住むティリリュー宮殿に向けて進軍していった。 それを阻止しようとプロイセンの軍が動き出し、国会は「国家の危機」を宣言、この時マルセイユから来た兵団は革命歌を歌いながら進軍していた。 その革命歌は現在のフランス国家「ラ・マルセイーズ」である。 宮殿は陥落し、国会は王権の停止を宣言、国王一家はタンプル塔に押し込められることになった。 これを見て国王派だったパルナーブやフランス革命の英雄ラ・ファイエットはフランスから逃げ出す事態になった。 ルイ16世裁判 フランス国民にとっては幸いなことに、国王にとっては不幸なことに、革命軍はヴァルミーの戦いにおいて初めてオーストリアに勝利した。 戦いに参戦していたゲーテは「この時、この瞬間から世界の歴史が始まる」という言葉を述べている。 さらに時を同じくしてルイ16世が隠し棚を使って外国と密通していたということが判明する。 そのような中国民公会はルイ16世の裁判を開始した。 この頃には国民公会の内部でジロンド派とロベスピエール率いるジャコバン派が対立するようになっており、国王裁判の行方についても両党は真っ向から対立した。 ロベスピエールは従来より共和政の完成と国王の処刑を主張しており、その片腕ともいえるサン・ジュストという人物は以下のような演説をしている。 「人は罪無くして国王たりえない。 国王という者は全て反逆者であり簒奪者である」 隠し棚の存在はその演説の1週間後に公表された。 これで流れは決まったようなものだったが、それでも票は割れた。 最終的にはわずか1票差で国王の処刑が決まった。 なお国王の弟は国王の処刑に1票入れていたという。 国王ルイ16世は執行人サンソンにより処刑された。 「フランス人よ、あなた方の王は今まさにあなたが方のために死のうとしている。 私の血が、あなた方の幸福を確固たるものにしますように。 私は罪無くして死ぬ」 これが国王ルイ16世の最期の言葉だったという。 このような処刑が果たして正義であっただろうか? もはや正義を失ったフランス革命は、この事件を機に暴走していく。 myworldhistoryblog.

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処刑された人たちの最期の言葉【世界史編】

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「ルイ16世」とは?ギロチン処刑の背景も解説 ルイ16世肖像(アントワーヌ=フランソワ・カレ画、1788年) (出典:Wikimedia Commons User:Kaho Mitsuki) 「ルイ16世」はフランス革命で処刑されたブルボン朝国王 「ルイ16世」(フランス語: Louis XVI、1754年~1793年)は、近世フランス王国の王朝であるブルボン朝の第5代目の国王です。 ルイ15世の孫として生まれ、19歳のときに後継者となって即位し、1774年~1792年まで在位しました。 在位中にフランス革命が勃発し、絶対王権が廃止されたのち、ギロチンで処刑されました。 「ルイ16世」は性格が良く、善意の国王 ブルボン王朝は千三百年続いていましたが、ルイ16世治世時の18世紀後半には、長年の王政によってはびこった悪弊や、植民地戦争や天候不順による凶作の影響などが重なり深刻な財政難に陥り、王国は混乱していました。 しかしそれらの問題は、ルイ16世が引き起こしたものではありませんでした。 ルイ16世は国民の幸せを願っており、フランス革命の当初は自由と平等の革命思想にも賛成していました。 ルイ16世は優しい性格で好人物であったとされており、軍隊を使ってただちに革命を弾圧したり、首謀者たちを虐殺したりすることはしませんでした。 いわば善意の国王であったことが、自身の身を滅ぼすことに繋がってしまったといえます。 ルイ16世は「ギロチン」の改良に加わっていた ルイ16世を処刑した「ギロチン」は、当時拷問を伴う残酷な方法で行われていた死刑方法を終わらせ、死刑囚に不要な苦しみを与えないため、いわば人道的な目的から考案されたものでした。 また、当時は平民は絞首刑で貴族は斬首刑が行われていましたが、これらは失敗してやり直すことも多く、拷問と同じく残酷なものでした。 そのため、迅速かつ確実に死にいたらしめることができるギロチンは、人道的な装置として欧州では受け止められていたのです。 拷問を終わらせ、「人道的な」ギロチンを導入し、自らもその改良に加わったのはルイ16世その人でした。 そのような意味でも、皮肉な運命を辿った国王でした。 ルイ16世の処刑人は「死刑執行人サンソン」 中世のヨーロッパの都市では、死刑執行人は世襲制の伝統がありました。 フランスでは近世までその伝統が続いており、パリの死刑執行人を長年務めていたのはサンソン家です。 しかしサンソンは国王を敬愛していたため、葛藤の中で執行を行いました。 世襲の国王を、世襲の死刑執行人が処刑するという、世襲の伝統が二人の悲劇を生んだのでした。 ルイ16世とフランス革命の関係とは? 「フランス革命」によって絶対王政が停止された フランスを治めていたブルボン朝は、18世紀後半には植民地戦争や天候不順による凶作の影響で深刻な財政難に陥りました。 貴族への課税で危機を逃れようとしますが、貴族はブルボン朝の絶対王政に反抗し、1789年に国民議会を結成します。 混迷の中、1791年に民衆がバスティーユ牢獄を襲撃し、フランス革命が勃発します。 同年には憲法が制定され、絶対王政が停止されました。 革命は過激化し、1793年の1月にルイ16世が処刑され、この年からジャコバン派の独裁を経て、1795年に総裁政府が成立し、革命は収束します。 総裁政府成立後の政情が不安定な中、ナポレオンが登場すると、1802年に終身統領となり、フランスのナポレオン時代が始まることになります。 ルイ16世が処刑された原因「ヴァレンヌ逃亡事件」 ルイ16世が処刑される原因となったのは、「ヴァレンヌ逃亡事件」と呼ばれる、一家のパリからの逃亡未遂事件です。 フランス革命が勃発した2年後に、妻アントワネットの実家であるオーストリアのハプスブルク家に援助を求めるため、ルイ16世一家はパリを脱出しました。 しかし逃亡は失敗し、亡命を画策していたと喧伝されたことから国王への信頼と権威は失墜し、革命の敵だとみなされたことが処刑の原因となりました。 しかし国王は革命を支持すると発言しており、また王朝の安全が国家の安全であると考える王家の伝統に従って一家の安全を確保しようと考えたことからの行動であり、ルイ16世は国外逃亡を考えていたわけではありませんでした。 ルイ16世の家族の運命とは? ヴェルサイユ宮殿 革命を生き延びたのは娘マリー・テレーズだけ ルイ16世が処刑されたとき、妻のマリー・アントワネットと娘マリー・テレーズ、息子のルイ・シャルル(ルイ17世)、国王の妹のエリザベートの4人の家族が塔に幽閉されていました。 息子のルイ・シャルルは病気になって命を落とし、妻と妹は処刑されたため、革命を生き延びたのは、娘マリー・テレーズだけでした。 マリー・テレーズは、革命後にルイ16世の弟の長男ルイ・アントワーヌ王太子の妃となり、ルイ16世の一家の中で唯一天寿を全うしました。 妻マリー・アントワネットも革命で処刑された ルイ16世の妻マリー・アントワネット(1755年~1793年)は、オーストリアの女帝マリア・テレジアの娘として生まれ、14歳のときにフランス王朝を救うための政略結婚によってフランス皇太子のもとに嫁ぎます。 夫がルイ16世として即位すると王妃となりますが、フランス革命に反対して逃亡したことの失敗によって裁判にかけられ、フランス最後の王妃として37歳の若さで断頭台に消えました。 贅沢が大好きで、フランス国費を浪費したと革命時には糾弾されましたが、実際は豪華な宮殿を嫌って田舎住まいを模した別荘で子どもたちと暮らしていました。 日本では池田理代子による人気漫画作品『ベルサイユのばら』にその人生が描かれたことで広く知られています。 ルイ16世の息子ルイ17世は幽閉され病死した ヴァレンヌ逃亡事件ののち、一家は民衆によってタンプル塔に幽閉されました。 ルイ16世が処刑されると、恐怖政治のもと残された家族の待遇は悪化し、当時6歳だった息子のルイ・シャルルは一人で別の部屋に移され、劣悪な環境下に幽閉されました。 ルイ・シャルルは両親が処刑されたあとも不衛生な環境のもと幽閉され、2年後に10歳で病死します。 ルイ16世亡き後、王党派はシャルルをルイ17世として即位したものとみなしましたが、名目上のことであり、自身が国王と呼ばれていることも知らないまま亡くなりました。 まとめ ルイ16世は、フランスの国が国王のものから国民のものになるきっかけとなったフランス革命のさなかにたまたま在位していたため、自身に非がないのにもかかわらす、無残にもギロチンで処刑されてしまいました。 さらに妻のマリー・アントワネットも処刑され、長男は劣悪な環境の中に幽閉されて10歳で病死するなど、歴史の犠牲となったのがルイ16世一家でした。 長女のマリー・テレーズは、ルイ16世の弟の長男の妃となり、ルイ16世の一家の中で唯一天寿を全うしましたが、子どもはなかったため、ルイ16世の子孫は途絶えることとなりました。

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