足利 将軍家。 【徳川よりも面白い?】波乱万丈すぎる!足利15代将軍まとめ

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足利 将軍家

経歴 [ ] 出自 [ ] にの棟梁、(八幡太郎義家)の四男・(足利式部大夫)は()を領してとし、次男・以降の子孫が足利氏を称する。 とは同祖の関係である。 平安・鎌倉時代 [ ] 義国の次男・(足利義康)はのとなり、においても、と共に戦う。 また、大宮司であったの娘(実は季範長男・の娘=源頼朝の母の姪)を妻にしている。 その子は4年()の挙兵に参加して、、などに参加し、の有力としての地位を得、として源氏将軍家の一門的地位にあった。 以降のことと思われるが、・の守護職を務める。 また三河足利氏()、足利尾張守家()などの別家を分出し、さらに、、、、、、、、、、などのを分出し、一族は全国に広がった。 家滅亡後もとは婚姻やを通じて良好な従属関係を維持してきた()が、第4代当主・はに無断で(一説では、謀反の疑いがあったとされるが真偽は不明である)・引退し、第5代当主・との娘の間に生まれた第6代当主・はに関連して自害したと言われている。 一方で、家時の死はへの殉死によって北条氏からの猜疑を回避する要素があり、その結果幕府滅亡直前まで足利氏は北条氏の信頼を受けたとする見方もある。 清子との間には尊氏と並んで両将軍と呼ばれたももうけている。 尊氏は2年()にの挙兵に応じてを倒す功績を挙げた。 そもそも祖先のは源氏のの子ではあるが傍流に過ぎなかった。 孫の義兼とが縁戚関係にあって従弟であったこともあり、義兼は早くから幕府に出仕、その血縁もあって頼朝の声がかりでの娘を妻にして以来、前半は北条得宗家と、幕政後半は北条氏の庶流でも有力な一族と、幕府に近い北条氏との縁戚関係が幕末まで続いた。 また、官位などの面においても、足利氏当主の昇進は北条氏得宗家の次に早く、後に北条氏庶家並みになるものの、それも彼らの昇進が速くなった事によるもので、足利氏の家格の下落によるものではなく、依然として北条氏以外の御家人との比較では他に群を抜いていた。 また、足利氏は平時においては鎌倉殿(将軍)への伺候を、戦時には源氏の門葉として軍勢を率いる事で奉仕した家柄であった。 特に北条氏にとっても重大な危機であった承久の乱で足利義氏が北条泰時・を補佐する一軍の将であった事は、北条氏にとっても嘉例として認識され、足利氏を排除する意図を抑制することになった。 その結果、源氏将軍断絶の後、有力にして源氏の有力な一流とみなされるようになっていた。 そのため、幕末のの挙兵に際して、足利氏の帰趨が大きな影響を与えた。 北条氏との関係 [ ] 詳細は「」を参照 鎌倉期の家の歴代当主のは当主の+の「氏」で構成されており 、具体的には、がの 、が 、が 、貞氏の三人の息子(・・)が からそれぞれ偏諱を受けた。 また、義兼が頼朝の妻の同母妹であるを妻に迎えたのをはじめとして、代々と縁戚関係を結んでいた。 具体的には、義氏は北条泰時の娘を、泰氏はの娘を、頼氏はの娘を、家時はの娘を、貞氏はの娘・釈迦堂殿を、高氏はの娘・を、それぞれ正室に迎えた。 このように足利氏の歴代当主は、代々北条氏一門の女性をに迎え、その間に生まれた子がとなり、たとえその子より年長の子(兄)が何人あっても、彼らは皆として扱われ家を継ぐことができないという決まりがあった が、正室(北条時盛の娘)が子を生む前に早世した頼氏の跡は、その庶子であった(貞氏の父、母はの娘)が家督を継いだ。 家時に「氏」が付かないのはこのためであるようだ が、代わりに用いられた「時」の字は北条氏の通字であり、やはり北条氏から偏諱を受けたものであるとみられる。 しかしこの高義も早世したので、家時の時と同じように、庶子であった次男の高氏(尊氏)が最終的に足利氏宗家を継いだのである。 ちなみに、泰氏の父・の「義」の字に関しても同様の考えでから賜ったと考えることもできなくはないが、それについては現状の研究では言及されておらず、ひとまずは前述の清和源氏より続く、義氏までの足利氏の通字とみなすのが良いと思われる。 南北朝時代 [ ] 尊氏は当初後醍醐天皇のに参加したが、を機に、建武の新政から離反した後、からに、にを開いた。 尊氏はである諸氏を諸国の守護などの要職に任じている。 庶流の中でも、・・などは、歴代足利宗家当主の庶兄を祖とし、から独立したのとして認められて、もしており、足利氏宗家は彼らに対して未だとしての地位を十分に確立できていなかった。 の動乱下にあって、急激に力を持つに至った足利氏一族は必ずしも、宗家当主(尊氏・)の意向に忠実とは言えず、宗家に対する反乱やへの離反などが相次いだ。 尊氏は、正室所生で早逝したの庶弟で、本来、足利宗家のを継承する立場になかった、という上述の事情も存在した。 足利一族の一人であるが『』の中で祖父(、今川氏2代目当主)以前の歴史を十分に知らないことを告白するとともに 、幕府成立後も一族内に尊氏の系統を・であることを認めない者がいたこと や今川氏が他の庶流と違って宗家に忠実であったことを主張している。 このような状況において、は常に存亡の危機に立たされたが、そのたびに乗り越え、尊氏の孫であり第3代将軍・の時代になってを達成することとなる。 室町幕府将軍家 [ ] 足利義満は、などで有力を挑発しては討伐してその勢力を削減し、の王朝から「 」としてを受けてに迫る権威を確立するなどして、幕府の安定化と全盛期を築き上げた。 しかし義満が死去すると次第に将軍権力の弱体化、の台頭が顕著になって行く。 第6代将軍・は父・義満の政治路線を受け継いで将軍権力の強化を行なったが、そのあまりに強硬的なやり方は周囲の反発を招き、でされるに至って、遂に将軍権力の衰退と権威の失墜が露呈する結果となった。 第8代将軍・の時代には後継問題などをめぐってが発生し、室町幕府は京都だけを支配する一地方政権に転落した。 第10代将軍・はのによって将軍職を追われ()、以後の将軍は実権を奪われて名目的存在となり、有力大名の支持なくしては将軍の地位さえ保てなくなった。 その後、では将軍の若死になども相次ぎ、第13代将軍・の時代にわずかに将軍権力が復興される兆しもあったものの、8年()5月にらによって暗殺()されてしまい、将軍は有名無実化した。 なお、義輝暗殺後の3年間、室町幕府では将軍空位の時代が続き、一時的に幕府は消滅している(などの官僚機構は存在していた)。 義輝の実弟・は、永禄11年()にに擁されてし、第15代将軍となった。 この時、14代将軍であったはに逃れた。 彼の系統は家と呼ばれる。 やがて将軍の義昭は信長と対立して元亀4年()に京都を追放()されに移り、室町幕府は終焉を迎えた。 なおは、天正16年()にが確立し足利義昭が京都でするまでは将軍職にあったと記録している。 義昭の子、の男子は全てし、の直系は絶家した。 なお、義昭の子あるいは孫と伝承される人物にやがいるが、その出自を証明する明確な証拠は現在のところない。 関東公方家 [ ] 尊氏の子で関東支配のために父によって派遣された・は鎌倉を中心として関東を支配した。 しかし基氏の死後、その子孫は京都の室町幕府将軍家と対立・抗争を繰り返し、遂に第4代公方・に至っては第6代将軍・足利義教と衝突する事態に至った()。 この戦いに敗れた持氏は義教の命令で自害を余儀なくされ、鎌倉公方家は滅亡した。 しかし義教の死後、義教によって助命されていた持氏の末子・が足利義政より再興を許されて、第5代鎌倉公方となった。 しかし成氏はのと対立し、鎌倉を放棄して古河に移ってと称した。 成氏の死後、古河公方家では内紛が相次いで衰退し、第5代公方・が11年()に死去すると、古河公方家は断絶した。 なお、足利義政の弟・から始まる家は、第2代公方・の時代にによって滅ぼされた。 第2代古河公方であるの次男・から始まる家も7年()にによって滅ぼされた。 こうしてまでに、関東足利氏は政治の表舞台からことごとく姿を消すこととなる。 しかし義明の孫・は室町幕府滅亡後、天下人となったに関東公方の足利氏再興を許されて、と結婚した上でに領地を与えられた。 のちにに改め、その子孫はには禄高5000ながら10万石格の待遇の家として存続し 、以後足利氏に復した。 喜連川系足利家は当主であったの死後、惇氏の甥のが継いだ。 歴代棟梁 [ ]• 宗家(室町以前) [ ] (現当主) 足利氏の支族 [ ]• 関東公方系• 将軍家• 御一家• - 三河守護足利氏の系譜を引く。 足利別流として家格が高い。 においては・を輩出• - 足利別流の斯波氏の分家。 三管領• - 鎌倉時代は宗家と同じく足利を称す• 戦国後期から江戸初期にかけては大名となるもその後に• - 戦国期にはで「鞍谷御所」と呼ばれた一族。 江戸期にはの子孫であるとされたが、実際には斯波氏支流と見られている• - 支流の和泉細川家は江戸時代には藩主家。 には・を輩出• 一門・親類• その他• - (斯波一族とされるが異説あり)• - (斯波一族とされるが異説あり)• - (一族とされるが異説あり)• - (一族とされるが異説あり) 足利氏の直臣 [ ]• 執事・探題• 脚注 [ ] []• 「鎌倉幕府家格秩序における足利氏」、編 『中世政治史の研究』 日本史史料研究会、2010年。 179 - 228• 25, 「総論 中世前期下野足利氏論」• , p. , p. , p. 133, 「北条氏の専制政治と足利氏」内の「足利・北条両氏関係系図」. , p. 131, 小谷俊彦「北条氏の専制政治と足利氏」。 年代を考慮すればから下賜されたものと思われる。 今川氏は2代基氏の子の代から、今川荘よりへ移住している。 『』によれば、2代将軍である義詮の時代になっても「我等が先祖は当御所(足利将軍)には兄の流のよし」と主張して義詮に自らの家系図を示して自家の優位を主張する者がいたという。 「『難太平記』二つの歴史的射程-室町初期の『平家物語』を考えるために」『文学』第3巻第4号、2002年。 の三男。 ・の長男。 ・の十一男。 さくら市ミュージアム 荒井寛方記念館. 2017年11月9日. 2017年11月25日閲覧。 の弟・宜麿の長男。 参考文献 [ ]• 『下野足利氏』 〈中世関東武士の研究 第九巻〉、2013年。 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。

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足利氏

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足利義昭像 出典:Wikipedia 室町幕府は、 楠 くすのき 正成 まさしげを破り、京都に開いた武家政権です。 初代将軍・尊氏から237年、15代に渡り足利氏が将軍職を継承してきました。 江戸幕府は265年続いたので、これに継ぐ長さの政権です。 安定した時代とは言えなかったかもしれませんが、畳を敷いた部屋、 今の私たちが、和室という認識を持つ生活様式が生まれたのもこの時代なんです。 そして、公家や朝廷に代わり完全に武家へ力が移ったのもこの時代です。 いろいろなことが変わっていった激動の時代だったんですね。 足利義昭の子供たち 義昭には3人の息子がいたと言われています。 その息子たちを紹介したいと思います。 足利義尋(あしかがぎじん) 義尋 ぎじんは将軍・足利義昭の子として生まれました。 側室の子でしたが、義昭に正室がいなかったため 嫡子 ちゃくし(跡取りする子)とされました。 将軍家の跡取りとして育てられましたが、父・義昭が織田信長に敗れ京都から追放されると織田信長に人質として差し出されます。 時期将軍として生まれながら、人質とは運命のいたずらを感じます。 信長はいずれ、義尋を将軍として 擁立 ようりつしようと考えていたのではないか? とも言われていますが、本能寺の変で無念の死を遂げてしまいましたので、将軍・義尋は幻となってしまいました。 人質に出された後、わずか1歳で出家させられると、興福寺の 大僧正 だいそうじょうにまで登りつめます。 後に 還俗 げんぞくし、妻を迎え息子2人が生まれます。 2人とも仏門に入り ・義尋が養子に出されているのに、義喬は匿われていることから、実は義喬が嫡子ではないか?説 ・義尋が仏門に入りながらも子供を儲けたので寺を追い出されたという話から、義昭ではなく義尋の子ではないか?説 などと言ったいくつかの説がありますが、 どれも確証がないため想像の域を出ません。 後に義喬の孫は坂本姓に改姓し、会津藩士になっています。 永山義在(ながやまよしあり) 永山義在 ながやまよしありは、足利義昭が和泉(いずみ)国に蟄居(ちっきょ)していた時に誕生した子とされています。 父の元を離れ、薩摩藩に身を置いていた義在は、薩摩藩士に婿入りし永山姓を名乗るようになりました。 薩摩藩の資料では、足利義昭の子とされていますが、他の同系の家系図では登場しません。 このことから、 出自が疑わしいとされています。 兄の義喬と同じく義昭の子であるという 確実な証拠が見つかっていない人物です。 西南戦争で西郷側として政府軍と戦った永山 弥一郎 やいちろうは、 義在の末裔であると言われますが、義在と弥一郎の関係性を示す資料が一切ないことから、 本当に末裔であるかどうかは、不明です。 きょうのまとめ 子孫に関する資料が少なく、確実に義昭の子供であると言えるのは、 「足利義尋」だけです。 栄華を極めた将軍家としては、なんとも寂しい気がしますね。 他にも足利義昭について記事を書いていますので、興味がある方はそちらもお読みください。 足利義昭の年表を含む【完全版まとめ】記事はこちらをどうぞ。 関連記事 >>>> その他の人物はこちら 安土桃山時代に活躍した歴史上の人物 関連記事 >>>> 時代別 歴史上の人物 関連記事 >>>>.

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足利義稙

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生涯 [ ] 少年期 [ ] 天文5年(1536年)3月10日、第12代将軍・の嫡男としてで生まれる。 幼名は 菊幢丸(きくどうまる)。 誕生直後に外祖父・のとなる。 将軍と御台所の間に生まれた男子は足利義尚以来であり、摂関家出身の女性を母に持つ将軍家の男子も菊幢丸が初めてであった。 この頃の幕府では父・義晴とのが互いの権威争いで対立し、義晴は戦をするたびに敗れてに逃れ、菊幢丸もそれにたびたび従った。 その後も父と共に京への復帰と坂本・への脱出を繰り返した。 また、これまでの将軍家の嫡男は頭人であるの邸宅で育てられる慣例であったが、菊幢丸は両親の手元で育てられた。 天文15年()7月27日、菊幢丸はより、 義藤(よしふじ)の名を与えられた。 また、同年11月19日には朝廷から将軍の嫡子が代々任じられてきたに任じられた。 これらは全て、父・義晴が朝廷に依頼し、実現したものであった。 同年12月19日、義藤のが執り行われた。 元服式は近江坂本の日吉神社(現)祠官・の第で行われ、がとなった。 将軍の烏帽子親は管領が務める慣例になっていたが、義晴は定頼を管領代に任じて元服を行った。 これは晴元の管領としての権威を否定するものであった(そもそも、晴元は管領に任じられていなかった説もある)。 なお、がを烏帽子親にするように求めて六角定頼に阻止されたりするなど、当時の流動的な政治背景を元に晴元の舅である定頼を烏帽子親にしたとする見方もある。 翌20日、の儀式が行われ、義藤はわずか11歳にして父から将軍職を譲られ、正式に第13代将軍となった。 このとき、京より赴いた朝廷からのが坂本に到着し、将軍宣下を行った。 一連の行動は、父・義晴がかつての先例に倣ったものであったとする意見がある。 義晴は11歳で元服・将軍宣下を行ったことに加え、自身が健在のうちに実子に将軍の地位を譲ってこれを後見する考えがあったとされる。 また、朝廷は義晴がこのまま政務や京都警固の任を放棄することを憂慮し、引き留めの意図を含めて、義輝の将軍宣下の翌日に義晴をに急遽任じている。 同月の末、義藤は父・義晴とともに坂本を離れ、京のに戻り、翌天文16年正月26日には父とともに内裏に参内して、に拝謁した。 天文16年()7月19日、義藤は義晴とともに晴元によって京を追われたが、29日に晴元と坂本で和睦し、京に戻った。 このとき、晴元も義藤の将軍就任を承諾している。 三好長慶との戦い [ ] ところが、細川晴元の家臣で、畿内に一大勢力を築きつつあったが晴元を裏切って、細川氏綱陣営に転属。 天文18年()6月、で長慶に敗れた晴元によって義晴・義藤父子は、から近江坂本へ退避し、常在寺に留まった。 この時期には義藤自らが御内書を発給し始めているが、まだ若年と言うこともあり大御所である義晴の存命中は義晴名義の、その没後は生母である慶寿院が御内書を発給している例がある。 天文19年()5月、父・義晴がにて死去した(『万松院殿穴太記』)。 義藤は父が建設を進めていたで、三好軍と対峙した()。 だが、戦局が好転しないまま11月に中尾城を自焼して堅田へ逃れ、翌天文20年()1月には政所頭人であるが義輝を強引に京都に連れ戻して三好方との和睦を図ろうとするが失敗、これを知った六角定頼の勧めにより2月に朽木へ移ったが、これに反発した貞孝はのらを連れて京都に戻って三好方に離反した。 天文20年()3月、義藤は京都の貞孝の屋敷に長慶が呼ばれるとの情報を得ると先に貞孝と共に帰京した進士賢光を伊勢邸に潜入させ、長慶を暗殺しようと目論んだが失敗した。 賢光による暗殺劇は長慶に軽い傷を負わす程度に終わってしまい、賢光はその場で自害した。 また、に親長慶派の・遊佐長教が暗殺された事件も義藤の仕業とされ、畿内に不穏な空気が漂った。 7月には・を主力とした幕府軍が京の奪回を図って侵入したが、とその弟の(内藤宗勝、丹波守護代)によって破られた()。 天文21年()1月、義藤は長慶と和睦し、京都に戻った。 これは同月に六角定頼が急逝して和解の空気が生まれたことによる。 伊勢貞孝は赦免される一方、細川晴元は京都を脱出した。 2月には三好長慶がとして幕臣に列せられ、長慶が推すが京兆家、弟のが典厩家を相続することが認められた。 ところが、義藤の側近である奉公衆の上野信孝が台頭し、これに反発する幕臣との確執が強まった。 特にこの年の6月に義藤が伊勢貞孝らの反対を押し切って山名氏や赤松氏の守護職を奪って尼子晴久を8か国守護に任じたことで幕府内に動揺が生じた。 天文22年()閏1月、上野信孝など側近の奉公衆らは長慶排除のために細川晴元と通じ、2月には親三好派の伊勢貞孝が信孝らの追放の諫言を行い、これに義晴・義藤に長年従って三好氏と戦ってきたや朽木稙綱も同調した。 3月には義藤自身が長慶との和約を破棄して東山の麓に築いたに入城し、晴元と協力して長慶との戦端を開いた。 義藤は晴元と長慶が芥川山城を包囲している最中に連合して入京を目論むが、7月に長慶が芥川山城に抑えの兵を残し上洛すると、8月に幕府軍が籠城する霊山城が攻め落とされてしまった()。 同月、義藤は伯父である前・らを伴い、(稙綱の孫)を頼って近江朽木谷に逃れ、以降5年間をこの地で過ごした。 長慶は将軍に随伴する者は知行を没収すると通達したため、随伴者の多くが義藤を見捨てて帰京したという。 やがて、やのように奉公衆でありながら、三好氏の家臣に準じた立場で活動する者も現れるようになった。 天文23年()2月12日、義藤は朽木谷に滞在中、に昇叙するとともに、名を 義輝に改めている。 改名することにより、心機一転を図ったと考えられている。 4年()2月、朝廷はの即位のため、年号をに改元した。 だが、京から離れた朽木谷にいた義輝は改元を知らされておらず、それまで古い年号の弘治を使用し続けることとなったため、朝廷に抗議している。 改元は戦国時代であれど、朝廷と室町幕府の協議の上で行われてきたが、朝廷は義輝に相談せず、長慶に相談して改元を実施していた。 永禄元年3月、義輝は改元の一件もあって、三好政権打倒のため、朽木谷で挙兵した。 5月なると、(承禎)の支援で晴元とともに坂本に移り、京の様子を窺う。 翌月、幕府軍がに布陣して、らの軍とで交戦した()。 一時期は六角義賢の支援を受けた義輝側が優勢であったが、長慶の弟・の反攻を受け、さらに六角義賢からも支援を打ち切られたために戦況は思うように展開しなかった。 11月、義輝は六角義賢の仲介により長慶との間に和議が成立したことに伴って、5年ぶりの入洛が実現し、御所での直接的な幕府政治を再開した。 この年の12月28日には、伯父の近衛稙家の娘を正室に迎えている。 長慶はなおも権勢を高め、幕府のに加えられ、さらに修理大夫への任官を推挙されたが、同時に義輝の臣下として幕府機構に組み込まれることとなった。 ただし、長慶も義輝の権威に自らが取り込まれる危険性や長年対立してきた自身と義輝の和解が難しいことは理解しており、永禄2年(1559年)12月に嫡男・孫次郎が義輝から偏諱を拝領して義長(後に)と名乗り、翌3年(1560年)1月に義長が三好氏代々の官途であった守に任ぜられると、長慶は三好氏の家督と本拠地である摂津国を義長に譲って、河内国に移っている。 長慶は自身は義輝との一定の距離を置きつつ、三好氏の新当主となった義長(義興)と義輝の間で新たな関係を構築することで関係の安定化を図ったとみられている。 なお、長慶が御相伴衆になると同時に嫡男の義興と重臣のが御供衆に任ぜられている。 将軍親政 [ ] 足利義輝木像(等持院霊光殿所蔵) 義輝は幕府権力と将軍権威の復活を目指し、諸国の戦国大名との修好に尽力している。 と(天文17年(1548年))、と (天文19年(1550年))、と(永禄元年(1558年))、と、と (永禄3年())、と (永禄4年())、毛利元就と大友宗麟 (永禄6年())、上杉輝虎(長尾景虎改め)とと武田晴信(永禄7年())など、大名同士の抗争の調停を頻繁に行った。 また、義輝は諸大名への懐柔策として、大友義鎮を筑前・守護、を守護に任じ、三好長慶・義長(義興)父子と松永久秀には桐紋使用を許した。 さらに自らの名の(1字)を家臣や全国の諸大名などに与えた。 例えば、「藤」の字を(幽斎)や(順慶)、足利一門の・などに、「輝」の字を・・上杉輝虎(謙信)などの諸大名や足利一門、藤氏・藤政の弟であるなどに与えた。 また、、、などのようにの通字である「義」を偏諱として与える例もあった。 永禄年間には信濃国北部を巡る甲斐国の武田信玄と越後国の長尾景虎とのが起きており、義輝は両者の争いを調停し、永禄元年(1558年)には信玄を信濃守護に補任した。 だが、信玄はさらに景虎の信濃撤退を求めたため、義輝は景虎の信濃出兵を認めた。 2年()には、の、の、の長尾景虎()が相次いで上洛し、義輝に謁見した。 永禄4年(1561年)には信玄に駆逐され上方へ亡命していた前信濃守護・の帰国支援を命じている。 また、長尾景虎の就任の許可、を拡充し、毛利元就、毛利隆元、大友義鎮、、今川氏真、三好長慶、三好義興、らを任じた。 また、諸大名の任官斡旋には力を尽くしたものの、義輝自身は将軍就任翌年に従四位下参議・左近衛権中将に任ぜられてから18年間にわたって昇進をせず、また内裏への参内も記録に残るのはわずか5回である。 後に織田信長は義輝の朝廷軽視が非業の死の原因であると述べた(『』)とされているが、義輝の朝廷観については今後の研究課題とされている。 治世 [ ] 足利義輝肖像(筆、蔵) 永禄元年(1558年)の義輝の帰京以降も三好長慶の権勢は続いたが、それに反発すると六角義賢が畿内で蜂起し、三好実休が戦死する()と、三好氏に衰退の兆しが見え始めた。 こうした中、永禄5年()に長慶と手を結び幕政を壟断していた政所執事の伊勢貞孝が長慶と反目すると、義輝は長慶を支持してこれを更迭し、新しくを政所執事とした(また、貞孝が幕府法を無視した裁決を行っていたことが発覚したのも更迭の理由とされる )。 これに激怒した貞孝は反乱を起こしたが、9月に長慶の手で討たれた。 これによって、かつての3代将軍の介入すら不可能だった伊勢氏による政所支配は歴史に幕を閉じ、幕府将軍による掌握への道を開いた。 永禄2年(1559年)、大友義鎮を九州探題に任命し、九州の統治を委ねた。 もともと、九州探題は足利氏一族の渋川氏が世襲していたが、少弐氏と大内氏の抗争に巻き込まれてすでに断絶していたため、これを補うための補任であった。 大友家は九州において、足利将軍家に最も親しい有力守護大名である(この時、大友義鎮は・豊前・・筑前・・の守護およびの半国守護を兼ねていた)。 永禄7年()7月に長慶が病死。 義輝はこれを機に幕府権力の復活に向けてさらなる政治活動を行なおうとした。 最期 [ ] しかし、傀儡としての将軍を擁立しようとする松永久秀とにとっては、将軍家の直接統治に固執する義輝は邪魔な存在であった。 久秀の長男・と三人衆はの養子・(義輝の叔父)と組み、義維の嫡男・(義輝の従兄弟)を新将軍にと朝廷に掛け合うが、朝廷は耳を貸さなかった。 一方で義輝が頼みとする近江六角氏は永禄6年()の以降、領国の近江を離れられなくなっていた。 永禄8年()5月19日、久通と三好三人衆は主君・(長慶の養嗣子)とともに参詣を名目に集めた約1万の軍勢を率いに押し寄せ、将軍に訴訟(要求)ありと偽り、取次ぎを求めて御所に侵入した()。 義輝は自らを振るい、その後は刀を抜いて抵抗したが、敵の槍刀で傷ついて地面に伏せられたところを一斉に襲い掛られて殺害された。 最期は寄せ手の兵たちが四方から畳を盾として同時に突きかかり殺害したとも、または槍で足を払われ、倒れたところを上から刺し殺されたともいう。 事件の際に在京していたの『』には、義輝が「生害」したと記されており、討死したとも自害したともとることができる。 後世には、の『』などの御所を囲まれて切腹したというものや、『』の「散々に防ぎ戦ひて終に自害有ける」などの自害したという明確な記述も見られるようになる。 享年30(満29歳没)。 この時、といった多くの奉公衆や摂津晴門の嫡子・も一緒に討死・自害にした。 また、義輝の生母であるや義輝側室の小侍従殿までもが殺害されている。 これに対して、は三好・松永側は実際に訴訟(要求)の取次を求めて御所を訪れたものの、取次の際の齟齬から両軍の衝突に発展してしまったもので、最初から将軍殺害を計画していた訳ではないとする。 は三好側の意図は側近たちを排除を目的として政治的要求を行うために御所を包囲するいわゆる「」と呼ばれるもので、それ自体はかつてのにおける失脚、における失脚、における失脚と同じ性格であったが、フロイスの記述を信じればその要求は将軍の妻妾や側近の処刑を含むもので義輝にとっては受け入れがたかった内容を含むものであったために、その要求を拒絶するために実力排除を試みた結果とみる。 木下昌規は最初から義輝の殺害が目的であれば、政治的要求を申次である進士晴舎に提出するという正規の手続きを取っている理由が不明であるとする反面、その政治的要求で処刑を求められた側近と妻妾の中に進士晴舎とその娘の小侍従が含まれていたとすれば交渉自体が成立する可能性が低く(特に進士は三好氏との取次で、彼が突然自害したことで「手切」とみなされて戦いが始まっている)、殺害の意図の有無を推し量ることは難しいとしている。 は「五月雨は 露か涙か 我が名をあげよ 雲の上まで」 [ ] 死後 [ ] 義輝の死後、三好氏による主君殺害は世間を憤慨させた。 特に義輝と親しくしていた大名らは激しく憤り、上杉輝虎は「三好・松永の首を悉く刎ねるべし」と神仏に誓ったほどであった。 また、河内のの重臣・も「前代未聞で是非も無いこと。 (略)無念の至りだ」と怒りをあらわにし、上杉氏の重臣らに弔い合戦を持ちかけている。 朝倉義景の重臣らも同様に、「誠に恣の行為で、前代未聞、是非なき次第で沙汰の限りだ」と怒りをあらわにしている。 朝廷は義輝の死に悼惜し、6月7日に義輝に・をしたばかりか、正親町天皇も政務を3日間停止して弔意を示した。 公家のは義輝の殺害を、「言葉がない。 前代未聞の儀なり」と日記に記している。 また、天皇に仕えていた女官も同様に、「言葉もないことだ」と嘆き悲しんでいる。 朝廷もまた、三好・松永の義輝殺害に強い怒りを感じていた。 義輝殺害に対する怒りは、支配層ばかりではなく、一般庶民にも広まっていた。 永禄10年()2月10日には、上京ので義輝追善のが挙行され、摂津や近江坂本から集った2,800人が鉦鼓を鳴らし、貴賤を問わず男女合わせて7、8万人の群衆が参加してその死を悼んだ(『言継卿記』2月10日条)。 また、同年10月にも真如堂で安芸から来た600人が義輝の奉公衆や女房衆に扮し、行列を組んで風流踊を行っている。 は、「町の人々が義輝を追悼する踊りによって三好三人衆政権への抵抗を示した」と解釈している。 はこれらの事実から、「三好は世間を敵に回した」と評している。 天正17年()5月18日、毛利輝元が非命に斃れた義輝の25周忌に際して、塔主・にその仏事を依頼した。 これは、「鹿苑院塔主が導師を勤めれば、昌山(足利義昭のこと)も喜ばれるだろう」と考えた輝元の配慮でもあった。 人物 [ ] 斯波氏武衛陣・足利義輝邸遺址• 宣教師は、義輝を「とても武勇すぐれて、勇気ある人だった」と評している(『』第65章)。 剣豪として名を馳せていたから指導を受けた直弟子の一人である。 奥義「一之太刀」を伝授されたという説もあり、武術に優れた人物であったのではないかと言われている。 ただし卜伝はこの他にや細川藤孝などにも授けており、必ずしも奥義を極めたとは断言できず、免許を皆伝したという記録もない。 永禄の変の際、フロイスの『日本史』では「義輝は自ら薙刀を振るって戦い、人々はその技量の見事さにとても驚いた。 その後はより敵に接近するために薙刀を投げ捨て、刀を抜いて戦った。 その奮戦ぶりはさながら勝利を目前にしている者にも劣らなかった」と記されている(『』第65章)。 信長旧臣のが著した『』でも「数度きつて出で、伐し崩し、数多に手負わせ、公方様御働き候」と記されている。 また、『』には「足利家秘蔵の刀を畳に刺し、刃こぼれするたびに新しい刀に替えて寄せ手の兵と戦った」という記述も存在するが、これは義輝の死からかなりのちの時代(江戸時代後期)に記されたものである上、永禄の変に最も近い時期の史料には「名刀を取り替えて戦った」という記述自体が存在しないことから、創作の要素が極めて強く信憑性に欠けるものとされる。 この『日本外史』による誇張が、義輝の評価を実像からかけ離れさせ、一人歩きさせた要因ともいえる。 義輝は武衛陣(斯波武衛家旧邸)に室町幕府の拠点を移した将軍としても知られる。 斯波武衛家の旧邸は室町中御門にあり、義輝の御所は室町中御門第とよばれる。 のちに大規模に拡張され、石垣で囲まれた城郭風の外観となったため、旧と呼ばれることもある。 天文23年()にはからとの秘伝書(『鉄放薬方并調合次第』)を手に入れたり、永禄3年()にはにの布教を許している。 永禄8年(1565年)、は京都からを追放するよう命令したが、義輝はこの命令を無視した。 系譜 [ ] 一般には一男三女とされ、長女は弘治2年(1556年)、次女は永禄7年2月24日、三女は義輝が殺害される直前の永禄8年4月17日に誕生した。 次女と三女は『言継卿記』の誕生記事から生母が小侍従であることが分かる。 息子は(永禄5年()4月生 - 同年没)のみであるが、非公式に義輝の息子といわれる人物が2名知られている。 細川藤孝の孫で主となったは、の下で閑居していた(玄蕃、義輝の遺児といわれる )を探し出し熊本に迎えて、100石扶持を与えた。 忠利は、熊本藩の客分・とともに義辰をの新築の御茶屋(別荘)に招くなどした。 その長男のは西山氏を名乗り、知行1,000石、比着座同列定席の家格にて奉行などを務め、子孫は明治に至る。 他の子としては、義輝暗殺の際に家臣に保護されのの下で養育されたという足利義高(出家して)がいたと伝わる。 墓所・肖像 [ ] 足利義輝像紙形(筆、芸術資料館蔵) 墓所 法号は光源院融山道圓。 供養塔がのにある。 肖像画• 本(姿。 本(歴博本と同図様)• 本(姿)• 本(束帯姿) 他に、源弐()の写したという頭部の下絵(紙形)が所蔵の土佐家資料の中に現存する。 国立歴史民俗博物館本や真正極楽寺本は、これを粉本として制作されたと考えられている。 15年()• 7月27日、朝廷から義藤の名を与えられ、従五位下に叙す。 11月19日、正五位下に昇叙し、左馬頭に任官。 12月19日、六角定頼を加冠役として元服。 12月20日、従四位下・征夷大将軍宣下。 天文16年()• 2月17日、参議に補任し、左近衛中将を兼任。 天文23年()• 2月12日、従三位に昇叙し、名を義輝と改める。 8年()• 5月19日、薨去。 6月7日、贈従一位、左大臣。 武家 「義」の字• (輝光)• (謙信)• (豪為)• (景道)• (照行)• (河端輝綱)• (輝家、輝忠)• (通政)• 義輝を題材とした作品 [ ] 小説• 『剣豪将軍義輝』上、中、下(徳間文庫、2000年)• 上 鳳雛ノ太刀 、中 孤雲ノ太刀 、下 流星ノ太刀 舞台化作品『剣豪将軍義輝~戦国に輝く清爽の星~』(2016年)• 宮本昌孝『義輝異聞 将軍の星』(徳間文庫、2003年)• 『将軍義輝の死』(角川春樹事務所(ハルキ文庫)、2005年)• 『無明長夜の剣』(『風塵』収録) 舞台• 舞台『剣豪将軍義輝~戦国に輝く清爽の星~』(前編)(2016年12月8日~14日 原作:『義輝異聞 将軍の星』 刊 主演:足利義輝 演• 舞台『剣豪将軍義輝~星を継ぎし者たちへ~』(後編)(2017年6月8日~18日 EXシアター六本木)原作:宮本昌孝『義輝異聞 将軍の星』徳間文庫 刊 主演:足利義輝 演 染谷俊之 楽曲• (、、演:)• (、NHK大河ドラマ、演:)• (、NHK大河ドラマ、演:) 脚注 [ ] 注釈 [ ] []• なお同書では、ライーニャおよびプリンセザの訳語に「奥方」を使用している。 「公方様の夫人は、実は正妻ではなかった。 だが彼女は懐胎していたし、すでに公方様は彼女から二人の娘をもうけていた。 また彼女は上品であったのみならず、彼から大いに愛されてもいた。 したがって世間の人々は、公方様が他のいかなる婦人を妻とすることもなく、むしろ数日中には彼女にライーニャ(=王妃)の称を与えることは疑いなきことと思っていた。 なぜならば、彼女はすでに呼び名以外のことでは公方様の正妻と同じように人々から奉仕され敬われていたからである」 「コジジュウドノ(小侍従殿)と称されたこのプリンセザは~」• 『』天文5年3月11日・4月6日条。 『日本史』第65章。 『言継卿記』5月19日条。 『言継卿記』10月7日条。 後にがに門弟であるを推挙した際の書状において、上方における卜伝の直門として弥四郎の父・と共に、義輝と北畠具教の名を挙げている。 の伝承では、卜伝が「唯授一人」の一之太刀を伝授した相手は北畠具教としている。 また、卜伝本人からではないが、も、その直門である松岡則方から一之太刀を伝授されている。 『フロイス日本史』第1部66章および67章や、宣教師の書簡集などには、義輝の死後、竹内季治などの徒が松永久秀などに働きかけて正親町天皇を動かし、イエズス会の宣教師を京都から追放する勅令状を発行させることに成功し、宣教師は都を追われたという記述があるが、同書や彼らの書簡には義輝の生前に天皇より宣教師やイエズス会の会員を京都から追放する命令が出たという記述はない。 『三百藩家臣人名事典』第七巻()では義昭の弟としている。 出典 [ ]• 『完訳フロイス日本史1 将軍義輝の最期および自由都市堺』より。 , p. , p. , p. , pp. 8-9. , pp. 61-62. , pp. 285-287. , p. 333. 343. 287-294. , p. , pp. 9-10. , p. , p. , p. , pp. 12-13. , p. 14-15. , p. 24-25. 100. , p. 337. 天野忠幸「三好政権と将軍・天皇」『織豊期研究』8号、2006年。 , pp. 21-22. 矢崎勝巳「『彦部家譜』所収里見氏関係文書」『中世房総』5号、1991年。 宮本義己「足利将軍義輝の芸・豊和平調停(上)(下)」『政治経済史学』102号・103号、1974年。 , p. 44-45. 松村正人「室町幕府政所頭人伊勢貞孝-その経営基盤と行動原理をめぐって-」『白山史学』35号、1997年。 山田康弘「将軍義輝殺害に関する一考察」『戦国史研究』43号、2002年。 山田邦明『戦国の活力』小学館、2008年、127頁。 柴裕之「永禄の政変の一様相」『戦国史研究』72号、2016年。 , p. 50-53. 128. , pp. 128-129. 129. 『戦国時代の貴族-「言継卿記」が描く京都-』〈講談社学術文庫〉、2002年。 , pp. 129-130. 『戦国時代の貴族-「言継卿記」が描く京都-』〈講談社学術文庫〉、2002年。 , p. 130. 295. 参考文献 [ ]• 木下昌規 「総論 足利義輝政権の研究」、木下昌規編 『足利義輝』 思文閣出版〈シリーズ・室町幕府の研究〉、2018年。 山田康弘 『足利義輝・義昭 天下諸侍、御主に候』 ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2019年12月。 ; 編 『室町幕府将軍列伝』 戎光祥出版、2017年。 『足利義昭』吉川弘文館〈人物叢書〉、1996年、新装版。 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。

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