明智光秀 子孫。 明智光秀の子孫が今上天皇というのは本当か!? 光秀の家系図を検証

明智光秀の子孫と細川ガラシャ(明智玉子)の子孫

明智光秀 子孫

本能寺の変と光秀母との関係についてはこちら 明智光秀の子供 安土山より逃げた明智の部将は、明智の妻子親族等のゐた坂本の城に入ったが、火曜日 六月十四日 には羽柴殿の軍隊が同所に着いた。 この城は五畿内にある諸城中安土山の城を除いては最もよく最も立派なものであったが、兵の多数は城より迷げたので、かの殿 明智光春 及び他の武士等は敵軍の近づいたこと を見、また第一に入城したのがジュストであることを見て、高山右近殿ここに来れと呼びかけ、沢山の黄金を窓より海に投じ、つぎに塔の最高所に入り敵の手に落ちずと言ひ、内より戸を閉ぢ、まづ婦女及び小児等を殺し、つぎに塔に火を放ち、彼等は切腹した。 明智の二子は同所で死んだといふが、長子は十三歳で、ヨーロッバの王侯とも見ゆる如き優美な人であった。 彼等は今日までも現はれない故、噂のとほり死んだのであらうと思はれるが、逃げたといふ者もある。 筒井家との関係もあるようなので、筒井家に嫁いだ娘がほかにいたかも? 諸説あるようで、どうにもわかりません。 一般的に光秀の妻は妻木熙子のみ、といわれていますが、そこに関しても、 ・前室がいた ・側室がいる などと入り混じっています。 妻についてはこちらから さて、これほど多くいる明智光秀の子供で、子孫を残せたのは誰か?というとかなり限られます。 まず長女。 彼女は山﨑の合戦後、坂本城の落城時に夫ともども亡くなりました。 (夫に刺し殺されたといいます。 )子供がいたとしても、おそらくともに亡くなっているでしょう。 夫の光忠は、光春と同じく坂本城で亡くなっています。 彼女のほうは不明ですが……運命を同じくした可能性も少なくないでしょう。 戦国時代、織田信長の妹・お市の方は浅井氏滅亡時実家に戻りましたが、それは彼女に帰る家(織田家)があったからです。 帰る家を持たない彼女は、長女のように、夫ともどもその命を終えたのではないでしょうか。 細川忠興室。 彼女は細川家によって守られて、生き延び、子供も5人産みました。 信長の甥の津田信澄の妻です。 夫の信澄は本能寺の変の際に京都にいたため、光秀に与したと思われてどさくさで討ち取られてしまいます。 が、彼女の子、織田昌澄・津田元信は殺されることなく、江戸時代まで生き延びました。 そして男子三人。 光秀の妻(光秀正室妻木氏はこのころには亡くなっていたともいわれていますが……光秀の側室?)と子は、坂本城落城の際にことごとく死んだ、と言われています。 女子はともかく、男子ならなおさら、生かしてはおけなかったのではないでしょうか。 光慶は生き残って僧侶になったともいわれていますが、詳しいことはわかりません。 明智光秀の孫 まずは四女の二人の男子から。 長男の織田昌澄・次男の津田元信は二人とも豊臣秀頼に仕え、大坂の陣で戦いました。 大阪城落城後に投降し、家康に許されます。 長男の昌澄のほうの子孫は、江戸幕府の旗本として残りました。 次男のほうはよくわかりません。 大名家として確実に残っているのは、ガラシャの5人の子の系統でしょうか? 『熊本藩世系』によると、 長男・忠隆 次男・興秋 長女・於長(おちょう) 三男・忠利 三女・多羅 の5人の子供がいます。 長男忠隆は廃嫡されたため、大名にはなれず、京都で隠棲生活を送りました。 前妻との間の子供は、西園寺家などの公家に嫁ぎ、後妻との間の子供は熊本藩家老の家柄となりました。 次男興秋は、父によって徳川家への人質とされましたが脱走、その後大阪の陣に豊臣方として参加したため、父の怒りを買い切腹に追い込まれました。 娘が一人いて、熊本藩家臣の南条元信に嫁いでいます。 が、跡取りには恵まれなかったのか、興秋の甥で自身の従弟(弟忠利の子)の元知が南条家の跡取りとなりました。 ちなみに元知室の父・米田是長は、興秋に同行して大阪城に入っていますが、彼は細川家への復帰を許されています。 興秋は父忠興との折り合いが悪かったんでしょうか……。 長女於長は豊臣秀次家臣であった前野景定に嫁ぎましたが、秀次事件に巻き込まれて、夫は切腹しました。 彼女は辛くも一命をとりとめたのち、尼になったそうです。 三男忠利は熊本藩初代藩主です。 ただ彼の系統は7代藩主までで、8代藩主以降は、ガラシャ没後に忠興と側室の間に生まれた四男の家系に移っています。 三女多羅は臼杵藩主稲葉一通の正室となります。 父と同じく臼杵藩主となる稲葉信通を生みました。 (なお信通は2人の妻を迎えていますが、彼の妻は信長の子孫だったりします。 ) 明智光秀の子孫には天皇家も ガラシャの長男、忠隆の娘で、西園寺実晴の室となった徳は、孝明天皇の生母となった正親町雅子の7代前の先祖です。 また、三女・多羅も、息子信通を通じて、仁孝天皇(孝明天皇父)の8代前の先祖です。 明智光秀の血は天皇家にもつながっているんですね。 さて、確実にたどれる子孫については、このあたりで。 ほかの子孫はどこに? 光秀の子供はおそらく、ガラシャと四女(津田信澄室)以外は、坂本城で亡くなったのでは、と思います。 ただ、そこから逃れ出た子供もいるかも、と思うこともあります。 土佐に下った子孫がいるかも、と個人的には思います。 土佐の戦国大名・長宗我部元親の室は明智光秀家臣・斎藤利三の異父妹(義理妹とも)でした。 また利三の姪も、長宗我部信親(元親の嫡男)に嫁いでいます。 斎藤利三の娘で、のちに徳川家光の乳母となる、春日局も、父の縁で、一時期土佐に下っていたといわれています。 残党狩りを免れた光秀の家族が、それに紛れて土佐に下っていてもおかしくないでしょう。 ちなみに坂本龍馬は家紋が桔梗紋であることから、明智氏子孫という説がありますが、どうも先祖が苗字と家紋をかえたようです。 ということは関係ないようで…… 残念!.

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明智光秀の子供(息子)は?子孫は現在も生きている?!

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レキシン 明智光秀の息子・自然や子孫・家系図について解説!現在も活躍する有名人多数! 天下布武を掲げ戦国乱世を終息させようとした織田信長(おだのぶなが)に仕え、羽柴秀吉(はしばひでよし)、柴田勝家(しばたかついえ)、丹羽長秀(にわながひで)、滝川一益(たきがわかずます・いちます)とともに 織田家五大将の一人に数えられた明智光秀(あけちみつひで)。 日本の中心であった京都を抑え、畿内から東海、北陸に巨大な領土を保有し、地方平定戦に乗り出した直後の織田信長を明智光秀は戦力的空白を突いてこれを自刃に追い込み、わずかに11日間ながら天下人になりました。 謀叛人、裏切り者などのありがたくない呼び名で知られることも多い光秀ですが、その卓越した軍事的才能、公明正大な行政手腕、攻守ともに手堅い戦場での采配、和歌や連歌に通じた文化人でもあったと伝えられる一流人物・明智光秀の子供たちや子孫は本能寺の変以降、どのような運命を辿ったのでしょうか? まずは光秀と 正室・煕子(ひろこ)の子供たちから見ていきましょう。 『明智軍記』に基づく家系図 明智光秀の出自は謎に包まれていますが、子女もまだ謎が多く、明智光秀に何人の子供がいたのか明確に分かっていません。 ここでは、江戸時代中期に記された明智光秀を主人公とした軍記物『明智軍記』をもとに簡単な家系図をご紹介いたします。 明智光秀と正室・煕子の娘たち 明智光秀には江戸元禄時代に書かれたと言われる「明智軍記」では 三男四女、「明智系図」では 六男七女(二人は養女)の子供がいたと言われています。 反逆者として敗北し、後の天下人によって完全に悪人とされた光秀には、勝者の歴史である戦国、江戸時代の文献に正確な歴史的史料が残ることは難しかったのでしょう。 このため史料に記述が残る人物について、具体的に紹介しておきます。 息子・明智光慶 明智光秀の嫡男(正室との間にできた年長の子供)は光慶(みつよし)と伝えられていますが、 生年不詳の上に元服や初陣の記録もなく、唯一光秀主催の歌会で光慶が結句を詠んだ記録があるだけです。 このため最期も亀山城での病死、坂本城での自害など諸説があり、また山城国の妙心寺や和泉国の本徳寺の僧となったと言う生存説も存在します。 次男・明智自然 NHKの大河ドラマ「おんな城主直虎」で田中レイくんが演じた明智自然(あけちじねん)。 可愛い演技で視聴者の心を一瞬のうちに鷲掴みにしたようですが、この明智自然とは誰のことなのでしょうか? 明智軍記では光秀の次男・十次郎光泰(じゅうじろうみつやす)の幼名が自然だと記されており、山崎の合戦ののち明智秀満らが坂本城で自害したときに死去したと伝えられています。 他にも明智系図、明智軍記に仏門へ帰依した者の名が何人か記されていますが、その行く末が確認されている者はいません。 現代の子孫 クリス・ペプラーさん 山崎の合戦の敗戦で光秀の血をひく人物を多く失いましたが、その中からしぶとく生き残り、現代に光秀の血を受け継いでいる人物がいます。 ドイツ系アメリカ人の父と日本人の母を両親に持つクリス・ペプラー さんです。 テレビ番組のナレーションやFMラジオでのDJなどのレギュラーを多く持ち、落ち着いた美声で最近は声優の仕事もされています。 クリス・ペプラー さんの母方の祖母が美濃守護大名・土岐頼芸(ときよりあき)の次男・土岐頼次(ときよりつぐ)の長男・土岐頼勝(ときよりかつ)の末裔だと伝えられており、 この頼勝には光秀の実子説があります。 真偽のほどはともかく、母方が土岐氏を名乗っているのであれば、光秀と同じ土岐氏の血筋であることは間違いなさそうです。 細川隆元、細川隆一郎 明智珠ことガラシャが嫁いだ細川家にはその血を受け継いだ末裔の人物が存在しています。 細川忠興とガラシャの長男であった忠隆(ただたか、廃嫡)の子孫で衆議院議員から政治評論家となった 細川隆元(ほそかわりゅうげん)と毎日新聞記者から同じく政治評論家となった 細川隆一郎(ほそかわりゅういちろう)です。 歯に衣を着せぬしゃべりで時事、政治についての対談や記事で人気があり、天下のご意見番の異名もとっていました。 細川護熙氏 第79代内閣総理大臣に任命された細川護熙(ほそかわもりひろ)は細川忠利から続く肥後熊本細川家の18代当主で、熊本県知事、参議院議員、衆議院議員も勤めた政治家です。 肥後細川家は8代目で直系男子が途絶えて養子を迎えたため、ここで光秀の血は途絶えたのですが、 護煕の祖母が細川忠利の兄である忠隆の末裔になるため、護煕にも明智光秀の血が流れていることになります。 坂本龍馬も? 他には 幕末に活躍した土佐藩士の坂本龍馬の家紋も桔梗紋のため、明智光秀の子孫ではと小説や解説書などで取り上げられました。 これは坂本城で自害したとされる明智秀満が落ち延びて、土佐の長宗我部家を頼りここに定住し、その子孫が坂本家と言う伝承があります。 しかし坂本城に由来するとされる坂本姓も偶然と言われており、 この伝承自体が後世の小説家の創作との説が現在は有力となっています。

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明智光秀子孫の片平凌悟さんのプロフィールや両親のまとめ(ページ2)

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「《明智光秀の家系図》 家系図の引用などはご遠慮くださいませ」 「帰蝶」は「小見の方」が産んだ娘ですので、「明智光秀」と「帰蝶」は「いとこ同士」という関係になります。 「帰蝶」の父は「斎藤道三」なので、「明智光秀」にとって「斎藤道三」は、義理の叔父に当たる人物ということです。 とはいえ、「明智光秀」については、歴史資料が乏しいため、「道三」や「帰蝶」の親戚であることについては、諸説入り乱れており、ハッキリとした真相は不明です。 「明智光秀」は「帰蝶」の夫「織田信長」に仕えた名将です。 さらに、「明智光秀」の妹「つまき殿」と呼ばれる女性は、織田信長から寵愛された側室であったと言われています。 「つまき殿」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。 「明智光秀」のその他の子孫!「有名人」として活躍していた! 明智光秀の子孫には、有名なハーフタレント「クリス・ペプラー」さんがおられます。 クリス・ペプラーさんは、祖母から「あなたは明智光秀の末裔である」と教えられて育ったのだとか。 「クリス・ペプラー」さんは、とあるテレビ番組を通じて「本当に自分が明智光秀の末裔なのかどうか」を、同じく「明智光秀の子孫」を 自称しておられる作家「明智憲三郎」さんに検証してもらっています。 それによると、「クリス・ペプラー」さんは、明智光秀の息子という伝承が残る人物「土岐頼勝」の末裔である可能性が高いのだとか。 「土岐頼勝」は、謀反人「明智光秀」の息子であったため、豊臣秀吉の捜索を逃れて「土岐家」へ養子入りし、生き延びたのでしょう。

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