斎藤 道 三 死因。 長良川の戦い

斎藤義龍

斎藤 道 三 死因

生涯 [ ] 家督相続 [ ] 17年(1548年)、の庶子として生まれたと伝わるが、生母が近江の方(近江局)という説が事実であるならば、義龍の子となり、となる。 近江の方はの娘という説があるが、義龍と久政は年齢が1つしか違わないため、近江の方は久政の実子ではなく養女ということになる。 よって近江の方は、久政の父・の娘であるというのが有力な説となっている。 道三と義龍との父子関係を肯定するのであれば、の実の孫に当たる。 4年()、父・義龍の死により14歳で美濃斎藤氏のを継ぐ。 しかし父の代から続くのの侵攻、祖父の代より続く家臣の流出(、、、、等)、祖父や父と比べると凡庸で、評判の悪いの重用などにより、家臣の信望を得ることができなかった。 永禄4年のにおいては、戦いそのものには勝利したものの、重臣()の、らを失う。 永禄5年()には、有力家臣であった主のが病没する。 美濃国攻防戦と敗走 [ ] 稲葉山城(岐阜城) 龍興は信長の侵攻に対処するため、父・義龍の進攻対象であったのとを結ぼうとした。 しかし信長に機先を制され、長政は信長と同盟を結び、逆に美濃に侵攻するようになる。 この時は義龍の時代から同盟を結んでいたが浅井領に侵攻したため、長政は美濃攻めを中止して撤退している。 永禄6年()、再度侵攻した織田信長と新加納で戦い、家臣のの活躍もあって織田軍を破った()。 しかし永禄7年()、斎藤飛騨守に私怨があった竹中重治と、その舅でありの1人・によって飛騨守を殺害されて居城のを占拠され、龍興は、さらにに逃走した。 後に重治と守就は龍興に稲葉山城を返還したため、龍興は美濃の領主として復帰したものの、この事件により斎藤氏の衰退が表面化する。 織田信長の永禄5年頃から始まった築城により圧力がかかったにおいては(が織田氏の縁戚となるなど元々織田氏の影響力が強い地域であったが)、有力領主である、、などが織田氏に通じるようになる。 永禄8年()には、織田家に降った主・により、主のが討たれた。 この時、主であり、国内の押さえとなっていた大叔父のも織田家の武将となっていたに敗れ、中濃地方も信長の勢力圏に入った()。 11月13日には、足利将軍家にあてて、代初の儀について太刀一腰と馬一疋を祝言に贈っている。 永禄10年()、西美濃三人衆のや、安藤守就らが信長に内応した為、遂に稲葉山城を信長によって落とされ()、8月15日、城下のを船で下り、のへと退散した。 その為、龍興を追って織田軍が長島に攻め寄せている。 当時20歳。 以降、再び大名として美濃に返り咲くことはなかった。 織田への反抗 [ ] 長島に亡命した龍興は、元年()に始まるに長井道利と共に参加し、信長に対する抵抗活動は継続した。 その後伊勢から畿内へ移り、永禄12年()1月にはと結託し、信長が擁立した第15代・を攻め殺そうとしたが、敗退している(、六条合戦)。 更に同じ元亀元年(1570年)8月には、、、や・らとともに三好三人衆の籠城を支援()。 信長が、浅井長政に後背を脅かされ、退却するまで持ちこたえた。 最期 [ ] その後、縁戚関係にあったことからの朝倉義景の下へ逃れて保護された。 いわゆるとして遇されたとも伝わる。 元亀2年()8月、顕如は一色式部大輔(=龍興)に充てて書状を送り、「御本意」実現を願って黄金と太刀を贈っている。 それより少し前の同年正月には、「一色義紀」と称していた龍興から乗了に対して、専勝がを説得し、また自分もを長島に派遣する予定であったが、専勝の病気で計画が延期になってしまったとする書状が残されている。 これらの文書から、朝倉氏や越前・美濃の門徒の支援を受けた龍興が北(越前)から、長島の門徒の支援を受けた日根野が南(伊勢)から、美濃に入国・挟撃する計画が存在したことが分かり、同年冬には実際に作戦が実行されたことを示唆する顕如の書状 が存在する。 しかし朝倉軍が雪のために全軍を越前に引き上げたこともあって、龍興も美濃国奪取・復帰までには至らず、同じく越前に引き上げたと見られている。 元年(1573年)8月、義景が浅井長政を支援し、信長と対決するために近江国北部に出陣した際に龍興も従軍したが、8月14日、朝倉軍が織田軍に敗れて刀禰坂で追撃を受けた際、戦死した(の項目参照)。 一説によると、かつての重臣であった氏家直元の嫡男・に斬られたとされている。 法名は瑞雲庵竜興居士とされるが、『常在寺記録』には瑞光院竜淵宗雲日珠大居士と号したとある。 生存説 [ ] 本願寺勢力と結びついた、いわゆる「生存説」がいくつかある。 越中の九右ェ門 [ ] ()の伝説によると、龍興は戦死してはおらず、家宝系図を持って永禄12年(1569年)、3月に布市村に来て、興国寺に隠れた。 天下の情勢から家を再興する事かなわずと悟った龍興は、九右ェ門と改名し、付近の原野を開拓した。 開拓に当たって、「の力である、の力なり」と一族を励ましてこの地に住みついた。 信長と本願寺のが終わった天正8年(1580年)に九右ェ門はこの地を経力村と名づけた。 に入った16年(1611年)、九右ェ門は家督を子に譲り、草高を持参して布市興国寺で、となった。 興国寺には、龍興が持参したというと(木造立像)が伝えられている。 9年(1632年)6月19日にし、墓は富山市経力の本誓寺の前にあるという。 享年87。 九右ェ門の子孫は、文政3年(1820年)11月、越中国新川郡大泉村(現・富山市大泉)に移り、後に2年(1913年)11月、堀川村小泉(富山市堀川小泉)に転住したという。 羽島の伝承 [ ] 刀根坂の戦いを落ち延び、本願寺と合流したとする伝承がある。 龍興はに逃れ、本願寺勢力と共に再起を期していたが、現在の足近町の寺で病死した、とされる。 同地の願教寺には、龍興の墓と、その父である義龍、さらに龍興の子とされる小兵衛義仁のが伝えられている。 人物・逸話 [ ]• 父の義龍が祖父のに謀反を起こした際、義龍はその母方のを称したというが、龍興自身も一色姓を用いていた。 木下聡は(織田信長が一色姓への改称を完全に無視したこともあり)「一色」名義で記された多くの龍興関係の史料が認識されていないと指摘している。 また、美濃国主時代にはよりを受けて「義棟」を名乗っている。 斎藤氏以来の家臣団を一色氏の家臣団の名字に改名させた。 (が一色氏の延永氏を名乗るなど)• 前述の越中(富山県)に土着した説と関連して、富山市には九右エ門(龍興)が鶴に教えられて開いたとする由来を持つがあり「霊鶴源泉」と称している。 といって長年続き、のちにで捕らえられた隠れキリシタンが預けられた、などの歴史がある。 大正6年(1917年)に廃業し、霊鶴鉱泉に祀られていた木造像は現在、本誓寺(富山市経力)に安置されている。 第9代藩主・が所蔵していたとされる、経力の湯の冬景色を描いた図がに伝わる。 龍興は在住時、を目指した。 その記録が幾つか残っている。 からキリスト教の宗儀・世界の創造などについて説かれると聴聞した事を逐一書き留め、次にへ姿を現した際にはその全てを明白に、流暢に、一言一句の間違いなく反復することが出来たといい、教会の信者達はとても驚いたそうである。 に対して「人間がによって祝福され、万物の霊長であると保障されて居ると師は言う。 ならば、なぜ人間界にかくも多くの不幸が満ちており、戦乱の世は終わらないのか。 万物の霊長たらんと創造されたのなら、なぜ人間の意志に世は容易に従わないのだろうか。 こんな荒んだ世の中を一生懸命、善良に生きている者達が現世では何ら報いも受けられないのは、何故なのか」と質問した。 ヴィレラは龍興の疑問に対し、その全てに納得がいく様な道理を上げて説明したと記録されている。 ルイス・フロイスは『』に龍興について、「非常に有能で思慮深い」と記録している。 登場作品 [ ]• 『』(、、演:(現・大石吾朗))• 『』(、NHK大河ドラマ、演:)• 『』(、、演:)• 『』(、NHK大河ドラマ、演:)• 『』(、テレビ東京、演:)• 『』(、NHK大河ドラマ、演:)• 『』(2014年・フジテレビ 演:)• 『』(~、、の漫画)• 『信長戦記』(~、、かわのいちろうの漫画)• 『』(~、、の漫画)• 『蝮の孫』(、、の小説) 脚注 [ ] [].

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斎藤義龍 斎藤道三の嫡男として斎藤家を率いるも・・

斎藤 道 三 死因

斎藤道三(利政)と斎藤義龍(高政)の関係を家系図から解説! 斎藤道三(利政)と斎藤義龍(高政)は親子の関係? 上記の家系図からわかるとおり、斎藤道三と斎藤 義龍 よしたつは親子の関係にあります。 ただ、斎藤義龍は実は斎藤道三の子供ではなく、美濃の守護大名で斎藤家の主君である 土岐頼芸 ときよりのりと 深芳野 みよしの との間の子供であったという噂があります。 これについては証拠がなく、本当かどうかははっきりとしていません。 ただ、道三は義龍のことをあまり良く思っていない様子で、龍重や他の弟の方を可愛がっていたようで、この噂は本当だったと信じられているのも不思議ではありませんでした。 なお、道三には義龍以外にも数多くの子供がいます。 上記の家系図にある龍重(孫四郎)は義龍の弟にあたり、正室のお見の方を母とする異母兄弟だったとされています。 しかし、道三の子供の出生については不確かで、龍重の母は深芳野だったという意見もあります。 斎藤義龍(高政)と織田信長は義理の兄弟の関係:二人の仲は悪かった? 斎藤道三はもともとは織田信秀と対立関係にありましたが、和睦して同盟関係を結ぶ為、娘の帰蝶を織田信長の妻として嫁がせました。 つまり織田信長は斎藤道三にとって義理の息子になったわけですが、道三は初めて会った時から信長のことを高く評価していたようです。 その初めての会見のエピソードは語り草になっていて、信長が登場するドラマではその様子が度々描かれています。 しかし、道三が信長を高く評価すればするほど斎藤義龍は不満を募らせ、その矛先は織田信長に向いていったようです。 斎藤道三(利政)と息子の斎藤義龍(高政)の関係が悪化し「長良川の戦い」に至った理由を解説! 斎藤道三と息子の義龍の親子の関係は次第に溝ができ悪化していったようです。 それはやがて親子で争う合戦の引き金になるのですが、なぜそこまで関係が悪化してしまったのか?考えられる要因を解説していきます。 斎藤道三(利政)が義理の息子・織田信長を高く評価するようになったから 先程ご紹介したように、道三は信長との会見のあと、その人間性に惚れ込み高く評価するようになりました。 身近に稀代の戦国武将である織田信長が存在し、道三自身も商人からのし上がり「美濃のマムシ」とまで呼ばれる存在であり、こうした戦国時代の傑物と比較すると、義龍はどうしても見劣りしてしまったに違いありません。 そしてやがては「義龍はできそこない」といったイメージを抱いてしまったのではないでしょうか。 実際に、天文22年(1553年)4月の斎藤道三と織田信長の会見以後は、息子の義龍を冷遇するようになっていったようです。 斎藤道三(利政)は義龍(高政)より弟の龍重(孫四郎)に家督を譲ろうとしたから 斎藤道三は、かねてから長男である義龍よりも弟の龍重や他の弟たちを可愛がっていたようで、それを感じていた龍重たち弟も長男の義龍を軽んじる態度をとっていたそうです。 さらに、お伝えしたように織田信長との会見以降、道三はさらに義龍を冷遇するようになり、 天文23年(1554年)には龍重を重要な地位に任命し、家督を義龍ではなく龍重に譲ろうという意図がはっきりとわかるようになります。 こうした道三の態度に義龍は不満を募らせていったわけですね。 斎藤義龍(高政)が実の息子ではないという事に真実味を帯びたから かねてから父・道三が自分よりも弟たちの方を可愛がっていたことに不満を覚えていた義龍は、家臣の日根野弘就や長井道利に相談しました。 すると二人の口から出た言葉は「それもそのはず。 貴方様は道三公の実の子供ではなく、奥方の深芳野様と土岐頼芸公の子供なのですから」という内容のものでした。 これを聞いた義龍は、驚きとともに道三の仕打ちに対して怒りがこみ上げてきました。 このことをきっかけに、義龍は道三を殺害しようと心に決めたのです。 もしかすると、義龍と同じように道三を憎く思っていた家臣達が義龍を奮起させる為の作り話だった可能性もあります。 ただ、そう信じられても不思議ではないほど、道三と義龍の仲は悪かったということですね。 斎藤道三(利政)と斎藤義龍(高政)親子の「長良川の戦い」と明智光秀や織田信長の動向を解説! 父・道三に対して怒りの感情が抑えられなくなった義龍は、ついに道三殺害に乗り出します。 そしてそれは美濃の長良川を舞台にした戦へと発展していくのです。 斎藤義龍が弟の龍重(孫四郎)と龍定(喜平次)を殺害する 義龍は、まずはじめに道三から寵愛され家督を譲られた弟の龍重と龍定を殺害することにします。 弘治元年(1555年)の秋、義龍は病気になったと偽って居間にこもるようになります。 そして長井道利(出生の秘密を打ち明けた家臣)を弟の龍重と龍定のもとに遣わし、別れのあいさつの為と称して呼び出しました。 何も知らない二人の弟は義龍のもとにやってくると、待ち伏せしていた日根野弘就(もうひとりの家臣)が二人を斬り殺しました。 対立関係にあった弟たちに不審に思われないよう、病と偽っていたことからもわかるように、義龍は着々と計画を練っていたことが伺えます。 父・斎藤道三(利政)と長良川にて対峙し、最後は道三を打ち取る 二人の弟を殺害した義龍は、そのことを父・道三に知らせたといいます。 それを聞いた道三は驚き慌てて大桑城(おおがじょう)に逃げ込み一時は膠着状態で年を越しますが、翌年(1556年)の春頃から情勢は緊迫し、ついに道三と義龍の親子による合戦が始まったのです。 お互いに兵を集めますが、事前に根回しをしていた義龍が約17,500人の兵を集めたのに対し、道三は約2,700人の兵しか集まらなかったといいます。 道三軍は最初のうちこそ持ち堪えていたものの、兵数の差を埋めることはできず、ついに道三のいる場所まで義龍軍が攻めこんできました。 すると義龍軍の兵は競い合うようにして道三に襲いかかり、最後は無残にも首を落とされてしまいました。 かつては「美濃のマムシ」と怖れられた斎藤道三も、そのやり方には息子の義龍をはじめ、家臣からも不満を抱かれていたことがわかります。 長良川の戦いで明智光秀や織田信長はどうしたか 明智光秀の動向 この「長良川の戦い」において明智家は道三に味方した為、義龍軍に囲まれた明智城は陥落し、叔父の光安はこの合戦で命を落としました。 この時、明智光秀も城にこもっており、叔父の光安と共に最後まで戦うと言いますが、光安は「お前は生き延びて必ず明智家を再興してくれ!」と言ってこれを許しませんでした。 その言葉を受けた明智光秀は、身ごもっていた妻の 煕子 ひろこを背負って逃げ延びました。 そして流浪の末に越前までたどり着き、そこで朝倉家に仕えることになるのです。 織田信長の動向 斎藤道三の義理の息子である織田信長は、道三に味方するべく自ら兵を率いて援軍を送ります。 美濃に向かう途中まで兵を進めますが、合戦には間に合いませんでした。 道三を破った義龍軍の兵は勢いに乗り、とうとう織田信長がいた場所まで攻め込んでくると両軍は河原で激突します。 この状況でようやく道三の死が信長の元に伝わると、信長はやむを得ず退却することにし、自らがしんがりを努めて尾張へと戻ったのでした。 斎藤道三と斎藤義龍の親子が争った「長良川の戦い」の経緯のまとめ 最後に、斎藤道三と斎藤義龍の親子が争うことになった「長良川の戦い」に至ってしまった理由と経緯をまとめておきます。 斎藤道三と斎藤義龍の関係が悪化した理由• 道三が息子である義龍よりも義理の息子の織田信長を評価した• 義龍よりも弟たちの方を可愛がった• 義龍は道三の実の息子ではない事がわかったから (義龍の出生については定かではない) 「長良川の戦い」の経緯:明智光秀や織田信長の動向• 義龍が弟の龍重・龍定を殺害する• それを聞いて道三は大桑城へ移り、義龍との決戦を決意する• 義龍軍17,500人vs道三軍2,700人• 義龍軍が道三の首を打ち取り、義龍の勝利に終わる• 明智光秀は道三側に味方し、逃げ延びて越前へ向かう• 織田信長も道三側に味方するも、合戦に間に合わず退却する 下剋上の代名詞として「美濃のマムシ」と怖れられた斎藤道三も、それまでの過激な行いがアダとなり、最後は息子の義龍に殺害されてしまったわけです。 これにより、美濃を追われた明智光秀や、道三の後ろ盾を得ていた織田信長の状況はガラリと一変します。 大河ドラマ「麒麟がくる」においても、この「長良川の戦い」は前半の大きなポイントになることでしょう。 はたしてどのように描かれるのか、それも見どころのひとつですね。 ちなみに、斎藤道三が「美濃のマムシ」と呼ばれるようになった理由について下記の記事でまとめています。 なぜこれほどまでに恨まれてしまったのか、それを解くヒントになると思いますので、こちらもぜひ読んでみて下さい。 さて、このブログでは他にも大河ドラマ「麒麟がくる」の時代背景を取り上げた記事を掲載しています。 登場人物の関係性など、ドラマでは描ききれなかった裏側についても書いていますので、さらに深く楽しみたいと思った人はこちらも併せて読んでもらえると嬉しいですね。

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斎藤義龍とは (サイトウヨシタツとは) [単語記事]

斎藤 道 三 死因

Contents 目次• 【 】 斎藤 道三・利政(さいとうどうさん・としまさ)は、 戦国時代の武将。 美濃の。 道三流斎藤氏初代当主。 【数多くの名前】 名としては、 長井規秀(新九郎)・長井秀龍(新九郎)・斎藤利政(新九郎) 道三などが伝わっていますが、 書状などに現れているのは、 藤原(長井)規秀・斎藤利政・道三などのみです。 美濃の蝮(マムシ)という綽名でも知られています。 権謀術数を用い、 は美濃の戦国領主として 天文23年(1554年)まで君臨した後、 へ家督を譲ります。 が、ほどなくして と義絶し、 弘治2年(1556年)4月に 長良川河畔で斎藤義龍軍に敗れ、 討ち死にしました。 【国盗りは父子二代】 近年では「岐阜県史」編纂の過程で 発見された古文書「六角承禎条書写」によって、 美濃の国盗りは斎藤道三一代のものではなく、 その父の長井新左衛門尉 (別名:法蓮房・松波庄五郎・松波庄九郎・西村勘九郎正利) との父子2代にわたるもの ではないかという説も有力となっています。 【六角承禎書写】 永禄3年(1560年)7月付けの 「六角承禎書写」が発見されました。 この文書は近江守護六角義賢(承禎)が 家臣である平井氏・蒲生氏らに宛てたもので、 前欠であるが次の内容を持つそうです。 【1】 斎藤治部(義龍)祖父の新左衛門尉は、 妙覚寺の僧侶であった。 【2】 新左衛門尉は西村と名乗り、 美濃へ来て長井弥二郎に仕えた。 【3】 新左衛門尉は次第に頭角を現し、 長井の名字を称するようになった。 【4】 義龍父の左近大夫(道三)の代になると、 惣領を討ち殺し、諸職を奪い取って、 斎藤の名字を名乗った。 【5】 道三と義龍は義絶し、義龍は父の首を取った。 父の新左衛門尉と見られる名が 古文書からも検出されており、 上記の文書から「国盗り物語」は、 新左衛門尉と道三の親子二代 にわたるものである 可能性が高くなりました。 【斎藤道三の晩年】 天文23年(1554年)、 斎藤利政は家督を子の斎藤義龍へ譲り、 自らは常在寺で剃髪入道を遂げて 道三と号し、 に隠居したと伝わります。 けれども斎藤道三は斎藤義龍よりも、 その弟である孫四郎や喜平次らを偏愛し、 ついに斎藤義龍の廃嫡を 考え始めたとされています。 齋藤道三と斎藤義龍の不和は はっきりと形にあらわれ、 弘治元年(1555年)に 齋藤義龍は弟達を殺害し、 斎藤道三に対して挙兵します。 【最期】 国盗りの経緯から斎藤道三に 味方しようとする 旧土岐家家臣団はほとんどおらず、 翌弘治2年(1556年)4月、 17500の兵を率いる斎藤義龍に対し、 2500の兵の斎藤道三が 長良川河畔で戦い、 娘婿の織田信長が援軍を派兵したものの 間に合わずに衆寡敵せず、戦死しました。 享年は63歳でした。 【信長への遺言と義龍への評価】 戦死する直前、 齋藤道三は織田信長に対して 美濃を譲り渡すという遺言書を 織田信長に渡していました。 齋藤道三は斎藤義龍を 「無能」と評していました。 けれども、 における 齋藤義龍の采配を見て、 その評価を改め、 後悔したとも伝わっています。 齋藤道三の首は、 齋藤義龍側に就いた 旧臣の手で道三塚に 手厚く葬られたそうです。 なお、首を討たれた際、 乱戦の中で井上道勝(長井道勝)により 鼻も削がれたということです。 【道三と義龍の不仲の原因】 齋藤道三と斎藤義龍との不和は、 齋藤義龍が斎藤道三の実子ではなく の子であったからだとする 説があるそうです。 齋藤義龍は大永7年(1527年)の出生で、 母の深芳野が土岐頼芸から 齋藤道三に下げ渡されてから 1年以内の出生のためであるからです。 【長良川の戦い】 長良川の戦い(ながらがわのたたかい)は、 弘治2年(1556年)4月に 斎藤道三とその嫡男である斎藤義龍との間で 美濃国(岐阜県)の長良川にて行われた合戦です。 <現在の長良川と金華山> 【合戦に至るまで】 天文11年(1542年)、 名門土岐氏に替わって 美濃の国主となった斎藤道三は、 天文23年(1554年)に 嫡男である斎藤義龍に国を譲り、 隠居しました。 けれども、斎藤道三は しだいに斎藤義龍を 「耄(おいぼれ)者」 と考えるようになり、 その弟の孫四郎と喜平次を 「利口者」だからと溺愛し、 三男の喜平次には 「一色右兵衛大輔」と名乗らせたとあります。 長兄の義龍を差し置いて 名門一色氏の姓と官途を与え、 さらに二人の弟は奢り高ぶり、 齋藤義龍を侮るようになったため、 齋藤道三と斎藤義龍の不仲は 深刻なものとなりました。 そのことを無念に思い、 弘治元年(1555年)10月、 齋藤義龍は病に臥せる振りをし、 の奥へと籠ったとされています。 自身を廃嫡し、 父である斎藤道三が寵愛する 二人の弟いずれかを 跡継ぎにするのではないかと、 考えた斎藤義龍は、 対抗手段を取ろうと策をめぐらしたのでした。 <稲葉山城( )と金華山> 【開戦まで】 そして翌11月22日に斎藤道三が 山下(麓の井口)の私邸に出向いた隙に 齋藤義龍は動きます。 二人の弟(喜平次、孫四郎)のもとに 叔父の を使わせ 「自分は重病であり、時を待つのみである。 会って一言申し上げたいの入来されたい」 と自分の傍に二人の弟を呼び寄せました。 長井道利が一計を図り、 まず次の間で長井道利が刀を置きました。 それに倣い二人にも刀を置かせました。 対面の席で酒を振る舞い、 酔わせてから寵臣の が 太刀で殺害しました。 なお二人の弟を謀殺した斎藤義龍は、 山下の斎藤道三に使者を送り、 その顛末を自ら斎藤道三に 伝えたとあります。 このとき斎藤道三は驚き、 急ぎ兵を集めて、 城下の町を焼き払い 城下から逃走したとあります。 長良川を超えると 山県の大桑城にまで逃れました。 その年はそのまま暮れたといいます。 翌年の雪解けとともに情勢は緊迫し、 春にはついに両者は決戦を決意して 争う事態となったとあります。 <大桑城> 【長良川の戦い】 4月18日、初め斎藤道三は 鶴山(鷺山説もあり)へと布陣したとあります。 齋藤道三の娘婿である尾張の織田信長も 木曽川・飛騨川を舟で越えて 大良(岐阜県羽島市)の戸島、 東蔵坊に至り ここに陣所を構えたとされています。 そして同月20日辰の刻に 齋藤義龍軍が長良川南岸に動いたのに応じ、 齋藤道三軍は鶴山(鷺山説もあり)を下りて 長良川まで進軍して、 北岸に移動し、 ここで両者は激突となったそうです。 なお斎藤道三が 国主となるまでの経緯もあって 思うように兵が集まらず、 重臣の西美濃三人衆をはじめとした 家中の大半は斎藤義龍を支持し、 齋藤義龍軍17500余名に対し、 齋藤道三が 動員できたのは2700余名と 齋藤義龍軍が 圧倒的に優勢であったそうです。 合戦は斎藤義龍軍の 先手 の突撃で開始。 竹腰勢は円陣を組み長良川を押し渡り、 齋藤道三の本陣へと迫り、旗本に切りかかる。 乱戦となったものの、 齋藤道三の指揮で竹腰勢は敗走し、 道三旗本により道鎮は討ち取られました。 それを見た斎藤義龍は、 自ら旗本を率いて川を越えて、 陣を固めました。 この時、義龍勢の中から 長屋甚右衛門が一騎討ちを挑み、 齋藤道三軍から柴田角内がそれに応じ、 両者の一騎討ちが始まりました。 勝負は柴田が長屋の首を挙げ、 両軍とも全軍に突撃を命じたとあります。 それにより乱戦となるも、 齋藤道三は緒戦こそ優勢に戦いを進めるも 兵力差は圧倒的に不利であったため、 ついに斎藤道三の前に 斎藤義龍勢が押し寄せてきました。 齋藤道三勢が崩れて、 長井忠左衛門道勝が生け捕りにして 齋藤義龍の前へ引き据えようと突進して 齋藤道三に組み付き、 もみ合っていたところへ 小牧源太が斎藤道三の脛を薙ぎ、 首を切り落としたそうです。 これに忠左衛門は激怒。 後の証拠として 斎藤道三の鼻を削ぎ懐に収め、 その場は退いたとされています。 これにより、合戦は終わりました。 なお道三の娘婿にあたる織田信長が 援軍を派遣していたものの、 合戦に間に合いませんでした。 【戦後】 首実検を行い、 その場所に斎藤道三の首が運ばれてきました。 けれども、 斎藤道三を討つ以前から 名乗っていたという史料もあります。 【尾張への影響】 斎藤道三の死は、隣国尾張にも影響。 尾張上四郡を支配する「岩倉織田家」 当主・織田伊勢守信安は斎藤義龍と呼応し、 清洲近くの下之郷(春日町)の村に放火しました。 これに対し、 織田信長は岩倉織田家の領地に攻め入り、 岩倉付近の領地を焼き払っています。 一方、尾張下四郡を支配する 「勝幡織田家」(弾正忠家)の家中にも、 齋藤義龍や織田信安と呼応して 織田信長から離反し、 織田信長の弟・信行(信勝)を 擁しようとする不穏な動きがあり、 やがてこれは勝幡織田家の家督争いへと 発展していくのでした。 【道三死後の美濃】 父斎藤道三を討ち果たした その子の斎藤義龍でしたが、 その後5年ほどで急死します。 斎藤義龍には持病があり、 其の持病が原因で亡くなったとされています。 その持病とは、 一説にはハンセン氏病とも いわれているそうです。 家督は斎藤義龍の子である が継ぎましたが、 尾張の織田信長の美濃侵攻により、 没落して美濃を追われ、 後に越前の のもとに身を寄せ、 織田信長に反抗を続けるも、 において戦死しました。 織田家では美濃斎藤家跡取として 濃姫の弟である が 美濃斎藤氏を継承し、 兄である斎藤利堯も重臣となりました。 【 落城】 この合戦で は斎藤道三に与したため、 齋藤義龍により 居城の明智城を攻められました。 辛うじて脱出した明智光秀は 流浪の生活が始まったとする説があります。 【正室・ の消息】 天文20年(1551年)3月11日に 肺病により死去という史料があるそうで、 既に亡くなったことになっていました。 けれども、 「言継卿記」(山科言継の日記)には、 永禄12年(1569年)8月1日付の日記に 織田信長が、信長本妻の姑に 礼を述べるため会いに行くと記述があり、 現在では、当時の資料である こちらの方が信憑性があるとされています。 従って、この時点では まだ存命したと考えられています。 斎藤道三の死去後、 斎藤道三に味方したということで 斎藤義龍から明智城は攻められ 落城となり、 明智一族はほぼ壊滅となりますが、 小見の方は無事に 生き延びたということでしょう。 2020年NHK大河ドラマ「麒麟がくる」では 斎藤道三役を本木雅弘さんが演じられます。 住宅の一角にありますので 近隣住民の方の迷惑にならないようにしましょう。 【常在寺】 【所在地】 岐阜県岐阜市梶川町9 【斎藤道三のお墓】 国の重要文化財に指定されている 斎藤義龍肖像画がこのお寺に所蔵されています。 斎藤義龍の菩提寺でもあります。 <場所> 青印は3台分位ある専用駐車場。 【鷺山城址】 【所在地】 岐阜県岐阜市鷺山150 【遺構】 土塁、堀 【築城】 鷺山城(さぎやまじょう)は、 現在の岐阜県岐阜市にあった 平安時代末期または 時代から戦国時代にかけての日本の城です。 標高68mの鷺山の山頂にあります。 麓には福光御構(蝉土手城館)が築かれていました。 室町時代、美濃国 である土岐氏が 文和2年(1353年)に 川手城を築城すると その支城となったとされています。 永正6年(1509年)、 土岐政房の命で 斎藤利綱が福光御構の普請を行っており、 川手城から鷺山城に美濃守護所が 移されたとのことです。 【鷺山城での土岐氏の攻防】 永正16年(1519年)に土岐政房が死去すると、 土岐政房により追放されていた 土岐頼武と守護代・斎藤利良は 越前国の大名である の支援を受けて、 福光御構、鷺山城、池戸城を落とし、 福光御構に入ります。 大永5年(1525年)には、 土岐頼武の弟・土岐頼芸に鷺山城が占拠され、 翌年迄に土岐頼武は鷺山城を奪い返しています。 其の後は斎藤道三らに 支援された土岐頼芸方が勝利し、 土岐頼武は大桑城に入っています。 天文元年(1532年)、 土岐頼芸は枝広館(現:長良公園)に移るも、 天文4年(1535年)の大洪水により 枝広館は流されました。 【濃姫は鷺山殿】 なお、同年には 斎藤道三と小見の方( の娘) との間に濃姫が生まれました。 1548年(天文17年)、 齋藤道三が家督を息子の斎藤義龍に譲ると 鷺山城に隠居し、 濃姫は天文18年(1549年)2月24日に ここから尾張国の織田信長に嫁いだので、 鷺山殿と呼ばれています。 【廃城へ】 其の後、斎藤義龍は、 齋藤道三が義龍の弟(斎藤龍定)に 名門一色姓を名乗らせたことから、 弟に家督に譲るつもりと思って、 1555年(弘治元年)、 齋藤道三を鷺山城から追放します。 翌1556年(弘治2年)、 齋藤義龍は斎藤道三を攻め滅ぼし、 これを討ち取り、 この戦いの後、 築城から360年以上の歴史のある 鷺山城は廃城となったとされています。 【鷺山城址の現在】 1964年(昭和39年)、 東海道新幹線や名神高速道路の 建設用土砂の採取のため 鷺山城があった鷺山の一部は削り取られ、 この時鷺山城の礎石と 思われる石が発見されています。 一部は削り取られものの、 城跡は保存され、土塁、堀等があります。 岐阜市鷺山水門社宅2棟傍に、 山から伸びた土塁の一部が残っています。 館跡の物と見られています。 【登城口と駐車場】 <1.鷺山公園及び北の神社側> 鷺山公園側に北野神社という神社があります。 その神社から登城口があります。 また駐車場もありますが、 公園側の駐車場は草木が かなり生い茂っていました。 青印はその辺りです。 その場所に車で行くのに迷いました・・・。 <鷺山公園> <2.公民館そばの道の対面> 鷺山小学校に近くに公民館があります。 その公民館の傍(対面?)が階段になっており、 その階段も登城口とのことです。 【斎藤義龍】 斎藤 義龍(さいとうよしたつ)は、戦国時代の武将。 美濃国の戦国大名。 道三流斎藤氏の第2代当主で室町幕府相伴衆。 大永7年(1527年)7月8日、 斎藤利政(後の斎藤道三) の長男として生まれました。 母は側室の深芳野で幼名は豊太丸でした。 元服後は利尚、高政と名を変えています。 かなりの高身長で、 史料の数値から現代の寸法に換算すると 190センチをこえていたとも。 【ほんとに隠居?】 天文23年(1554年)、 齋藤道三が隠居し、 美濃守護代斎藤氏の家督を継いで 稲葉山城主となったとされています。 けれども、この隠居は父の斎藤道三の 自発的なものではなく、 家臣の信頼を得られず、 領国経営が円滑に 進まなかったための交代劇、 という見方も近年出ているとの事です。 根拠としては、 天文17年(1548年)の相続説や、 齋藤道三の隠居とされている 斎藤義龍に稲葉山城を譲り、 自身は鷺山城に移動という記述は 「美濃国諸旧記」でも見られますが、 「 」や「江美濃記」などの 信頼性の高い史料に記述が無いそうです。 以上の事から、齋藤道三は、 隠居していない、 という見解がされているそうです。 【その後の足跡】 其の後の斎藤義龍の足跡は、 父である斎藤道三の足跡と 道三が亡くなるまで ほぼ重なっています。 義龍にとって、父である斎藤道三は 良くも悪くも偉大過ぎる 父親であったかもしれません。 父に認められず、よりによって家督を 弟ばかりか婿に譲るとも言われていた中、 義龍の胸中はいかがなものだったのでしょうか。 「毒親」どころではありませんね・・。 実際、斎藤道三は、 内政に関してはかなりの暴君であり、 その事も土岐氏の旧家臣がついていかなかった 原因ともいわれているほどです。 なのに、どうして、明智一族は 斎藤道三側についてしまったのかしら? やはり小見の方は「人質」だったから? 疑問が残ります。 【両国経営を立て直す】 父である斎藤道三を討った後、 明智一族をほぼ滅ぼし、 尾張織田家との戦闘が続くなか、 貫高制に基づいた安堵状を発給して 長年の内乱で混乱した所領問題を処理し、 また宿老による合議制を導入するなど、 室町時代の体制を生かしながら、 戦争に明け暮れていた斎藤道三の下では 十分実現し得なかった 守護領国制の残滓を排して、 戦国大名としての基礎を築いていきました。 【美濃一色姓へ】 第13代将軍の より 一色氏を称することを許され、 美濃守護代家斎藤氏より改名します。 永禄元年(1558年)に治部大輔に任官し、 永禄2年(1559年)には 足利幕府相伴衆に列せられ 戦国大名としての大義名分を得ています。 さらに南近江の六角義賢と同盟を結び、 北近江の とも戦いました。 けれども、尾張国の織田信長の侵攻が より激しくなるなどして、 勢力拡大は果たせませんでした。 【まだまだ途上の中での無念の死】 永禄4年(1561年)、 左京大夫(左京兆)に任じられますが、 同年の5月11日に急死しました。 享年は35歳の若さでした。 家督は子の龍興が継ぎました。 2020年NHK大河ドラマ「麒麟がくる」では 伊藤 英明(いとうひであき)さんが演じられます。

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