神社 世田谷区。 世田谷八幡宮

世田谷区で御朱印(御朱印帳)を頂ける神社&お寺まとめ~随時更新中~

神社 世田谷区

世田谷区の縁結び・開運パワースポット 東京都23区の中で人口が最多の世田谷区は、芸能人や著名人も多く住んでいることで全国的にも知られています。 砧公園や馬事公苑、駒沢オリンピック公園などがある緑の多い区として人気があり、生活・観光両面で充実した街と言えるでしょう。 等々力渓谷は都内唯一の渓谷で、関東三十六不動尊霊場の1つでもある等々力不動尊があり、恋愛成就や縁結びにもご利益があるとされます。 弁天様が祀ってある渓谷の一番奥が、特に強力なパワースポットであるといわれています。 彦根藩主が猫の手招きのおかげで豪雨を免れた逸話から「まねき猫発祥の地」とされる 豪徳寺。 この猫はひこにゃんのモデルとも言われ、開運パワーにあやかろうと連日多くの人で賑わいます。 あらゆる出会いを招き、縁結びにもご利益があると人気です。 約100mもの真っ暗な地下霊場がある 玉川大師は「開運招福」のご利益がある人気のパワースポットです。 四国霊場八十八本尊の石造をはじめ約300体の仏像や壁画があり、手軽な一日お遍路を求めて全国から参拝者が訪れます。 良縁と結婚をもたらす 桜神宮ではお守りや絵馬も人気で、「初めて交際が成立した」「毎日お守りを身に着けていたら彼ができた」など口コミで評判となっています。 世田谷区の開運・縁結びが叶う神社一覧 駒繋神社 源頼朝が奥州の藤原泰衡征伐の際に松の木に駒を繋いで戦勝祈願したことが由来の神社で、源氏ゆかりの縁結び・福の神として有名です。 安産祈願や厄除祈願で多くの参拝客が訪れます。 住所:〒154-0002 東京都世田谷区下馬4丁目27-26 TEL 03-3414-8369 アクセス:JR渋谷駅よりバスで約5分 【URL】 世田谷八幡宮 勝利祈願、開運、交通安全、安産祈願に御利益があるとされる世田谷の鎮守で、境内の土俵では毎年秋の例祭に奉納相撲が行われ、多くの参拝客で賑わう人気の神社です。 住所:〒156-0051 東京都世田谷区宮坂1丁目26-3 TEL:03-3429-1732 アクセス:東急世田谷線「宮の坂」駅より徒歩約3分 【URL】 松陰神社 吉田松陰を祀る神社で、新しく事業や商売などに取り組む人たちの開運祈願が多く、松陰直筆の文字が書かれた勝守や絵馬などが人気です。 学問の神様として学生の参拝客も多く訪れます。 住所:〒154-0023 東京都世田谷区若林4丁目35-1 TEL:03-3421-4834 アクセス:東急世田谷線「松陰神社前」駅より徒歩約3分 【URL】 池尻稲荷神社 住所:〒154-0001 東京都世田谷区池尻2丁目34-15 TEL:03-3411-2141 氷川神社 住所:〒157-0067 東京都世田谷区喜多見4丁目26-1 TEL:03-3416-1240 【URL】 六所神社 住所:〒157-0064 東京都世田谷区給田1丁目3-7 TEL:03-3308-9383 稲荷森稲荷神社 住所:〒156-0054 東京都世田谷区桜丘2丁目29-3 TEL:03-3428-3838 久富稲荷神社 住所:〒154-0014 東京都世田谷区新町2丁目17-1 TEL:03-3425-9871 【URL】 桜神宮 住所:〒154-0014 東京都世田谷区新町3丁目21-3 TEL:03-3429-0869 【URL】 瀬田玉川神社 住所:〒158-0095 東京都世田谷区瀬田4丁目11-31 TEL:03-3700-3829 八幡神社 住所:〒155-0033 東京都世田谷区代田3丁目57-1 TEL:03-3414-5180 玉川神社 住所:〒158-0082 東京都世田谷区等々力3丁目27-7 TEL:03-3701-1617 六所神社 住所:〒158-0092 東京都世田谷区野毛2丁目14-2 TEL:03-3703-7364 羽根木神社社務所 住所:〒156-0042 東京都世田谷区羽根木2丁目17-8 TEL:03-3325-9904 深沢神社 住所:〒158-0081 東京都世田谷区深沢5丁目11-1 TEL:03-3701-8595 三宿神社社務所 住所:〒154-0005 東京都世田谷区三宿2丁目27-6 TEL:03-3414-2962 烏山神社 住所:〒157-0062 東京都世田谷区南烏山2丁目21-1 TEL:03-3308-9663 宗教法人神習教 住所:〒154-0014 東京都世田谷区新町3丁目21-3 TEL:03-3429-0825 六所神社 住所:〒156-0044 東京都世田谷区赤堤2丁目25-2 TEL:03-3321-5396 大原稲荷神社 住所:〒156-0041 東京都世田谷区大原2丁目29-21 TEL:03-3328-7537 奥澤神社 住所:〒158-0083 東京都世田谷区奥沢5丁目22-1 TEL:03-3718-2757 宇佐神社 住所:〒158-0086 東京都世田谷区尾山台2丁目11-3 TEL:03-3702-0875 駒留八幡神社 住所:〒154-0011 東京都世田谷区上馬5丁目35-3 TEL:03-3410-5933 上野毛稲荷神社 住所:〒158-0093 東京都世田谷区上野毛3丁目22-2 TEL:03-3703-2032 勝利八幡神社 住所:〒156-0045 東京都世田谷区桜上水3丁目21-6 TEL:03-3303-3263 神明社 住所:〒157-0072 東京都世田谷区祖師谷5丁目1-7 TEL:03-3482-0128 太子堂八幡神社 住所:〒154-0004 東京都世田谷区太子堂5丁目23-5 TEL:03-3411-0753 宗教法人北澤八幡神社 住所:〒155-0032 東京都世田谷区代沢3丁目25-3 TEL:03-3422-1370 天祖神社 住所:〒158-0091 東京都世田谷区中町3丁目18-1 TEL:03-3704-1409 野沢稲荷神社 住所:〒154-0003 東京都世田谷区野沢2丁目2-13 TEL:03-3424-2453 菅原神社 住所:〒156-0043 東京都世田谷区松原3丁目20-16 TEL:03-3321-6665 東京都の市町村別 開運・縁結びパワースポット・神社 市区町村別にパワースポットに関する情報で、お知りになりたい地域を選択してください。 東京都各地域の開運・縁結びパワースポットの最新情報やニュースがご覧いただけます。 関連情報• 2018-06-09 NEW! Line限定!! 当たる占い師情報! お得情報を随時更新中! 全国の人気占い師一覧• 全国の開運・縁結びパワースポット一覧• 鑑定士インタビュー• 365日 誕生日占い• おすすめリンク•

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烏山神社|世田谷区南烏山の神社、旧村社

神社 世田谷区

歴史 [ ] 奥澤神社の発祥は、室町時代までさかのぼる。 奥沢地区近辺は、の年間(1345年-1349年)頃に吉良氏の領地となった。 奥澤神社の発祥について、社伝では室町時代に入って吉良氏家臣の大平氏が奥沢城を築くにあたり、世田谷郷東部の守護神として八幡神を勧請したものと伝えている。 当初は八幡神社と呼称され、吉良氏が各地に建立した「世田谷七沢(しちざわ)八八幡(はちはちまん)」の1つに数えられていた。 1590年(18年)、の滅亡とともに吉良氏の勢力も衰え、奥沢近辺はの直轄領とされて世田谷領奥沢村となった。 1662年(2年)、村の西方が開墾された後に1669年(寛文9年)にを受けて「奥沢新田村」(現在の奥沢四丁目から八丁目の付近)が成立し、従来からの奥沢村(現在の奥沢一丁目から三丁目、及び四丁目の東側付近)は「奥沢本村」と呼ばれるようになった。 八幡神社は奥沢新田村のとなった。 ・期(の時期)に編纂された『』巻之五十 荏原郡之十二では「村ノ東ノ方ニアリ。 本社三間半ニ一間、拝殿二間ニ三間、前ニヲ建ツ。 (中略)祭礼九月十五日、村民ウチヨリテ神楽ヲ奏ス。 下沼部村密蔵院持(後略)」とあり、下沼部村(現在の付近)の (、24番18号に現存)がを務めていた。 に入ると、奥沢一帯はに属することになった。 続いて明治4年(1871年)には、によって「第7大区第6小区」となった。 1875年(明治8年)3月の『神社明細簿』という資料によると、祭神は応神天皇で「創建年月不詳旧社号八幡大菩薩ト相称候」とあり、前年4月に村社に定められている。 奥沢本村と奥沢新田村の両村は、1878年(明治11年)の小区制廃止とともに合併して奥沢村となった。 奥沢村は1889年(明治22年)に、、、、、、が合併して新たに発足したの一部となった。 1909年(明治42年)10月には、旧奥沢本村の鎮守である子安稲荷神社が合祀された。 子安稲荷神社は倉稲魂之命を祭神とし、現在の奥沢一丁目11番地付近に鎮座していた。 明治時代の初めごろ、子安稲荷神社の一帯は「稲荷山」と呼ばれていた。 この神社の氏子は26戸と少なかったため、秋祭りは毎年行うことがなかったと伝わる。 八幡神社は子安稲荷神社の合祀を機に、「奥澤神社」と名を改めた。 期に入る前後に一時神職不在の時期があり、(現在の)のからが来ていたという。 『新編武蔵風土記稿』巻之五十で言及されていた本殿は、1912年(明治45年)にに移築の上改修されて観音堂となった。 1913年(大正2年)に建立された本殿も、同じく九品仏浄真寺に移築されてとして祀られた。 2回にわたる本殿の移築の経緯は不明とされるが、1985年(昭和60年)の『奥沢 世田谷区民俗調査第5次報告』では当時のの話として「単に置き場所に困っただけではないか」という説を載せている。 なお、九品仏浄真寺との特別の関係はないという。 その後、1970年(昭和45年)に本殿が再建された。 奥澤神社は、の発祥地である。 の末に、この神社の社寮に下沼部村向河原の人(名は不明)が土地の子弟を集めて、そろばんや読み書きなどを教えた。 その後に小林大次郎という名の浪人が、その仕事を引き継いだ。 さらに東京府の松沢弘義がを始め、さらに茨城県人の池田孝一郎が「池田学校」と名を改めて授業を続けた。 1879年(明治12年)12月20日、の毛利多喜蔵などが社寮の一部を改修して認可を得、神社名をとって「八幡小学校」と命名した。 開校当時の児童数は30名、校舎の広さは15坪(約49. 6平方メートル)であった。 その後1884年(明治17年)9月に隣接地での校舎新築を経て、1902年(明治35年)8月5日に現在地(世田谷区玉川田園調布二丁目17番15号)に移転した。 これを記念して、1970年(昭和45年)11月29日に「八幡小学校発祥之地」記念碑が境内に建立された。 祭神と境内社 [ ] 奥澤神社の祭神は、誉田別命(応神天皇)と倉稲魂之命の2柱である。 歴史の節で説明したとおりもともとの祭神は誉田別命で、倉稲魂之命は旧奥沢本村の鎮守である子安稲荷神社の祭神であった。 神社のとしては、本殿及び八幡小学校発祥地碑の裏手付近に社が祀られている。 この弁才天社は「福寿弁天」と呼ばれていて、かつての南方100メートルほどのところにあった湧水池に鎮座していたものを、1950年(昭和25年)に移したものである。 この弁才天社の前にある石柱には、1737年(元文2年)11月11日の日付と和田和右衛門およびその妻せんの名が刻まれている。 神体の石祠裏面には、1821年(文政4年)に奥沢本村の領主および村人によって神体が再建された旨の記述があるという。 1933年(昭和8年)には、それまでの社が老朽化したため新たに造り直した。 当時は「サンの日」が弁才天の縁日であり、毎月3日・13日・23日の各日に近隣の商店街の人たちがオスワリ(餅)、神酒、果物などを供えていて、出店が並ぶほどの賑わいを見せていた。 特に4月13日の縁日には、奥澤神社から宮司が修祓に来ていた。 弁才天社の旧地である湧水池は「奥沢弁天池」の名で呼ばれ、池の主の白蛇が奥沢の田畑に水の恵みを与えていたと伝わる。 ただし池の跡地は商店街となっていて、その名残を確認することはできない。 境内と文化財 [ ] 境内 [ ] 本殿 緑の多い境内は、1978年(昭和53年)3月1日に世田谷区の保存樹林地に指定されている。 世田谷区の保存樹木に指定されたがあるが、この木は幹が空洞になって皮だけで生きている状態のため「皮だけシイノキ」と呼ばれている。 1988年(昭和63年)発行の『世田谷区名木百選』によれば、樹高は3メートル、幹回りは1. 7メートルを測っている。 鳥居をくぐって境内に入ると、一対が鎮座している。 その近くには、「奥沢開発三百年記念碑」が建っている。 この記念碑は、1962年(昭和37年)10月に奥沢村開発300年を記念して神社の氏子有志が狛犬と石灯籠とともに献納したものである。 その他に境内には、「八幡小学校発祥之地」記念碑を始めとして、32貫(120キログラム)の重さのある、(奥沢一丁目18番3号に現存する大音寺そばから移築されたもの)、・両戦役慰霊碑などが存在する。 境内には、地蔵尊やなども祀られている。 1735年(20年)の「子育延命地蔵尊」は地蔵尊女講中の奉納による。 庚申塔には「享保三年」 の銘があり、「講中」のものである。 「文政三年 「下沼部村密蔵院現住廣照」と刻まれた「南無大師」の碑もあり、密蔵院が奥澤神社の別当寺であったことを裏づけている。 境内社の弁才天社は、祭神と境内社の節で記述したとおり南方100メートルほどのところにあった湧水池から1950年(昭和25年)に移転してきたものである。 1972年(昭和47年)には、弁才天社の築山を造園している。 建造物 [ ] 境内には本殿(祝詞殿と拝殿を含む)、神楽殿、手水舎、社務所がある。 『新編武蔵風土記稿』では建造物について「本社三間半に一間、拝殿二間に三間、前に鳥居を建つ、本社の右に四間に二間の寮あり、社を護るものここに居れり(後略)」と記述している。 1875年(明治8年)の『神社明細簿』という資料所載の境内配置図を参照すると、本社は南を向き、東南に神楽殿、西に末社、東南方向隅に鳥居がある。 ただし、『新編武蔵風土記稿』で「本社の右」と記述されていた寮(社務所)は、本社の左側(西方向)に移転している。 鳥居は通りに面して建ち、前年の大蛇お練り神事で使用された藁製の大蛇が巻き付いている。 この鳥居は、1939年(昭和14年)にそれまでの木造のものから石造に取り替えられた。 以前の鳥居は、()の海中に建つ大鳥居と同じ「四脚鳥居」という形状であった。 歴史の節で既に触れたとおり、奥澤神社の旧本殿は2度にわたって九品仏浄真寺に移築された。 旧本殿2棟は、世田谷区教育委員会によって「世田谷区社寺調査」の対象となり、その結果が『世田谷区社寺史料 第二集 建築編』で公表されている。 1970年(昭和45年)に再建された本殿は、良質の産ヒノキ材を用いて室町時代の建築様式を再現している。 信仰 [ ] 氏子 [ ] 旧奥沢本村の鎮守である子安稲荷神社を合祀して奥澤神社となった当時、氏子は奥沢村の全戸であった。 1935年(昭和10年)頃から転入者が増えて戸数が3,000戸ほどになったときも、転入者は氏子の義務として年1円の維持費を負担していた。 1985年(昭和60年)の『奥沢 世田谷区民俗調査第5次報告』によれば、2,000戸の氏子が年600円の維持費を納めていた。 『奥沢 世田谷区民俗調査第5次報告』では、氏子の減少の理由について当時の禰宜の話として「年寄が亡くなり、世帯主が代わった事、特定の宗教に入信したこと」を挙げることが多いと記述していた。 神社の当番は、「カミ」、「ナカ」、「シモ」の各ズシ が1年交替で務めていた。 氏子の総代は「宮大将」とも呼ばれ、1985年(昭和60年)の時点では14人いた。 以前は旧奥沢一丁目 - 三丁目から選ばれていたが、その後現在の奥沢一丁目-八丁目から原則2名ずつ選出されていた。 ただし、2名というのは流動的なものであり、手薄になった場合は補充こともできる。 総代の選出方法は選挙などではなく、人望や経済状態、そして家柄などを考慮の上で選ばれるため、「世襲」の形になるという。 氏子総代の上には責任総代がいて、1985年(昭和60年)の時点では2名がこの役を務めていた。 責任総代には定員は特になく、宮司や氏子総代の監督、税務署に提出する神社の財政決算書の確認、総会での決算報告などを行う。 奥沢地区では、子供が生まれた家は奥澤神社への宮参りを行っていた。 誕生後に男の子は31日目、女の子なら33日目に参拝し、これは「氏子入りを果たす」という意味での参拝であった。 宮参りに子供を連れていくのは姑か実家の母親であり、父親や仲人の妻などが付き添う場合もあった。 ただし、前頃までは、母親は「産後75日を過ぎなければ参拝をしてはいけない」とされていたため、たとえ一緒に行っても神社境内の外で待たされていたという。 雨乞い [ ] 奥沢村では、大正時代中期頃まで雨乞いを行っていた。 夏に日照りが続いたときには村民から足の速い者を選び、神奈川県のまで水をもらいに赴いていた。 大山阿夫利神社へ赴く村民は二子の渡しから船で対岸に渡り、厚木街道を経る道筋をとっていた。 残りの村民の中から、途中まで出迎えに行く人がその後を追って出発した。 2人はあらかじめ落ち合う場所を決めておき、後から出発した村民が大山阿夫利神社からもらった水を入れた竹筒を受け取って奥澤神社まで運んだ。 先に村を出た村民は、急ぐことなく奥沢村へ戻ってきた。 この道中では大山阿夫利神社からもらった水を入れた竹筒を運ぶ途中はもちろん、受け渡しの際にも立ち止まることは許されなかった。 その理由は、立ち止まるようなことがあるとその場で雨が降ってしまうと信じられていたからであった。 奥澤神社の境内には、水の入ったヒトダル(四斗樽、約72リットル)が用意されて竹筒の到着を待ち受けている。 竹筒に入れられた大山阿夫利神社の水はこのヒトダルに注がれ、当番の人々(「カミ」、「ナカ」、「シモ」の各ズシ が交替で当番を務めた)が掛け念仏を唱えながらその周囲を巡る。 当番の人々は「トンボ」というT字型の藁製の道具を手に持ち、それをヒトダルの中に浸しながら境内に水を撒く。 1度目の雨乞いを行っても雨が降らなかったときは、別の地域の人々に交替して再度雨乞いが執り行われた。 雨乞いの後に降雨があると、1日農作業を休んで「オシメリ正月」と称した。 年中行事・祭礼等 [ ] 年中行事 [ ] 年中行事は、次のとおり執り行われる。 1月1日-7日:初詣 氏子の人々は、主に元旦の午前3時までに詣でるという。 1985年(昭和60年)の時点では、初詣客の数は3000人ほどであった。 5月朔日-9月朔日(5-9月の各朔日):縁日。 6月30日: 藁で作った大きな輪を境内に飾り、これを「チノワ」と呼ぶ。 神社に詣でる人はこの輪をくぐって中に入る。 大祓は12月31日にも行われる。 9月第2土曜日と第2日曜日:例祭(後述)• 11月15日:七五三祝• 12月31日:大祓 祭礼「奥澤神社の大蛇お練り神事」 [ ] 本殿に安置されている大蛇 奥澤神社の祭礼について、『新編武蔵風土記稿』巻之五十には「祭礼九月十五日、村民ウチヨリテ神楽ヲ奏ス」との記述しか見当たらない。 一般には9月第2土曜日に行われる「奥澤神社の大蛇お練り神事」が知られている。 この神事については、次のような由来が伝えられている。 江戸時代の中頃、奥沢の地に疫病が蔓延した。 ある夜名主の夢枕に八幡神が現われた。 八幡神は「藁で作った大蛇を村人が担いで村内を巡行させよ」と名主に告げた。 名主は早速夢告に従って新藁で大きな蛇を作り村内を巡行させたところ、疫病は程なくして治まった。 藁の大蛇は厄除けの守護神として崇められ、年に1度村内を巡行する祭が始められた。 お練りは例祭の最初のセレモニーとして行われる。 午前10時に氏子たちの手で本殿から大蛇が担ぎ出され、宮司から修祓を受ける。 拝殿前にある大イチョウを左回り(反時計回り)に3回巡り、鳥居をくぐって巡行を開始する。 巡行の先頭は榊持ち1人、紙吹雪を撒く係1人、そして宮司となる。 宮司の後ろには、警固役として高張提灯持ち2人が従う。 高張提灯持ちの次に大蛇が続くが、頭部は担ぎやすいように木の枠が取り付けられていて、これを4人がかりで担ぐ。 大蛇の胴体部分は10人前後が担ぐ。 巡行の最後尾は、大蛇の後に従う高張提灯持ち2人となる。 周囲には各睦(共栄睦、商睦、あずま睦、諏訪山睦、本町睦、奥沢南睦、九品仏睦)からの役員10名ほどが付き添って車と人の通行に配慮し、車の流れが途切れているときには大蛇を左右に動かしながら担いで蛇の這う様子を表現する。 大蛇を作った際に残った藁の束を抱えた役員1人が、沿道の人々に厄除けとして藁を配る。 掛け声は「わっしょい! わっしょい! 」で統一され、各睦が設置した神酒所7か所などの町内約4キロメートルの距離を2時間半ほどかけて巡行する。 神酒所を回る順番は、共栄睦、商睦、あずま睦、諏訪山睦、本町睦、奥沢南睦、九品仏睦となっている。 神酒所で担ぎ手は宮司から修祓を受け、各睦との境目で次の睦の者と担ぎ手を代わる。 正午過ぎに九品仏睦が担ぐ大蛇が環状8号線まで到着すると、交通規制の関係で大蛇は車両に積み込まれて、奥沢駅南側の三叉路付近まで運搬される。 車両から大蛇が降ろされると、各睦の代表者たちが担ぎ手となって自由通りを約200メートルほど神社へ向かって巡行を続ける。 巡行を終えた大蛇は、本殿に1年間安置された後にが修祓を行い、奥澤神社の鳥居に以前の大蛇と交代するかたちで巻きつけられて飾られる。 大蛇お練り神事は、1939年(昭和14年)から1957年(昭和32年)にかけて中断されていた。 中断に至った理由は、木造の鳥居から石造の鳥居に替えた際に「石の鳥居では大蛇の腹が冷えてしまうだろう」と気づかったためという。 その後1958年(昭和33年)になって、「神社は古いことを見直し、伝えるべきである」との当時のの働きかけによって再興された。 大蛇の制作は、毎年9月の第1日曜日、朝9時に氏子の有志(「奉製者」と呼ばれる)が集まって宮司から修祓を受けた後に開始される。 制作に使用する藁は、のものを用いて2-3日前にハカマ(藁の下葉)を除いた上で小さく束ねておく。 宮司と約40人の氏子は、頭造りの組と胴体創りの組の2手に分かれて作業を行い、頭部約80センチメートル、胴体部の長さ約10メートル、直径約25センチメートル、総重量約150キログラムに及ぶ大蛇を作り上げる。 なお、祭りの中断前は「カミ」、「ナカ」、「シモ」の各ズシ が1年ごとの交替制で大蛇を作っていた。 その頃は各ズシが大蛇の出来栄えを競い合っていたため、最近の大蛇に比べてよくできていたという。 1935年(昭和10年)頃からは各ズシだけで藁を調達することが困難になったため、栃木や群馬からも藁を取り寄せるようになった。 他に地元商店街の有志が小型の大蛇を制作している。 こちらの大蛇は、四斗樽5本を積み重ねて作られた共栄睦の大神輿に絡めさせられた形で例祭のときに町内を巡行している。 小型大蛇の制作を手掛けることによって、藁製の大蛇づくりの技術が若い氏子たちに引き継がれていく。 奥澤神社の例祭はかつて9月15日であったが、明治維新後に太陽暦が導入されると10月15日になり、1974年(昭和49年)からは敬老の日に合わせる形で9月15日に戻った。 両日とも囃子が奏されるが、奥沢地区では囃子の演者が絶えている。 そのため奥澤神社では、瀬田地区にある瀬田囃子保存会に演奏を依頼している。 大蛇のお練り神事は1977年(昭和52年)のテレビ放映によって知名度が高まり、初詣や厄除けにも奥澤神社の氏子以外の人々が訪れることが増えたという。 この神事は、1993年(平成5年)に世田谷区指定無形民俗文化財(風俗慣習)に指定された。 2016年(平成28年)には東京都文化財保護審議会により、東京都の無形民俗文化財(風俗慣習)に指定する旨の答申が行われ、同年3月11日付で指定された。 東京都文化財保護審議会の答申では藁の大蛇を担いで地域を巡行する形をとるものは都内では他に例がなく、全国的にも珍しいという理由が挙げられた。 資料写真 [ ]• 「貞和」は方が使用したである。 方の元号では6年-5年にあたる。 「世田谷七沢」については、諸説がある。 現存の地名では、、奥沢、など、消滅した地名では池沢(の一部)、吉沢(の一部)、馬引沢(、、などの一部)、廻沢(付近)などといわれる。 「八八幡」には、、、代田八幡神社などの名が挙げられている。 『奥沢 世田谷区民俗調査第5次報告』(1985年)14頁では、「明治11年以前には既に合併していたとするものもある」との注記を付している。 世田谷区自然的環境の保護及び回復に関する条例、指定番号第46号。 (面積1,500)• 「享保三年」は、では1718年1月31日 - 1719年2月19日となる。 「文政三年」は、グレゴリオ暦では1820年2月14日 - 1821年2月2日となる。 鳥居改築の年について、1969年(昭和44年)発行の『せたがや社寺と史跡その二』及び1971年(昭和46年)発行の『史蹟散歩』では「昭和3年」と記述されている。 西の方から「カミ」、「ナカ」、「シモ」の地域に分かれていて、奥沢地区の町会は3つのズシの編成をおおむね引き継いで組織されたという。 なお、「カミ」と「ナカ」が奥沢新田村、「シモ」が奥沢本村にあたる。 出典 [ ]• 世田谷区八幡小学校ウェブサイト. 2016年5月4日閲覧。 ウェブサイト. 2016年5月4日閲覧。 2016年5月14日閲覧。 2016年1月26日. 2016年5月14日閲覧。 、8頁。 、61頁。 大成建設 2005-05-19 , , 週刊新潮, の2014年2月21日時点におけるアーカイブ。 , 2014年2月8日閲覧。 、65頁。 並木浩一 2008年3月14日. 2016年5月4日閲覧。 密藏院公式ウェブサイト. 2017年9月29日閲覧。 、49-50頁。 みどり政策課. 世田谷区役所. 2016年5月8日閲覧。 、100頁。 世田谷区役所生涯学習・地域・学校連携課 文化財係 2013年10月30日. 世田谷区役所ウェブサイト. 2016年5月4日閲覧。 、6頁。 、1-3頁。 おくさわ商店街親交会ホームページ. 2016年5月14日閲覧。 、150頁。 参考文献 [ ]• 「帝釈天の松 答申」『』 2016年1月28日付朝刊、第14版、第28面。 大谷修二『奥沢物語』1994年。 奥澤神社 『郷土史おくさわ』1982年。 九品仏地区身近なまちづくり推進協議会広報部会 『鷺の谷』第144号(平成28年4月1日発行)、2016年。 特別区協議会総務部企画財政課 『区政会館だより』No. 313(平成28年4月)、2016年。 下山照夫編 『史料に見る江戸時代の世田谷』 岩田書院、1994年。 世田谷区教育委員会(世田谷区立郷土資料館) 『世田谷区神社台帳』1987年。 世田谷区教育委員会(世田谷区立郷土資料館) 『世田谷区社寺史料 第二集 建築編』1983年。 世田谷区教育委員会 『せたがや社寺と史跡その二』1969年。 世田谷区教育委員会 『世田谷区文化財調査報告集2 世田谷の水神信仰と雨乞い習俗 平成5年3月』 1993年。 世田谷区教育委員会 『せたがやの文化財』2009年。 世田谷区教育委員会 『世田谷区文化財調査報告集24 祭り囃子を中心にした世田谷区内の民俗芸能の調査報告 平成27年3月』 2015年。 ISSN 0919-6374• 世田谷区区長室広報課 『改訂・せたがやの散歩道 一歩二歩散歩』1995年。 世田谷区生活環境部みどりの課 『世田谷区名木百選』1988年。 世田谷区民俗調査団編集 世田谷区教育委員会発行 『せたがやの民俗 第一次中間報告』1979年。 世田谷区役所企画部広報課広報係 『史蹟散歩』1971年。 世田谷区役所生活文化部文化・国際課 『ふるさと世田谷を語る 尾山台・奥沢』1990年。 世田谷区民俗調査団編集、世田谷区教育委員会発行 『奥沢 世田谷区民俗調査第5次報告』1985年。 世田谷区立郷土資料館 『ジャの道は蛇 -藁蛇の祭と信仰』1995年。 玉川の郷土を知る会(旧:玉川地域活動団体連絡協議会)発行、世田谷区玉川総合支所地域振興課:事務局『世田谷ふるさとめぐり てくたくぶっく 九品仏コース』 2008年。 東京都教育庁地域教育支援部管理課 『東京の文化財』第120号 2016年3月31日。 東京都教育庁地域教育支援部管理課 『文化財の保護』第49号 2016年7月。 「奥沢新田村」『新編武蔵風土記稿』巻ノ50荏原郡ノ12、内務省地理局、1884年6月。 世田谷区役所 2017年4月1日. 2017年11月2日閲覧。 関連項目 [ ]• ウィキメディア・コモンズには、 に関するカテゴリがあります。 外部リンク [ ]• 観るなび ウェブサイト• 国際教養振興協会ウェブサイト• せたがやeカレッジ講座ウェブサイト.

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三宿神社

神社 世田谷区

もくじ• 御由緒 1091 寛治5 年、源義家は後三年の役に勝利した帰途、宮の坂の地で豪雨に遭い、天候回復を待つため滞在した。 その際、戦勝したのは氏神である八幡大神の加護によるものとして、豊前国宇佐八幡宮の分霊を勧請し祀ったのが始まりとされる。 その後、世田谷城主七代目の吉良頼康が1546 天文15 年に社殿を修復、備前雲次の太刀一振を納めたと伝えられる。 しかし実際は、当社に収蔵されている棟札から頼康が創建したと推測されており、江戸名所図会にも頼康が鎌倉の鶴岡八幡宮を模して造営し、境内に桜を植樹したと記されている。 時は移り、徳川家康が江戸に入城した後、朱印状11石を寄進した。 その後幾度か再建され、明治5年 1872 には郷社に列し、社号を宇佐神社と改称した。 1908~1909 明治41~2 年には、付近の神社を合祀している。 第二次大戦後、世田谷八幡宮の社号に戻し、1961 昭和39 年には壮麗な社殿に改築した。 なお、1813 文化10 年造営された旧本殿が現社殿内に納められている。 東急電鉄世田谷線の宮の坂駅で下車。 駅の北西側すぐそば、徒歩1分程度のところに鎮座する。 参道入口からすでにとても良い気の流れが感じられる。 二の鳥居も、圧のようにすら感じる存在感を持つ。 参道を進むと左手に手水舎。 井戸水が使用されており、冷たすぎず、口に含めば柔らかさがある。 阿吽ともに子を抱く姿の狛犬は1877 明治10 年奉納。 境内にある土俵と力石。 古来、祭礼として相撲が奉納されており、、とともに江戸郊外三大相撲の一つとされていた。 現在でも9月15日の例祭時に、東京農業大学相撲部により奉納相撲が行われる。 豊かな社叢に囲まれた社殿は、世田谷総鎮守の名にふさわしい規模感だ。 境内社 拝殿右手奥に境内社の招魂社 氏子戦歿者 、そして高良神社 高良玉垂命 がそれぞれ鎮座している。 参道入口右手に厳島神社 市杵島姫命 が鎮座している。 小さな滝も作られ、庭園や藤棚も整備されており、非常に良い雰囲気。 もしかすると、参道入口で感じた良い気は、奥の社殿からだけではなくここからも来ているのかもれない。 御朱印.

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