宮沢 賢治 宗教。 宮沢賢治の恋

童話に込められた賢治の願い:その仏教的生命観 / 鍋島直樹(副センター長・龍谷大学法学部教授)

宮沢 賢治 宗教

宮澤賢治は岩手県花巻に生まれた。 家業は古着質商であったが、浄土真宗の信仰あつい家庭で、3歳ごろ、すでに「正信偈」「白骨の御文章」を暗誦したと言われている。 周知のように、賢治は盛岡中学を卒業した18歳の秋、島地大等編『漢和対照、妙法蓮華経』を読んで身ぶるいするほどの感動をしたというが、そこには幼時から育った家庭環境の影響があることは否めない。 盛岡高等農林学校農学科第二部(現岩手大農芸化学科)に進学してからは、いよいよ『法華経』の信仰が深まった。 賢治が国柱会に入会したのは大正9年で、同年12月2日付の友人保坂嘉内あての手紙に、「今度私は国柱会信行部に入会致しました」とある。 しかし大正7年2月末から妹トシの病気看病のため母と共に上京し、翌8年2月まで滞京するが、その間に智学先生の講演を鶯谷の国柱会館で1度聴聞したことがあると前記の手紙にあるから、国柱会を知ったのはその頃であろう。 大正8年の編と推定される『攝折御文、僧俗御判』は、先生の『本化攝折論』および日蓮聖人御遺文からの抜き書きであるが、賢治の主体的信仰の確立はその頃とみられる。 大正10年1月、父母の改宗を熱望していれられず、突如上京して国柱会館を訪れ、高知尾智耀講師から「法華文学ノ創作」をすすめられ、筆耕校正の仕事で自活しながら文芸による『法華経』の仏意を伝えるべく創作に熱中する。 国柱会の街頭布教に従事したのもその頃だが、妹トシ病気のため帰郷する。 賢治は『法華経』の信仰と科学の一如を求めたが、そのことは数多くの作品にも反映している。 稗貫農学校(現花巻農業高校)の教諭時代、『植物医師』『飢餓陣営』の作品を生徒を監督して上演していたのは、国性芸術から影響されたものであることは確かである。 農学校を退職して独居自炊生活に入り、「羅須地人協会」を設立して農村青年、篤農家に稲作法や農民芸術概論を講義したが、その発想も、やはり智学先生の「本時郷団」におうものといってよい。 賢治は昭和8年9月21日、『国訳妙法蓮華経』の頒布を遺言して永眠したが、法名「真金院三不日賢善男子」は国柱会からの授与である。 大正11年11月に亡くなった妹トシの遺骨は三保最勝閣へ賢治が持参し、今は妙宗大霊廟に納鎮されている。 賢治の遺形も、昭和57年の賢治五十回忌に大霊廟に納鎮され、申孝園には賢治の辞世の歌碑が建立された。 賢治は、帰郷してから国柱会とは遠ざかったという説をなすものがいるが、最後まで国柱会の唱導する日蓮主義の信仰に生きたことは、森山一著『宮澤賢治の詩と宗教』や小倉豊文著『雨ニモマケズ手帳新考』などに明らかにされている。 故高知尾智耀講師「宮沢賢治の思い出」 一躍、国柱会信行員に入会 宮沢賢治という人は珍しい人で、生前は郷里の比較的少数の人々のほかは、ほとんど知られていなかった。 その詩や童話などの作品も、少数の人々をのぞいては知られなかった。 ところがその死後だんだんとその作品が世に知られ、その人格、信仰などが憬慕されるようになり、なかんずくその童話は若い人々に愛読されるばかりでなく、日本文学に希なるものとして高く評価されている。 それらの作品は、彼自ら呼んだように、法華文学といわれ、彼の持っていた純粋な法華経信仰からほとばしり出た珠玉の創作で、そのかおりは高く、純に、気品あり、滋々たる味わいがあって、長く愛好せらるるという性質のものである。 しかし、彼は詩人とか、創作家というばかりでなく、その専門的研究ともいわるべきものは、盛岡高等農林学校(註 現在の岩手大学農学部)の特待生として、また卒業後の研究による農業のりっぱな指導者として、農民指導の実績を示している。 ことにその人となりにいたっては、これは彼の天性というか、仏教信者たる父の影響というか、これまた世に珍しい慈悲のふかい、無欲恬淡な情厚い人であった。 ことに求道的ともいうべく、中学生時代から仏教に接近し、仏教講話、経文などを好んで研究した。 法華経は島地大等氏の教席にも出て、またその編著『妙法蓮華経』を愛読した。 彼が国柱会を知り、その創始者であり総裁であった田中智学先生を知ったのは彼が学生時代ならびに卒業後に、東京へ出て上野図書館にしばしば行った時、鶯谷にあった国柱会館に来た時からであろう。 とにかく彼が妙法蓮華経々文を拝読して非常な霊感をうけ、それから進んで法華経の研究、そしてついに求道の熱情から信仰生活を欣求し、それをみたすために国柱会に入会することを決意し、彼の従弟で、親友であった関登久也氏を説きふせて、共に一躍国柱会の信行員の認可を申請してきたのである。 当時、国柱会中央事務所であった国柱会館で、国柱会統務会々長であった保坂智宙居士と、理事であった私とが、その願意を検討した結果、信行員の入会を承認し、御本尊妙法曼荼羅と、妙行正軌、宗章等を授与したのであった。 いうまでもなく田中智学先生拝写の佐渡始顕の妙法曼荼羅であり、先生撰定の御修行の作法書、妙行正軌である。 のちに関登久也氏の語るところによれば、賢治は妙法曼荼羅を拝受して非常に喜び、花巻町の経師屋に命じて最もよき表装をなさしめ、そのできあがるや、妙行正軌にある御開眼の作法にもとづき賢治自ら式長として御開光の式をあげ、自分の拝受のものをすましてから、さらに関登久也氏感得のものも賢治が導師として御開眼したということである。 その態度はじつに謹厳そのもので、音吐朗々として読経唱題の声いまなお忘れがたいと、関登久也氏は後に語っていた。 その後彼は、その妙法曼荼羅に対し奉り、日々妙行正軌によって御修行をなし、後年かの下根子桜の仮寓で自炊生活をして地方農家の子弟の指導にあたっていた時も、つねに二階にその御本尊を奉安し、妙行正軌による御修行をつづけていた。 賢治は国柱会信行員となるや、御修行を怠らなかったばかりでなく、正しい信仰の広布に全力をつくした。 すなわち父上をはじめとし、家族や親戚の人々、またあらゆる人々に対して機会あるごとに国柱会の正しい信仰を鼓吹したのである。 田中智学先生の統裁される日刊『天業民報』を拝読後は、門前に掲示板をつくって日々掲出し、田中先生著の各種の伝道用パンフレットを求めては、各方面に施本して精読をすすめた。 また親戚および親しき人々と相会して御修行または信仰座談会をひらいた。 そして彼自身は田中先生の著書はほとんどこれを読破し、なかんずく『日蓮主義教学大観』を精読し、同じく先生監修の『類纂高祖遺文録』などの拝読を怠らなかった。 国柱会館での奉仕 私がはじめて宮沢賢治に会ったのは、大正10年1月27日の午後、国柱会館の玄関先である。 私は国柱会の講師であり理事である上に、会館の清規奉行として受付まで引き受けているという有様で、かなりいそがしい役目であった。 一人の青年の来訪に、玄関先へ出てゆくと、頭は五分刈、紺ガスリの和服姿に、洋傘と風呂敷づつみをもった、質実そうな二十五六歳の青年が立っていた。 用向きをたずねると 「私は昨年、国柱会の信行員として入会をゆるされた岩手県花巻の宮沢賢治というものであります。 爾来国柱会のご方針にしたがって信仰にはげみ、一家の帰正を念じて父の改宗をすすめておりますが、なかなか了解してくれません。 これは私の修養が足らないために父の入信が得られない、この上は国柱会館へ行って修養をはげみ、その上で父の入信を得るほかはないと決意し、家には無断で上京して来たものであります。 どういう仕事でもいたしますから、こちらに置いて頂きご教導をいただきたいのです」ということであった。 私は同君が昨年、関登久也氏と共に一躍信行員として入会されたことは思い出したが、家を無断でとび出してきたといわれるので、即決的にきめかねて 「東京にご親戚はありませんか」と尋ねると 「あります」 「それではひとまずそちらへおちついて下さい。 そしてこの国柱会館に『毎夜講演』といって、日蓮主義の講演が毎夜あるから、それへ御来聴下さい。 その際にゆっくりご相談いたしましょう」といって別れたのであった。 あとから考えると、玄関先の立ち話で帰したということは、いかにも不親切であったと思うが、その時の私は「無断家出」というのに、「それではマア居ってごらんなさい」とはいいかねて、お断りしたのであった。 この時の状況は、関登久也氏へ送った手紙の中にややくわしく書かれており後に関登久也氏の著された『宮沢賢治素描』の中に出ている。 私が宮沢賢治にはじめて会った時の第一印象は、「誠実醇朴な青年」という感じで、この人が珍しい信仰家であり、たぐいまれな詩才を有し、親には至孝、農村指導の篤行家であったことは、まだ私にはわからなかった。 賢治が親戚といったのは、日本橋にあった商業上取引の家で、一晩はそこへ泊まったが、その後は本郷辺の筆耕屋へ住みこみ、持ち合わせの小遣いも少なく大変苦労されたということが後にわかったが、その時は何もそういうことはいわれなかった。 もしそういう実情とわかったならば、及ばずながら何らかのお世話ができたのにと、何年か後に悔いたことである。 とにかく賢治はその後、毎夜国柱会館に通い、講話を聞かれるばかりでなく、いろいろの会合の斡旋をしてくれた。 この国柱会館は、田中先生が大正5年に国柱会の中央活動の道場として建てられたたもので、本部は静岡県の三保の松原、最勝閣にあった。 国柱会館の建物は、洋風2階建てで、屋上は全部庭園になっており、2階は大広間で舞台があり、千人位の収容力があり、講演会、国性劇の公開等がたびたび行われた。 『毎夜講演』は、国柱会の講師が交替で、法華経の話、日蓮聖人の御遺文の話、田中智学先生の『妙宗式目講義録』の話、その他日蓮主義による時事問題、社会問題の批判等を毎晩やっていた。 また当時は大正9年に日刊『天業民報』が創刊されてまもないころで、国柱会の講師と会館詰めの青年は、毎日のようにお昼休みを利用して、ほど近き上野公園に行き『天業民報』を施本し、読者を募るべく屋外宣伝をやった。 賢治もおりおりこれに加わり、壇上に立って講演をされたそうである。 私はいっしょになったことはなかったが、のちに他の青年から賢治が熱心に絶叫されたという話を聞いた。 国柱会館(昭和43年1月まで上野桜木町1番地に所在) 法華文学の創作 その間に私はしばしば賢治に会って信仰談を交わしたが、その時の私の話がもとになって、賢治が法華文学の創作に志したということは、帰寂の後になってはじめて私もこれを知った。 それは彼の原稿などの入っていたトランクのふたの裏のポケットから、一冊の手帖が出てきた。 その手帖の中にこういうことばがある。 高知尾師ノ奨メニヨリ 法華文学ノ創作 名ヲアラハサズ 報ヲウケズ 貢高ノ心ヲ離レ 私には法華文学の創作をすすめたという明確な記憶はないが、いろいろ信仰上の意見を交換した中には、当然私が田中智学先生から平素教えられている、末法における法華経修行のあり方について、熱心に話したことと思う。 すなわちいわゆる出家して僧侶となり仏道に専注するのが唯一の途ではない、農家は鋤鍬をもって、商人はソロバンをもって、文学者はペンをもって、各々その人に最も適した道において法華経を身によみ、世に弘むるというのが、末法における法華経の正しい修行のあり方である、詩歌文学の上に純粋の信仰がにじみ出るようでなければならぬ、ということを話したように思う。 それを聡敏な賢治は、私が法華文学の創作を勧奨したと受けとったのであろう。 それが「高知尾師ノ奨メニヨリ 法華文学ノ創作」となったのではなかろうか。 ここで賢治のいわゆる『法華文学』について一言しておきたい。 これはかつて雑誌『宗教公論』にも書いておいたが、創作そのものが、法華経を取り扱っているとか、仏教信仰を材料として取り扱っているとかいうのではない。 童話であろうが、心象スケッチであろうが、短歌、俳句であろうが、法華経の正しい信仰をもった作者が、その信仰のやむにやまれぬ発露として表現された芸術的作品を、法華文学といったように思う。 すなわちその作品の材料と共に、それらをとりあつかった作者の心的作用が非常に重んぜられている。 であるから「名ヲアラハサズ 報ヲウケズ 貢高ノ心ヲ離レ」という条件がついてくるのである。 賢治が関登久也氏に送った手紙の中に、 「おお、妙法蓮華経のあるが如く総てをあらしめよ」とか 「これからの宗教は芸術です。 これからの芸術は宗教です」とか、また 「いいものを書いて下さい。 文壇という脚気みたいなものから超越して、しっかり如来を表現して下さい」などとかいているのを見ても、賢治のいわゆる妙法蓮華経の芸術的結晶、如来の文学的表現をさしているものと思われる。 上京の当時、賢治は神田の下宿に帰っては、非常なインスピレーションで筆をとり、この半年あまりの滞京中の創作力の旺盛なことはおどろくばかりで、ある月には原稿用紙三千枚にも上ったということであり、後年発表された童話や詩歌など、行李一ぱいあったという。 彼の文学は、それが詩歌であれ、童話であれ、短歌であれ、劇であれ、表面には法華経のホの字も出ていなくとも、また宗教や道徳とは直接関係のないようなものでも、その中には、天地宇宙の大真理たる法華経の大精神が、何らかの色となり香りとなって、芸術的に織り込まれているのである。 その活きた力が、しらずしらずの間に人間の真実に感受して、霊的影響をおよぼさずにはおかないというのが、賢治の法華文学の真価値というものであろう。 また彼の手帖の中に 筆ヲトルヤマヅ道場観、奉請ヲ行ヒ所縁仏意ニ契フヲ念ジ、然ル後ニ全力是ニ従フベシ。 断ジテ 教化ノ考タルベカラズ!タダ純真ニ法楽スベシ。 タノム所オノレガ小才ニ非レ。 タダ諸仏菩薩ノ冥助ニヨレ とある。 われわれは妙法曼荼羅御本尊に対し、国柱会所定の妙行正軌によって御修行をするその順序が、まず『道場観』で、次に『奉請』を唱えて本仏の来臨を念じ奉るのである。 であるから、宮沢賢治にとっては、創作に従事するのは、妙法曼荼羅に対し奉り御修行するのと同じ心地に住して筆をとるというのである。 かくして出来上がるものが、彼の法華文学である。 なんという気高い動機であろうか。 なんという崇高な運筆であろうか。 なんという法華純信の所産であろうか。 賢治の創作が不朽の生命を持ち、不滅の感化を及ぼすとすれば、それはじつに彼が忠実なる国柱会信行員としての、純信の賜であるというほかはない。 帰郷後のこと 賢治が上京の年の9月、妹トシ子さんが病気であると聞いて、東京を引きあげて帰郷した。 その時国柱会館へきて、丁寧に挨拶して辞去された。 それまでの間私はしばしば賢治と会ったが、彼はどちらかといえば無口な方であり、私も平素多忙でゆっくり話し合う機会は不十分であった。 殊に私が非常に遺憾にたえないのは、この青年を田中智学先生に紹介する機会のなかったことである。 賢治が国柱会館をうたった心象スケッチの中に 大居士は眼を病みて 三月人を見ず とある通り、先生はあたかも眼病の治療中で、やむを得ない用のほかはあまり人に面会されなかったのが、その時の実情であった。 妹トシ子さんは非常な秀才で、目白の女子大学を卒業、郷里の女学校の教師をしていたようだが、賢治は大変この妹さんを愛していて 「私の家族中で一番私の信仰を理解し、同情をもっているのはこの妹です」 といって、力にしていたようだ。 大正11年の11月27日にトシ子さんが亡くなられ、賢治が非常に悲しんだことは、妹を弔う彼の詩篇によって明らかである。 トシ子さんの死去に際しては、その法号を国柱会へ願い出て『教澤院妙潤日年善女人』と授与された。 そして彼はその遺骨を抱いて、当時国柱会本部のあった静岡県三保の最勝閣に行って、お骨を納めた。 その後本部が一之江に移ってその遺骨も妙宗大霊廟に移しまつられ、不断の回向供養を受けている。 納骨はだれによってなされたか明らかでなかったが、先年私が宮沢家を訪問した際、母堂のいちさんに尋ねたところ、やはり賢治自身が奉持して最勝閣へ行かれたとのことであった。 賢治が郷里に帰った後は、時折文通があった程度でくわしい事情はわからなかった。 大正13年の4月、彼がはじめて詩集『春と修羅』の第1集を出した時、私のところへも贈ってくれた。 これに対して、私は礼状と共に私の感想をのべたと記憶する。 それは田舎風の質実な表装で、内容は彼のいわゆる心象スケッチが大部分であったが、簡単に言えば、私は難解な感じを与えられた。 しかしどことなく天才的なひらめきが各所にあって、珍しい創作であるという感じはしたものの、少数の同好者のほかには、大衆的には愛好せられないのではなかろうかと思われた。 それでそのことを賢治に手紙で書き送ったと記憶する。 賢治はその後、岩手県稗貫農学校(後の県立花巻農学校)の教諭となり、5年間特色ある教育をされた。 退職後はかねての理想を実現するために、下根子桜というところにあった彼の家の小屋に独居自炊をはじめ、『農民芸術綱要』を執筆したり、『羅須地人協会』という農民道場のようなものを組織して、熱心に農民指導に従事し、ひたすら農村青年の幸福と向上につくされた。 また肥料設計事務所を設け、無料で肥料相談に応じたりするうち、過労がもとで病気となり、生家の2階で療養するようになった。 そのころに書いたものであろうが、最後の手帖の中に 快楽もほしからず 名もほしからず いまはただ 下賤の廃躯を 法華経の捧げ奉りて 一塵をも点じ 許されては 父母の下僕となりて その億千の恩にも酬い得ん 病苦必死のねがい この外になし とある。 彼の信仰的熱情がよく現れている。 最後に貰ったハガキ 私と賢治との間の文通はあまり多くはなかった。 今私の手元に残っているのは、彼の臨終の年である昭和8年の年賀状だけで、その添えがきに 「客年中は色々と御心配を賜はり難有奉存候。 お蔭様にて此の度も病漸くに快癒に近く、孰れは心身を整へて改めて御挨拶申上候」 とある。 しかしその後なんら聞くところなく、その年の9月21日、37歳を一期としてついに不帰の客となられたことは、 何とも心残りの限りである。 もし語りあう機会があったとすれば、賢治は、改めて何をいおうとしたのであろうか。 国柱会から授与された法号は、『 真金院三不日賢善男子』という。 その臨終のことは、私は彼の死後に知ったのであるが、お父さんが、最後に何かいい残すことはないかといわれたところ、私の死後、国訳法華経を1000部印刷して私の知己朋友に贈って頂きたい、そしてその本の終わりに、左の言葉を印刷して貰いたいと口述したという。 合掌 私の全生涯の仕事は、此経をあなたの御手許に届けそして其中にある仏意に触れてあなたが無上道に 入られん事を御願ひするの外ありません 昭和八年九月二十一日 臨終ノ日ニ於テ 宮沢賢治 彼がその死後にまで、かくのごとく周匝に遺言して法華経の正信を鼓吹されたということは、全く法華経のためにその一生を捧げたといっても過言ではない。 この『国訳妙法蓮華経』は、賢治の帰寂後遺族によってりっぱに印刷され、各方面へ賢治の遺志として寄贈されたが、私はその後、板垣征四郎大将の未亡人から、故大将のところへも送られ、大将は平素陣中においてこれを愛読せられ、その最後に先立ってはその信仰も進まれて、家人への手紙の中にも法華経信仰のことばがしばしば書き送られたということを承って、賢治の遺志は意外な方面に影響を与え、これからも与えるであろうと思われたことであった。 私は目下国柱会本部にあって、毎朝妙宗大霊廟に参拝、恩師師子王院智学日謙大居士の報恩謝徳を念じ、あわせて真金院三不日賢善男子の霊名が納鎮されている妙塔に対し、お題目を高唱して、菩提増進を祈っている。 病のゆゑにもくちんいのちなりみのりに棄てばうれしからまし と辞世された賢治は、私の唱題を何と聞いているであろうか。 (高知尾智耀著『わが信仰わが安心』真世界社刊より).

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2018. 13 作家や偉人のエピソード 高等遊民 宮沢賢治の性格や経歴は?生い立ちとエピソードが面白い 童話作家として有名な宮沢賢治。 みなさん、名前を聞いたことはありますよね? 教科書で習った『やまなし』や『注文の多い料理店』、『雨ニモマケズ』の作者というイメージが強い人が多いと思います。 今回は、宮沢賢治について• 宮沢賢治の生い立ちとは?• 宮沢賢治の経歴と代表作は?• エピソードからみる宮沢賢治の性格とは? を紹介します。 こちらを読めば、宮沢賢治の生い立ちや経歴、作品、性格まで分かります。 また、宮沢賢治が書いた童話だけではなく詩や短歌などの作品をさらに楽しめるようになります。 ぜひご覧ください。 下記クリックで好きな項目に移動• 宮沢賢治の生い立ちとは? 宮沢賢治は明治の中頃から昭和の初期までの時代を生きました。 明治29(1896)年8月27日に現在の岩手県花巻市で誕生• 昭和8(1933)年9月21日に亡くなる 37年という短い人生でした。 しかし、その中で現代でも有名な作品を多く残すほどの優れた作家だったのです。 実際、 宮沢賢治は学校で成績優秀な生徒でした。 花城尋常高等小学校を優秀な成績で卒業• 盛岡高等農林学校(現在の岩手大学農学部)農学科第二部に首席で入学• 2年連続で特待生に選ばれる• 農林学校卒業後、助教授推薦の話を持ちかけられる など、凡人の私には想像もつかないくらいの優秀さでした。 もしも同級生にいたら、嫉妬ではなくて才能への憧れしか持てませんね。 「この中の1つだけでも達成できたらすごい」としか思えません…。 しかし、 頭がいい人は周りから理解されなくて苦労することも多いです。 それは宮沢賢治も例外ではありませんでした。 例えば、• 家族、特に父親と考え方の違いからよく対立していた• 童話の原稿を出版社に持ち込んでも出版を断られる• 農民の生活を向上させようと活動するが、一部の人以外には冷たくされる など、考え方が周囲の人々と違い過ぎて苦労しました。 特に父親との対立は、宮沢賢治がノイローゼ状態になるほど頻繁に起きていました。 想像も出来ない親子関係ですね…。 どうして宮沢賢治は父親とよく対立していたのでしょう? それは、• 将来の進路• 仏教の中で信仰する宗派がお互いに違うこと の2つが主な原因でした。 1つ目の「将来の進路」は何となく想像できますね。 現代でも親子喧嘩の原因になります。 宮沢賢治の場合、実家は質・古着商をしていました。 今で言う「質屋」で、• お金を借りたい人に物と交換でお金を貸す• お金が返ってきた場合、交換した物を返す• お金が返ってこなかった場合、交換した物を貸したお金よりも高い値段で別の人に売る という商売を営んでいました。 当時としては裕福な家庭でした。 そして宮沢賢治は長男だったため、当時の常識では大人になったらこの商売を継ぐはずでした。 しかし 賢治自身が質・古着商を嫌っていたため、家業を継がせたい父親と何度も対立します。 宮沢賢治がそこまで家業を嫌った理由は、• お金を借りたくて店に来る人は貧しい人が多い• 貧しい人から安い金額で商品を買い取る(宮沢賢治の感覚からしたら、表現は悪いですが「買い叩く」が近い言葉です。 買い取った(買い叩いた)商品で利益を出す 商売が質・古着商だと考えていたからです。 現代の質屋を悪く言っているのではありません。 当時の生活状況から、お金を借りに質屋に来る人はどうしても貧しい人が多い状況でした。 宮沢賢治が質屋の仕事をこう考えても仕方がない環境だったということです。 2つ目の「仏教の中で信仰する宗派がお互いに違う」は全く想像できませんね。 これは、• 現代日本人からしたら「何のことやら」と思う原因ですね。 家族間で対立するほど、当時の人々にとって信仰する宗派は大切だったということです。 大雑把に分けますと、• 宮沢賢治は 自分も周りの人も大切にする生き方に共感したということです。 そのため、貧しい人を大切にしていないと感じる家業を嫌ったのです。 無宗教の現代日本人からしたら「何で?」と思うような信仰へのこだわりですが、この宗派への考え方が宮沢賢治の作品に大きな影響を与えるのです。 では、どんな影響を与えたのか具体的に見てみましょう! 宮沢賢治の経歴と代表作は?(有名になってから 頭が良くて考え方が独特だったため、父親を含める周囲の人々から理解されなかった宮沢賢治ですが、実はその独特な世界観は彼の作品の中に活かされています! 宮沢賢治は15歳から短歌と短編の執筆を始め、同人誌も発行しています。 また、• 哲学書を愛読しており、教師に反発する• 当時の仏教界の代表的な僧侶である島地大等の説法を聴きにお寺に行く• 仏教書「歎異抄」を読んで感動する など、今の中学生と同じように大人に反抗したり、人生について考えたりしていました。 人生について考える時に、仏教書を読んでお寺に行くという点はかなり違いますが…。 しかし、 仏教の信仰に生き方を求める姿勢は一生続きます。 他にも、山登りと鉱物採集に熱中していました。 同時に親友の死や度重なる自身の入院、片思いの初恋も経験します。 創作活動と共に、• 生き方を考える• 自然の魅力に惹きつけられる• 死や病気、どうにも出来ない現実 に直面する訳です。 多感な時期に起きたこれらの経験は、後の宮沢賢治の作品にも影響します。 有名な作品では、• 「風の又三郎」• 「銀河鉄道の夜」• 「よだかの星」 などの童話に、宮沢賢治が経験した出来事のテーマが反映されています。 宮沢賢治が童話を書き始めたのは25歳の時です。 この頃、彼は稗貫農学校(現在の県立花巻農学校)の教師をしながら、現在も残る多くの有名な作品を書きました。 また、賢治の理解者でもあった2歳年下の妹トシの死をきっかけに• 自分の気持ちを言葉で書く• 言葉で書くことで、心と繋がっている宇宙の真理を探す ことを目的とした 「心象スケッチ」と呼ばれる形の詩を書き始めます。 心象スケッチは• 宮沢賢治が創り出した独特な詩の形式• 口語の自由詩• 幻想的で、人によって解釈が違う という特徴があります。 この心象スケッチの代表作品が、学校で習う 「春と修羅」です。 こうして、岩手県をモデルとした宮沢賢治の理想郷世界が創られていきます。 この理想郷が後に 「イーハトーヴ」として知られる世界でした。 宮沢賢治が残した作品は、• 約100本の童話• 約1000本の詩 があると言われています。 しかし、宮沢賢治が生前に原稿料をもらって執筆した作品は、「雪渡り」という童話だけです。 出版された本は、詩集「春と修羅」と童話集「イーハトヴ童話 注文の多い料理店」だけでした。 多くの作品は宮沢賢治の死後、弟の清六が原稿を整理して出版されました。 つまり、 生前の宮沢賢治は作家として知られていたのではなかったのです。 では、作家として有名ではなかった宮沢賢治はどのような人物だったのでしょうか? エピソードからみる宮沢賢治の性格とは? 宮沢賢治の性格は• 10歳の時から鉱物収集に熱中• 自分が決めた信仰にこだわる• 父親に反発して家業を継がない• 勝手に上京して仕事に就く• 30歳で自分の哲学のために農民となる などの出来事から分かるように、 こうと決めたら突き進む人でした。 周りから見たら、 頑固で自己主張が激しい性格に見えたことでしょう。 このような人は兄弟のようなすぐ近くにいる人でないと、考えていることがなかなか理解できません。 面白いのですが、深く関わると振り回されそうです…。 実際、宮沢賢治の家の近所に住んでいた人の子孫を取材すると 「おじいさん、おばあさんは『宮沢賢治はすごく変わった人だった。 どうしてこんな有名人になったのかが分からない。 』と首をひねっていました。 」と話す人は多いです。 しかも、 一人だけではなくてその集落全体の人が話していたということなので、 相当変わった人と思われていました。 死後まで理解されないのは何か哀れ…と思ってしまいます。 もちろん、 一部の人は宮沢賢治のことを分かって応援していたので、全員の評価ではありません。 一方で、• 何度も入退院を繰り返し、最後は肺の病気で亡くなる• 妹の死を悲しみ、幻想的な童話と詩を書き始める• 農民の生活向上のために、定期集会や子どもへの読み聞かせ、肥料相談を行う• チェロとオルガンを勉強した• 晩年は園芸に熱中していた など、 繊細で自分の弱さを認めながら周囲の人々の役に立つことをする優しさを持ち合わせていました。 一見正反対に見える二つの性格ですが、• 頑固なだけでは幻想的な世界は視えない• 繊細なだけでは自分の世界観を貫き通せない と、二つの性格が共存することで宮沢賢治の幻想郷は創られていったのです。 まとめ 宮沢賢治の個人的おすすめ作品 宮沢賢治の性格と経歴・生い立ちと面白いエピソードについて紹介しました。 最後に宮沢賢治について簡単にまとめておきますね!• 宮沢賢治は明治中期~昭和初期に生きた人• 学生時代から成績優秀だった• 父親と進路や信仰を巡ってよく対立していた• 日蓮宗への信仰から幻想的な作品を生み出した• 生前は農学校の先生や農民として生活しており、作家として有名ではなかった• 頑固で自己主張は激しいのに、繊細で周りを思いやる優しさを持っていた 死後に宮沢賢治の独特な世界観は多くの人に知られ、様々な作家や映画、アニメなどに影響を与えています。 ただ、宮沢賢治の作品はたくさんあるためどの作品から見ればいいか分からない…という人には、次のアニメがお薦めです!• 「銀河鉄道の夜」 販売元:アスミック• 「グスコーブドリの伝記」 販売元:バンダイビジュアル どちらも有名な作品が原作です。 文章でイメージしにくい場面も映像だと分かりやすいので、取っ掛かりとしてアニメから入ってみて下さい! 以上、「宮沢賢治の性格や経歴は?生い立ちとエピソードが面白い」でした 高等遊民の有料noteの紹介 noteにて、哲学の勉強法を公開しています。 現在は1つのノートと1つのマガジン。 1. 2. 1は 「哲学に興味があって勉強したい。 でも、どこから手を付ければいいのかな……」という方のために書きました。 5つの手順は「絶対挫折しようがない入門書」から始めて、書かれている作業をこなしていくだけ。 3か月ほどで誰でも哲学科2年生レベル(ゼミの購読で困らないレベル)の知識が身につきます。 3か月というのは、非常に長く見積もった目安です。 1日1時間ほど時間が取れれば、1ヶ月くらいで十分にすべてのステップを終えることができるでしょう。 ちなみに15000文字ほどですが、ほとんどスマホの音声入力で書きました。 かなり難しい哲学の内容でも、音声入力で話して書けます。 音声入力を使いこなしたい方の参考にもなると思います。 2は プラトンの主著『国家』の要約です。 原型は10年前に作成した私の個人的なノートですが、今読んでも十分に役に立ちます。 岩波文庫で900ページ近くの浩瀚な『国家』の議論を、10分の1の分量でしっかり追うことができます \無料試し読み部分たっぷり/.

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マリヴロンと少女/宮沢賢治=誰かを尊敬できるひとに、誰かに尊敬してもらえるひとに。

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この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2017年8月) 国柱会の根本の理念は、によって形骸化した伝統宗門の改革と近代化を在家主義の立場から目指すものである。 教学における国柱会の功績は、現在でも「 師子王文庫」や「 真世界社」などに引き継がれている。 分派した各法華宗・日蓮宗宗派の統一、更には法華一乗のもと全宗派、全宗教の統一(一天四海皆帰妙法)のための宗教革命、ならびに皇祖皇宗の日本国体を法華経のもとに体系化することを究極の目標としている。 更には、智学の思想による「全国のに祀られる主神はすべてに統一されるべき」という主張や、法要時の、の祀り方、を一切用いない、など的な要素を強く残しており、の団体としての色彩も強い。 なお、本化妙宗としての信仰は、を、をと仰ぎ、は日蓮大聖人の「」としている。 歴史 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2015年4月) 創始期 [ ] 智学が日蓮宗の宗義に疑問をいだき、して最初に設立したのが「蓮華会」という組織である。 (明治13年)、において結成され、国柱会のさきがけとなった。 その後、進出にともない(明治17年)に名称を「立正安国会」に改名。 「宗教ヲ以テ経国ノ根本事業トスベシ」と宣言し、在家主義の立場から仏教の近代化を目指した。 (明治35年)、日蓮仏教の教学を組織体系化した「本化妙宗式目」を発表し、(明治36年)よりなどで日蓮門下各教団の僧侶を集めて本化妙宗研究大会を開催。 智学はその中でも御陵前での講演「皇宗の建国と本化の大教」において、日蓮仏教の国教化を目指す王仏冥合思想を宣言した。 国柱会へ改称以降 [ ] (3年)、名称を現在の「国柱会」に改称。 (大正11年)にはを通しての教化活動と銘打って外郭団体「国性文芸会」が組織され、日本国体に基づく独自の「 国性芸術」を展開した。 (大正12年)にはに参画する目的で「」が結成され、建立を主張、の法華経帰依による、宗教革命を目指した。 (昭和4年)には智学の次男・が総裁に就任。 澤二は前年のに立候補し落選、澤二の議席獲得はならなかった。 しかし(昭和11年)のに同会公認で立候補し落選したが同年繰り上げ当選し、初めてに議席を獲得した。 田中耕は(昭和12年)のにも立候補し再選。 地方議会や農会には最盛期で100人を超す議員が所属した。 同会はやには批判的であったため、不許可処分を受け、解散に追い込まれた。 (大正15年)には制定の請願運動を契機に外郭団体「明治会」が創設され、運動を宣揚、1927年(2年)に請願が実り明治節が制定された。 また、宮沢賢治と同じく著名な会員であった・中将の「」構想や「」、更には石原がであった建国の思想的バックボーンとして、国柱会の思想は多大な影響を及ぼした。 特に満州国には皇軍慰安隊を国柱会より派遣し、軍人を支援している。 この時期が国柱会の歴史上もっとも活況だった時代であり、日蓮系諸教団の中でも集団と目されるほど、有数な著名人が会員であったことで知られる。 戦後から現在 [ ] (昭和3年)に、智学の念願であった法華経の宝塔を彷彿とさせる壮大な「妙宗大霊廟」を東京・に創建し、「私の卒業論文」と言わしめた。 同年、日蓮聖人650年遠忌を契機として「祖廟中心・宗門統一」をスローガンのもと「身延登詣団」を結成し、現在でも毎年続けられている。 (昭和14年)に智学が示寂し、智学の長男・田中芳谷が次代会長に就任。 (昭和20年)、戦災によって本部講堂を消失、また敗戦に伴い勢力は著しく減退した。 現在も「純正日蓮主義」を掲げ、在家主義とを標榜する団体として独自に活動を行っているものの、右翼思想も時代に埋没してかつての活況を見せていない。 (17年)、国柱会創立120周年記念式典の直後、当時会長職にあった4代目・田中暉丘が教団の世代交代、若返りを目指して、会長職を当時28歳だった長男・勇一郎(田中壮谷)に譲位。 宗教団体のリーダーとしては極めて異例な若さでの会長(寨主)就任に注目が寄せられた。 活動 [ ] によれば、との関係についてのAERA編集部による取材・アンケートにおいて、関連団体である「美しい日本の憲法をつくる国民の会」代表委員に教団幹部が就任している、としている。 によれば、過去に実施された保守系政治団体のイベントの受付において、国柱会を含む各種宗教団体別の受付窓口が設けられ、参加者を組織動員したことがある。 日蓮聖人門下連合会 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2015年4月) (昭和35年)、国柱会は日蓮門下の連携を目指してを主催、発足させた。 各法華宗宗門と多くの共同事業に携わり、主なものでは (昭和57年) [ ]、日蓮聖人700年遠忌記念事業として、作詞・、作曲・による「日蓮聖人」をの演奏で全国各地で上演。 その後も (昭和62年) [ ]、開創1200年記念法要、(平成15年)、立教開宗750年記念事業「大日蓮展」、(平成21年)、立正安国論奏進750年記念事業「日蓮と法華の名宝展」などがある。 以下、日蓮聖人門下連合会加盟団体の一覧。 国柱会• 寨主 [ ]• (1814年)• (1840年)• (1857年)• (1859年)• (1869年)• (1872年)• (1873年)• (1880年)• (1882年)• (1882年)• (1892年)• (1900年)• (1905年)• (1908年)• (1916年)• (1927年)• (1930年)• (1930年)• (1932年)• (1935年)• (1941年)• (1945年)• (1946年)• (1947年)• (1948年)• (1948年)• (1949年)• (1952年)• (1952年)• (1954年)• (1955年)• (1957年)• (1958年)• (1970年)• (1970年)• (1972年)• (1984年)• (1985年)• (1999年) 天理系.

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