金田 城跡。 2020年 金田城へ行く前に!見どころをチェック

古代山城

金田 城跡

金田城は対馬国下県(現在の長崎県対馬市)郡の城山にあった日本の古代山城です。 城跡は国の特別史跡に指定されています。 標高276mの城山に築城された古代山城である金田城は、朝鮮式山城で飛鳥時代の天智天皇6年(667年)に築城されました。 急峻な自然地形を利用して築造されていて、城山の東斜面に城壁、城門、水門、掘立柱建物跡の構築が認められます。 特に城壁は約2. 8㎞に及ぶ石塁が全周しています。 金田城は国防の最前線となった対馬に防人が築いた大要塞であり、続日本100名城にも選定されました。 防人は664年、壱岐・対馬・九州北部に配置された辺境守備兵のこと。 初期の防人は東国から徴発され、武器や食料は自前で準備し、3年間自給自足しながら警戒に当たっていたと言われています。 写真提供 金田城がある長崎県対馬市は約100の小島から形成され、日本の島の中では3番目の広さを誇ります。 対馬は3世紀頃から小船で行き来し、日本本土や朝鮮半島などの大陸と交易を行っていました。 633年、日本と百済の連合軍対唐と新羅の連合軍が戦う「白村江の戦い」が起こります。 この戦いで、日本は敗戦してしまうのです。 負けた日本側は自国防衛に乗り出し、その1つとして金田城が対馬に築かれたのでした。 約1350年も前に国をあげて築かれた金田城は、天守が誕生するよりもずっと前から存在します。 定番の見学ルートは、南門の石塁や南西部石塁、城山砲台跡を見学して、城山山頂へ向かう山頂コースです。 山頂からは島々が重なる大パノラマが広がり、見晴らしは最高です。

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閑古鳥旅行社 − 金田城跡

金田 城跡

金田城は対馬国下県(現在の長崎県対馬市)郡の城山にあった日本の古代山城です。 城跡は国の特別史跡に指定されています。 標高276mの城山に築城された古代山城である金田城は、朝鮮式山城で飛鳥時代の天智天皇6年(667年)に築城されました。 急峻な自然地形を利用して築造されていて、城山の東斜面に城壁、城門、水門、掘立柱建物跡の構築が認められます。 特に城壁は約2. 8㎞に及ぶ石塁が全周しています。 金田城は国防の最前線となった対馬に防人が築いた大要塞であり、続日本100名城にも選定されました。 防人は664年、壱岐・対馬・九州北部に配置された辺境守備兵のこと。 初期の防人は東国から徴発され、武器や食料は自前で準備し、3年間自給自足しながら警戒に当たっていたと言われています。 写真提供 金田城がある長崎県対馬市は約100の小島から形成され、日本の島の中では3番目の広さを誇ります。 対馬は3世紀頃から小船で行き来し、日本本土や朝鮮半島などの大陸と交易を行っていました。 633年、日本と百済の連合軍対唐と新羅の連合軍が戦う「白村江の戦い」が起こります。 この戦いで、日本は敗戦してしまうのです。 負けた日本側は自国防衛に乗り出し、その1つとして金田城が対馬に築かれたのでした。 約1350年も前に国をあげて築かれた金田城は、天守が誕生するよりもずっと前から存在します。 定番の見学ルートは、南門の石塁や南西部石塁、城山砲台跡を見学して、城山山頂へ向かう山頂コースです。 山頂からは島々が重なる大パノラマが広がり、見晴らしは最高です。

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【特別史跡金田城跡】アクセス・営業時間・料金情報

金田 城跡

金田城 こんだじょう は小田四十八館のひとつとされ、 1499年頃には小田氏配下の沼尻又次郎という人物が在城していたみたいです。 明瞭に遺構が残されている場所はそう広大でもなく、横堀に囲まれた主郭および北側の郭~狼煙台程度なんでしょうけど、金田城南西からは金田官衙遺跡 こんだかんがいせき :国指定文化財 が発見されており、台地続きに城郭か、もしくは根小屋が広がっていたんじゃないかと想像してしまいます。 金田城で見学できる遺構はなかなかのもので、特に主郭を囲む横堀は迫力があって見応えがあります。 まるで、県南東の鹿行近辺で見られる城郭を髣髴とさせる感じ。 藪が 2011年訪問時より随分と減って、場所によっては綺麗に刈り取りまで行われていました。 以前はよく判らなかった主郭の虎口も、これでもかというくらいに明瞭になっていたり。 もしかしたら、何かしらの整備計画が着々と進行しているのかもしれませんね。 なかなかの遺構が残されている城跡なので、こういうのは本当に有難いことです。 金田城、読みは「かねだ」ではなく「こんだ」です。 当然住所も「こんだ」なのですが、 で話した同市内の方は「こんだ」と話しても理解してもらえず、「かねだ」と呼び方を変えてようやく通じた次第でして・・・。 伝承では小田四十八館のひとつということらしいですが、詳細に関してはわかっていないみたいです。 小田城とはそんなに離れていないことから、説明会に行く前に散策してみました。 事前の下調べだと一時間もあれば十分かななんて思っていたんですけど、思う以上に巨大な堀跡に圧倒されて瞬く間に時間を消化。 タイムアップで撤退しましたが、もうちょっと見ていたかったな~。 西側は台地続きになっていますが、東側は低地になっています。 田んぼのみならず溜池も見られることから、往時は泥田というよりも、どちらかというと沼という表現のほうが相応しい湿地だったのかもしれません。 写真右は2013年12月に撮影したものです。 深さというか、明瞭度が増していました。 大半が藪ですが、土塁が良好に残されていました。 こんな中を一人で歩いていると結構怖いですよ。 このあたりも曲輪として使用されていたのかなぁ。 結構しっかりした道幅がありますね。 頂に残る窪みといい、狼煙台と想定しても違和感がないように思ってしまいます。 ここ、見方によっては 特に台地下からここに上がってくると 細道なので土塁上とも呼べそうな感じの場所なんですけど、土塁上の細道というと、どうしてもの変形武者走りを思い出してしまう・・・。 写真は2011年に撮影したものですが、今回見ても状態はそんなに変化ありませんでした。 官衙を調べてみると、官衙とは役所や官庁を意味するのだそうで、奈良時代から平安時代にかけて造営された役所の一部が、ここに存在していた可能性が高いということみたいなんです。 たしか常陸国の府中 国府 は石岡ですから の項を参照 、いまでいう市町村の役場か、県庁の出先機関があったと考えておけばいいのかな。 調査結果もなかなかのもので、礎石建物8棟、総柱の掘立柱建物3棟が並んで検出された 恐らく正倉院地区 ほか、官衙地区では100棟もの礎石・掘立柱建物跡や柵列、井戸なども検出されているんだとか。 う~ん、なかなかの規模ですねぇ。 現地ではこの状況ですが、そう遠くない場所にある歴史民族資料館にいけば、数々の資料や展示品などを確認できるみたいですね。 機会があれば、いつか訪問してみたいかな。

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