明智光秀 子孫 天皇。 新・今上陛下は明智光秀の子孫だった

明智光秀の子孫が今上天皇というのは本当か!? 光秀の家系図を検証

明智光秀 子孫 天皇

レキシン 明智光秀の息子・自然や子孫・家系図について解説!現在も活躍する有名人多数! 天下布武を掲げ戦国乱世を終息させようとした織田信長(おだのぶなが)に仕え、羽柴秀吉(はしばひでよし)、柴田勝家(しばたかついえ)、丹羽長秀(にわながひで)、滝川一益(たきがわかずます・いちます)とともに 織田家五大将の一人に数えられた明智光秀(あけちみつひで)。 日本の中心であった京都を抑え、畿内から東海、北陸に巨大な領土を保有し、地方平定戦に乗り出した直後の織田信長を明智光秀は戦力的空白を突いてこれを自刃に追い込み、わずかに11日間ながら天下人になりました。 謀叛人、裏切り者などのありがたくない呼び名で知られることも多い光秀ですが、その卓越した軍事的才能、公明正大な行政手腕、攻守ともに手堅い戦場での采配、和歌や連歌に通じた文化人でもあったと伝えられる一流人物・明智光秀の子供たちや子孫は本能寺の変以降、どのような運命を辿ったのでしょうか? まずは光秀と 正室・煕子(ひろこ)の子供たちから見ていきましょう。 『明智軍記』に基づく家系図 明智光秀の出自は謎に包まれていますが、子女もまだ謎が多く、明智光秀に何人の子供がいたのか明確に分かっていません。 ここでは、江戸時代中期に記された明智光秀を主人公とした軍記物『明智軍記』をもとに簡単な家系図をご紹介いたします。 明智光秀と正室・煕子の娘たち 明智光秀には江戸元禄時代に書かれたと言われる「明智軍記」では 三男四女、「明智系図」では 六男七女(二人は養女)の子供がいたと言われています。 反逆者として敗北し、後の天下人によって完全に悪人とされた光秀には、勝者の歴史である戦国、江戸時代の文献に正確な歴史的史料が残ることは難しかったのでしょう。 このため史料に記述が残る人物について、具体的に紹介しておきます。 息子・明智光慶 明智光秀の嫡男(正室との間にできた年長の子供)は光慶(みつよし)と伝えられていますが、 生年不詳の上に元服や初陣の記録もなく、唯一光秀主催の歌会で光慶が結句を詠んだ記録があるだけです。 このため最期も亀山城での病死、坂本城での自害など諸説があり、また山城国の妙心寺や和泉国の本徳寺の僧となったと言う生存説も存在します。 次男・明智自然 NHKの大河ドラマ「おんな城主直虎」で田中レイくんが演じた明智自然(あけちじねん)。 可愛い演技で視聴者の心を一瞬のうちに鷲掴みにしたようですが、この明智自然とは誰のことなのでしょうか? 明智軍記では光秀の次男・十次郎光泰(じゅうじろうみつやす)の幼名が自然だと記されており、山崎の合戦ののち明智秀満らが坂本城で自害したときに死去したと伝えられています。 他にも明智系図、明智軍記に仏門へ帰依した者の名が何人か記されていますが、その行く末が確認されている者はいません。 現代の子孫 クリス・ペプラーさん 山崎の合戦の敗戦で光秀の血をひく人物を多く失いましたが、その中からしぶとく生き残り、現代に光秀の血を受け継いでいる人物がいます。 ドイツ系アメリカ人の父と日本人の母を両親に持つクリス・ペプラー さんです。 テレビ番組のナレーションやFMラジオでのDJなどのレギュラーを多く持ち、落ち着いた美声で最近は声優の仕事もされています。 クリス・ペプラー さんの母方の祖母が美濃守護大名・土岐頼芸(ときよりあき)の次男・土岐頼次(ときよりつぐ)の長男・土岐頼勝(ときよりかつ)の末裔だと伝えられており、 この頼勝には光秀の実子説があります。 真偽のほどはともかく、母方が土岐氏を名乗っているのであれば、光秀と同じ土岐氏の血筋であることは間違いなさそうです。 細川隆元、細川隆一郎 明智珠ことガラシャが嫁いだ細川家にはその血を受け継いだ末裔の人物が存在しています。 細川忠興とガラシャの長男であった忠隆(ただたか、廃嫡)の子孫で衆議院議員から政治評論家となった 細川隆元(ほそかわりゅうげん)と毎日新聞記者から同じく政治評論家となった 細川隆一郎(ほそかわりゅういちろう)です。 歯に衣を着せぬしゃべりで時事、政治についての対談や記事で人気があり、天下のご意見番の異名もとっていました。 細川護熙氏 第79代内閣総理大臣に任命された細川護熙(ほそかわもりひろ)は細川忠利から続く肥後熊本細川家の18代当主で、熊本県知事、参議院議員、衆議院議員も勤めた政治家です。 肥後細川家は8代目で直系男子が途絶えて養子を迎えたため、ここで光秀の血は途絶えたのですが、 護煕の祖母が細川忠利の兄である忠隆の末裔になるため、護煕にも明智光秀の血が流れていることになります。 坂本龍馬も? 他には 幕末に活躍した土佐藩士の坂本龍馬の家紋も桔梗紋のため、明智光秀の子孫ではと小説や解説書などで取り上げられました。 これは坂本城で自害したとされる明智秀満が落ち延びて、土佐の長宗我部家を頼りここに定住し、その子孫が坂本家と言う伝承があります。 しかし坂本城に由来するとされる坂本姓も偶然と言われており、 この伝承自体が後世の小説家の創作との説が現在は有力となっています。

次の

坂本龍馬が明智光秀の子孫ってホント!?歴史上の偉人のつながりを検証

明智光秀 子孫 天皇

1865年。 坂本龍馬は、会社を立ち上げるにあたり社名にも頭を悩ませたことでしょう。 「亀山社中」の名で設立された貿易結社は、後に海援隊となるわけですが、一般的には「亀山」という地名にちなんだといわれています。 ただ、一説には光秀公が丹波攻略の拠点とした亀山城から社名をとったという説もあります。 坂本龍馬の家紋「組あい角に桔梗紋」に明智光秀の家紋「桔梗紋」が一致するという指摘も見られるため、実は坂本龍馬は明智光秀の子孫であったという見識が取りざたされるようになったのです。 しかも、坂本龍馬自身が、自分は明智光秀の子孫だと言っていました。 もしも、坂本龍馬が明智光秀の子孫だったことが周知の事実であったとしたなら、幕末史にも大きな影響を及ぼしていることでしょう。 今回は、幕末の風雲児・坂本龍馬を振り返るとともに、明智光秀子孫説の真偽を検証していきます。 幕末の風雲児・坂本龍馬 幕末の風雲児を生み出したのは、現在の高知県にあたる土佐藩です。 坂本家は下級武士でしたが、商いでの収入があったため、生活そのものはとても裕福でした。 青年時代は江戸遊学を経験し、尊王攘夷を目指す土佐勤王党へ加入します。 しかし、ほどなくして脱藩をし、紆余曲折あって海軍を取り仕切る幕臣・勝海舟に弟子入りします。 神戸海軍操練所で航海術や語学の習得にはげんでいた坂本龍馬ですが、操練所のメンバーが反幕府集会に参加していたことで、操練所は取り潰しとなってしまいます。 そこで、操練所の仲間たちとともに、長崎で日本発の商社である「亀山社中」を設立。 後に「海援隊」と改めました。 海援隊を経営しながら、同郷の中岡慎太郎とともに、薩長同盟実現のために奔走。 坂本龍馬による仲介のもと締結にいたります。 船中八策で大政奉還にも言及したとおり、この坂本龍馬の着想は土佐藩主から幕府へと進言され、江戸幕府200年の歴史に終止符が打たれます。 それからは、新政府の組織作りを進めていた坂本龍馬でしたが、大政奉還から一ヶ月、潜伏していた近江屋で中岡慎太郎とともに暗殺され、33歳で命を落としました。 坂本龍馬と明智光秀 商人でありながら郷士株を買って土佐藩士となった坂本家では、明智光秀の娘婿である明智秀満からの末裔だと言い伝えられています。 現在では、この明智秀満は明智家の出身で、光秀の従弟だとする説もあるようです。 明智光秀の居城であった坂本城が陥落したときに、土佐へと逃げ落ちて酒屋をはじめたとされています。 そのため、坂本家の家紋を桔梗紋と酒の枡をかたどった組あい角にしたのです。 琵琶湖の南湖に築城された坂本城は、宣教師ルイス・フロイスがこの明智の城ほど天下に有名なものはないだろうと称す名城であったとされています。 この坂本城から名字をとったとも考えられています。 戦国時代に土佐をおさめていた長曾我部氏と明智光秀は親しい関係でもありました。 坂本龍馬を明智光秀の子孫と断定するのには資料が少ないと言わざるを得ませんが、長曾我部氏をたよって土佐に逃れたというのは、いかにも筋が通っているともいえます。 もしも坂本龍馬が光秀公の子孫だったら… 明智光秀の子孫であることをかくさなければならないような事情もなく、坂本龍馬も「わしは、光秀公の末裔ちや」と触れ回っていたそうです。 ですが、これが冗談でもなんでもなく、仲間内だけでなく各方面で公認されていた事実だとしたら事情は大きく変わってきます。 敵は本能寺にあり!と朝廷をないがしろにしていた織田信長を討ち取ったことから、明智光秀は朝廷にとって恩人ともいえるべき人物です。 そのため、朝廷が明智光秀の子孫が坂本龍馬であることを認めていたのだとしたら、さまざまな要望にも応えようとしたはずです。 一部からは、一介の浪士であった坂本龍馬が、どうしてこれほどの偉業を成し遂げることができたのかという疑問が投げられていますが、これも朝廷のバックアップがあったとしたらつじつまが合います。 幕末の風雲児・坂本龍馬が明智光秀の子孫であることは断定することができませんが、いずれにしても、現代に残された資料をひも解いてみると、日本の人たちや自国の領民たちのしあわせを何よりも願っていた、そんな心の優しいところは似ているといえるのではないでしょうか。

次の

博士ちゃんの明智光秀・子孫・芦田愛菜が話題

明智光秀 子孫 天皇

さきごろなくなられた堺屋太一先生が一世を風靡していた頃には、その考え方が主流でした(「鬼と人と」)。 信長が日本の秩序を壊そうとしているのを、古典的常識人だった光秀はどうしても阻止しなければなかなかった、という構図ですね。 これは「朝廷黒幕説」と言われている陰謀史観(世の中の歴史マニアは陰謀や黒幕が大好き)ともあいまって、みんなが信じていました。 私も、当時はそう考えていましたし、それに添ったことをここにも書いてました。 けど、残念ながら、この説は現在はまったく流行ってません。 光秀が事前に朝廷に手を回した証拠もなければ、本能寺のあとに朝廷だ積極的に光秀を助けた形跡もない。 なにより、光秀は乱のあとに「信長を殺したのは天皇のためだ」なんて一言も言ってない(幕府のためだ、的なことは言ってるのに)。 やはり、光秀は「勝手に乱を起こして、勝手に滅んだ」としか見えない以上、「天皇を守るため」というのが動機というのは分が悪すぎです。 いま世間でいちばんとおりがいい(マニアには受けが悪い)磯田道史先生は、「光秀は、秀吉に出世競争で負けて、焦ってたんですよ」と、アッサリ言い切ってます。 つまり、本能寺には謎もなければ黒幕もない、光秀の単なる衝動的な犯行だってことです。 私も現在はこの考え方に賛成です。 もちろん、これは歴史マニアにはあんましウケない説です。 「黒幕」はいてほしい、光秀には何か高邁な思想があってほしい、でないと殺された信長が浮かばれない。 まあ、そう思うマニアの気持ちはわかります(かつては、私もそうでしたから)。 でも、現実はわりと単純で素っ気無いものだったりします。 天皇を護るなど関係なし・密約にて討てたら天下を任せよう!これだけ・・磯田君の説は妄想だ明智などは他人扱い秀吉は織田家準家族級だぞ明智など初めからの使用人認識である。 鷹狩の世話した鷹匠の話・・近衛前久が信長に天皇をどう思う等々何度も聴いたが気短信長は無言だったが余りにクドイ為 要らんと!これを近衛が伝達し天皇は此のままでは我らは値鞘だろう信長を討てと!香木は切るは暦は尾張暦に替えよ・位は全部要らん・・幾らな天皇がアホでも殺されるぞーーとなるは・でな明智が謀反成功に導いたが天皇は知らん顔・・秀吉が明智討伐した・北条も秀吉が討伐・・如何に織田家に忠誠を誓うた人物か解ろう・馬の骨 赤の他人に何が判る・古文書から伝承まで直に判定できる・・直系血族には津田氏もだが戦国期の書が残る。 いつも言うとろう信長に関する物は90%創作だと。 尾張織田宗家弾正忠家当主・名古屋。

次の