自分 を 誤魔化し 生きる こと に 意味 は ある か。 生きる意味がわからない『そのうち分かるよ』とか『自分で見つけるものだよ』とかそんな曖昧な言...

生きるとは何か 愛(自分)を知ると生きる意味がわかる

自分 を 誤魔化し 生きる こと に 意味 は ある か

人間の理性を分解して緻密に積み上げていくカントや、哲学を含む諸学問の理論体系を壮大に構築しようとしたヘーゲルなどの哲学者と異なり、ニーチェは哲学者でありながら思想家として、人間の愚かな本質や日常生活の矛盾点を声高に指摘するため、その言葉は寸鉄となって人の心に突き刺さってくる。 だから、彼の理論を完全に理解していなくても、哲学の素人であっても、その熱すぎる言葉によって弱った心は鼓舞され、大地に忠実に「生きる意味」を与えられた気分になる。 「生きる意味」が分からない とは言え、「 なぜ生きるのか?」という疑問がすべて解消されるわけでもない。 そもそも、この疑問が簡単に解消されてしまうなら、哲学という学問の半分は要らなくなるのではないかと思うから、哲学という学問が存在する以上、それは終わりのない問いかけなんだろう。 飲んだ勢いでその疑問をぶつけてみても、返ってくる答えは大抵、「生きる意味なんて特にない」「考えるだけ無駄」「楽しく生きればいい」といったもの。 もちろん納得はできないけれど、かと言って反駁できるほどの理論も知識もないため、杯を重ねて自分の至らなさを仕舞い込む。 それでも、研究に没頭したり、就職して仕事に没頭したりしているうちに、「こうやって目の前の現実に情熱を注ぐことこそが、唯一の『生きる意味』なんじゃないか?」という思いでメモリが上書きされ、良くも悪くも、普段の生活を粛々と進めていくことになった。 ただし、若いころに考えたことは、上書きによってそう簡単に消え去ってしまうものでもなく、心の片隅をいつも陣取っていることは自覚していたため、それが亡霊となって復活することのないように、目の前に延びた道をただ黙々と歩み続けた。 やがて、何とか結婚して、子宝にも恵まれた。 亡霊と闘い続けるだけの自分が結婚して、父親にまでなれたことは、本当にただの偶然でしかない。 そうやって子どもを持つと、今度はその子どもが亡霊と闘うことになるかもしれないし、その場合は自分が後方支援してやらなければならないと思うから、もはや自分は亡霊と闘っている場合ではない。 と思って亡霊を払い除けようとするのだが、亡霊はそう簡単に消え失せてくれるものでもない。 仕方がないから、亡霊と共存して、自分を誤魔化しながら日々を過ごすことにした。 子育てが「生きる意味」になる ただ、子育ての時間を重ねていくうちに、誤魔化す必要がなくなっていく感覚を徐々に抱くようになった。 言葉で書くのは簡単だけど、中途半端な妥協なく「子どもらしい情熱」でもって仕事や趣味に打ち込めることは、1つの大きな才能だと思うから、正しい信念を持って仕事や趣味に没頭できる人は心から尊敬するし、その反面、自分には無い才能だとも思う。 ただ、子育てしていて思うのは、「子育てって、亡霊と闘うのにもってこいなんじゃないか」ということ。 「生きる意味」が「子どもらしさ」や「他人愛」の中にあるとするなら、その「子どもらしさ」に日々接し、「他人愛」という(基本的に)見返りのない愛を求められる子育てには、「なぜ生きる」という亡霊を封じ込めるだけの大きな力があるように感じられる。 生物学においては、細胞分裂を極限まで繰り返して古くなった身体を更新するよりも、新しい種を残した方が効率的なので「子孫を残す」という考えがあるみたいだけど、異なる視点からは、哲学的な亡霊を封じ込める意味もあるんじゃないかと思ってみたりする。 「何に忙殺されるか」という問題 子育てに忙殺されている人生に、亡霊が入り込める隙間はほとんどない。 目の前の仕事や趣味に没頭できる才能を持っている人が、「好きなことだけやる」を合言葉に、仕事や趣味に忙殺されているのを見るにつけ、その才能に惚れ惚れすることも多々あるんだけど、よくよく考えてみると、子育てに忙殺される人生も、亡霊を封じ込めるという点では同じようなものだ。 「生きる意味」が分からなくて日々を誤魔化しながら生きていても、子どもが生まれようものなら、「子どもらしさ」や「他人愛」が必然的に近寄ってきて、「生きる意味」が与えられた気分になる。 自分で没頭できるものを見つけられる人はそれで良いけれど、多くの人はそうでもないだろうから、子育てを通じて「生きる意味」を受動的に受け取ってみるのも、悪いもんじゃないと思う。 だから、誰もが自由にそうなれる世の中になって欲しいものだ。 あとがき ただし、常識を身にまとった大人から見て、子どもというのは凶器でもあり狂気でもあるから、それなりの覚悟を持って臨まないと痛い目に遭う。 また、あくまでも「無償の愛」であることに留意する必要がある。 自分はただ子どもと伴走して、「子どもらしさ」を思い出させてもらったり、「愛を注ぐ」甲斐性の快感を経験させてもらったり、その程度の存在でしかないことをしっかりと自覚しておきたい。 子育ての見返りを求めるようになると、間違いなく「毒親」に近づくと思うからさ。

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神は妄想である

自分 を 誤魔化し 生きる こと に 意味 は ある か

こんにちは、今回は「生きる意味を失う、毎日が辛いと思う気持ちと向き合う5つの考え。 」をテーマにお話していきます。 あなたは、自分が何のために生きているのか、解らなくなるほどの不安に陥ったことは無いでしょうか? 毎日、生きて行く中で何かに対して少なからず意欲を失い、生きていくことの意味さえも失ってしまう事が無いでしょうか? 僕自身も、いくつかある夢に対して一生懸命に生きてきたつもりでも自分が描いた夢に満たされず、迷い悩み苦しんだ結果、生きる意味を失うほうどの状況になった事が幾度かありました。 そんな時、これから何を目標に生きていけば良いのか?悩み苦しみ自分を責めてしまった経験があったのです。 一生懸命に生きてきたつもりでも、一度の失敗を引きずり気持ちが悪い方向へと向い、これからの事が何もかも上手く行かないと思い込み過ぎてしまうのです。 毎日が辛い生き方になり、自分と向き合うことさえ出来なくなってしまい、本当の生きる意味を失ってしまうのではないでしょうか? 本来の生きる意味をしっかり持って、どんな時にも気持ちを良い方向につなげる方法を知っていれば、辛いと思う気持ちから逃げずに自分と向き合えるはずです。 本来の生きる意味を知って、辛いと思う気持ちと向き合う覚悟が出来れば生きる意味を失う事が無く、当たり前に生きていくための気持ちへと前進していくのです。 今回のテーマの内容は、生きる事はどのような本質が隠されているのかをテーマに伝えたいと想い書きました。 現在、生きることの意味や先の未来の志などに不安を抱えている型には必ず参考になると信じています。 この記事を読む事で、本来の生きる意味が見つかりシンプルに生きる事が出来るはずです。 本来の生きる意味が見つかれば、あなたにとっての生き方が何のためなのかが今後の人生にとって必ずプラスになるはずです。 僕自身も、お金の事・家族の事・仕事に関わる事・人間関係の事・健康の事、様々な事に対して悩み生きる事の意味を何度も失いかけてきました。 そんな中でも人間は生きて行かなければならない根本的な生き方を見つけたのです。 是非、これから人生を向き合うための5つの考えを参考にして頂けたら、あなたの人生の生きる意味を取り戻せる手助けが出来ると思っていますので最後まで読んでみてください。 生きる希望を失うと人はどうなる。 人は何かの出来事や生きる希望をきっかけに、生きている事の意味を失ってしまう事があるのです。 それは、悩む事ではなく当たり前の事で、あなたが一生懸命生きているからこそ失うことも多くなるのです。 だからこそ前向きに捉えて生きていくのが結果的に良い生き方に繋がるのです。 生きる意味を失う事で、あなたの気持ちが悪い方へ流されてしまうとしたら、生きる意味を考えてください。 生きる意味を考えるとは、これから何を目的に生きて行くかという事なのです。 未来に向かって、新たに持つ目的や明日の目的も含まれますので、具体的に考えてください。 生きる意味を考えていく上で、考えて欲しい事があります。 それは、あなた自身の生きる意味と他者への生きる意味を考えて欲しいのです。 なぜなら、人は一人でこの世を生きて行く事が出来ないのが事実としてあるからです。 生きる意味の本質は、人に必要とされる人生が必ずあるからです。 人は生きる意味を失うと気持ちが悪いほうへと流されてしまうのです。 必ず生きる意味を一度だけではなく、2度3度と自身の生きる意味と他者の生きる意味を考えながら生きていって欲しいのです。 必ず失った意味を理解し生きる意味を思い出す事が出来ます。 毎日が辛いと思う気持ちと生きる理由が欲しいと思う気持ちと向き合う。 人は一日一日、生きて行く中で良い事があれば悪い事もあるはずです。 毎日が辛いと言う気持ちはなぜ起きるのでしょうか?あなたに一つ感じてい欲しい言葉があります。 「因果応報の原理」と言う言葉をご存知でしょうか、僕なりに考えた意味として、「善の知識を持って、善になる知恵を働かせば、善なる生き方に繋がり、非の知識を持って、非になる知恵を働かせば、非なる生き方に繋がる」と言う意味です。 毎日が辛いと言う生き方は、あなたが一日一日に感謝を持って生きているのか? その思いは、生きる理由が欲しいと言う問いに繋がるのです。 感謝を持つ生き方こそ生きる理由が欲しい意味にもつながるからです。 そして、自分自身も誰かに感謝される生き方をしなければなりません。 簡単に言うと誰かに必要とされる生き方です。 あなたが誰かに必要とされる生き方を思い出して、今日からでも必要とされる生き方を意識して生きて行けば必ず生きる意味を取り戻せるのです。 毎日が辛いと思う気持ちは、自らの行いが原因だと認識してください。 そして、日々に感謝して誰かに必要とされる行いこそ行きる意味に繋がると言うことを心で理解していきましょう。 生きるのが辛い、生きる意欲がないと思う感情は自分自身の何からくるのか。 あなたが人生で生きるのが辛いと感じた時、自分で自分を苦しめていませんか?あなた自身で生きる意欲がない生き方を選んではいませんか?自分に厳しい目ばかりを向け、自分に対してダメ出しばかりしてるんじゃないですか?人生が思うようにいかず、つらい日々を送っているのは自分だけだと思っていては何も始まらないのです。 確かに人生には、「出来ること・出来ないこと」というのはあると思います。 ただ現実に、毎日充実した人生を送っている人もいれば、そうでない人もいるはずです。 「出来ない」ということではなく、「自分はどうしたいのか?」「これから自分はどうなっていきたいのか?」あなた自身も実際は自分で自分の事を苦しめているのは分かっているはずです。 本来は自分にとっての一番の理解者は自分自身で、そのためにも自分で自分を応援することで自分は自分でしか守れないと信念を持って生きて行くのです。 毎日が辛い時こそ、取り戻さなければならない意味付けがある。 毎日が辛いと思う時に人は、環境(自分以外の対象)を理由にすることが多く、自分を変えると言う思考ではなく、環境を変えるしかないと言う自分の勝手を最優先して物事を思考してしまうのです。 そんな考えでは、全てが上手く行くはずがないのです。 生きるのが辛いから、辛さを誤魔化すためにも自分の勝手を最優先して人とのコミュニケーションに対して自分のことを認めてくれる人に本音を言うことで辛さを誤魔化してしまうのです。 生きるのが辛い時は、どうしても、自分のことは犠牲にして他人を優先してしまったり、自分の心を無視したりしてしまうことが多いのではないでしょうか。 生きるのが辛いと思う状態から解放する唯一の方法は、自分の中の「心の声」に対して生きている意味を見つけ、生きる意味を自分で意味づけする事から始めなければ前に行けないのです。 自分と向き合う辛い気持ちで、生きる意味を見出す。 自分と向き合う辛い時に「生きる意味って何だろう?」 人は、そんな問いに対して心の中で悩み続けることで、生きている事の存在価値を見出しているのかもしれない。 もしくは、大切な何かを失った時、自分の存在価値を改めて問われているのかもしれません。 心の中で、いま生きている事への存在価値をどう納得していけば良いのか?もし、納得したとしても真実の生きることの喜びと生きる価値を見出すことが出来るのか?全ての答えは自分の心の中の気持ちになってしまうのも事実だと思う。 だからこそ、自分が唯一受け入れることが出来る心の存在に問いかけて、導き出した意識に従う事が大切な意味に繋がるのです。 心の存在に問いかける唯一の方法は、心を無にする環境です。 心を無にする環境では余計な雑念を一枚一枚脱ぎ捨てるように真実の問いに向かう意識感覚です。 余計な雑念を全て脱ぎ去った後には至極シンプルな答えしか残らないのです。 その答えこそ「生きる意味の答え」なのです。 生きる意味を見出すことで、生きている事の存在価値を問い始めて、自分が導き出した答えに従う心の勇気が必要になる事を知るはずです。 広告 まとめ。 いかがだったでしょうか、今回のお話は?少しは感じ入る事が出来たでしょうか? 生きる意味を失うと人はどうなるのか、毎日が辛いと思う気持ちと向き合う事で何が起きるのか、心の気持ちで、生きる意味を見出す事が大切な意味に繋がることになるのです。 今回お話した全ての言葉の意味を自己受容していただけたならば、あなたの人生に必ず生きる意味がシンプルに感じるはずです。 今回、お話しした内容は僕自身の経験から生まれた想いから、事実に感じ基づいて記事にした内容になっていると思います。 ぜひ、今回の生きる意味を失い、毎日が辛いと思う気持ちに対しての原因を理解いただき、効果的な解決策を参考にして行動する自分を手に入れてください。 今回は「生きる意味を失う、毎日が辛いと思う気持ちと向き合う5つの考え。 」をテーマにお話ししました。

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自分を誤魔化すことを辞めてみる

自分 を 誤魔化し 生きる こと に 意味 は ある か

生きる意味を考える事自体が、自己実現の方法・生きる喜び・生き甲斐・生きる意味である人は、自分の考えを聞いてほしかったり、寂しくて話し相手が欲しい目的だと思いますので、そうではなくて生きる意味を見つけたい目的で、『生きる意味は何か?』を問われたものとして考えます。 つまり『どうすれば生きる意味を見つけられるか?』です。 例え話で説明してみます。 人の体を携帯電話に例えます。 その携帯で電話に出るのは、その人の本当の自分です。 しかし出来立ての携帯は未熟で、電波は圏外でその本当の自分に繋がることができません。 だから人は本当の自分と繋がるために、電波を受けらるだけの教養と体、電波を受けられる場所を求めます。 但し生きる意味など概念的な事を考える事自体が生きる意味な人は、場所は求めないかも知れません。 つまり、生きる意味を探している人が、考える事自体が目的でない限り、考える前にその体で以て出来ることをたくさん、全力でやってみるしかないです。 やってるうちに本当の自分に繋がったらビビッと何か感じると思いますよ。 何か計算問題のようなものではないですから、これが正解とか、それは間違いとか言えません。 そういう意味ではやはりソクラテスの「肝心なのは、ただ生きることではなく、善く生きることだ」という言葉ですね、これに一番共鳴します。 「善く生きる」を道徳的な善悪というより、ソクラテスの考える「善」は事物がそれぞれその本領を存分に発揮することを意味しますから、人間が「善く生きる」という場合は、各人が自分の個性や本領を最大限に発揮して、充実して生きているということですね。 西田幾多郎の『善の研究』もそういう線で書かれています。 カント的な「傾向性を抑制して義務に従う」ことにばかり道徳性を求めることに批判的なのです。 ようするに熱中して我を忘れ、仕事や学問や趣味に没頭して充実していれば、生きる意味は実感でているわけです。 生きる意味は何々ですと文章で言えなくてもいいので、実感できればいいということですね。 『西田哲学入門講座』PDF版で読みやすくなりましたから是非アクセスしてください。 tok2. pdf 人間存在というのは生きているから意味が生まれるのであって、 死んでしまったら、意味など生まれません。 一人の人間が意識できる時間も、圧倒的に生きている時間の方が長い。 そこに居て、生きているからそのまま意味が生まれるのです。 人は、誰かから生まれ、誰かと関わり合いながら生きる。 その誰かとの間に意味が生まれます。 それは勿論人である場合もありますし、ペットである場合、自然である場合、 本である場合、など様々ですが、 <生きている意味の発生する場所はどこか>と聞かれると 「その関係性の間である。 」と応えられる。 自己にとって少しの意味の時もありますし、大きな意味の時もある。 <いつ、意味が生まれますか>と聞かれると 「生きている時間すべて。 」と応えられる。 カントのように<高次の意味はどのように発生しますか?>と聞かれると 「歴史的な哲学者や宗教者の言葉と出会い、その言葉を自己の実践として思考し 自己の中で整合性が得られた時。 」と応えられる。 それは最初は相対的な意味として与えられ、幾度と無く整合性を追求し、 相当修行をした場合に絶対的な意味を与えられる場合がある。 通常の人の場合、相対的な整合性に終始して、「人の価値観は相対的だ。 」などということになる。 しかし、全体性と可逆性の双方に整合性が得られる地平に辿り着くと 絶対的な整合性を得られる場合がある。 この地平は、人間の生きている意味が、言葉ではなく、 <絶対的に会得した地平>に辿り着く。 西田の目指した地平はそういうところであろう。 このところあたふたしていて、見れていませんでした。 人生の意味を求める前に、生きる喜びを感じられるということが大切だと思いますね。 嫌なことが有り過ぎると、生きる喜びを感じる感覚が麻痺してしまいます。 嫌なことはたくさん転がっているので、それを気にし過ぎるととても喜びを感じるゆとりがなくなり、なんで生きているのだ、生きる意味なんてあるのかなと落ち込んでしまいます。 それで生きる意味を見つけようとして、かえって苦しむことになります。 人間に生まれたことは他の生き物や無機物でもあり得たとしますと、奇跡のような確率ですね。 それは宝くじで三億円当たるよりもすごい超ラッキーなのです。 空の星、吹き渡る風、喉を潤す水、さまざまなめぐり合い、家族の結びつき、かけがえのない友情、そして素晴らしい人々との語らい、まあ美味しい食べ物を食べたりや様々な人々が作り出した品物を使ったり、自分でも何か仕事に工夫して、やり遂げたりと、人生にはうれしいことがたくさんあるじゃないですか。 それをうれしいとか、すばらしいとか感じることですね、感じたらそれを言葉で表現するということです。 本居宣長は、歌に歌えば、百倍楽しくなるというようなことを言っていますが、生きているのは素晴らしいことだということをいっぱい感じ、いっぱい表現する、そうすれば生きている意味なんて考えなくてもいいということですね。 だから「三つのL」を大切に生きるということを訴えています。 これがどの宗教にも共通して言えることかもしれません。 一つ目は「Light光」です。 光はあらゆる物質の原理であり、理性であり、希望であり、救いですね。 また創造や表現です。 光を求めて生きているわけです。 二つ目は「Life命」ですね。 生まれてきた奇跡、生きていることの素晴らしさ、他の命を殺してその命によって生きているという有難さも自覚しないとね。 大いなる生命の共生と循環を生きるということです。 三つ目は、もちろん「Love愛」です。 愛がなければ、すべてが意味を失います。 「三L教会」の信徒になって生きてください。 そんな教会どこにあるかって? それはあなたの心の中にあるのです。 私は思うのですが、 生きる意味と言うか、何故生きれる生きているようになっているか、 増殖したい、増殖出来る細胞が出来て、 植物みたいなのができて、 動物になって陸に上がって、 人間になってです。 死なないように、死に関わるところに苦痛が組み込まれています。 ごはん食べると気持ちいです。 ご飯に限らず、生きるための行為は基本的に気持ちいし苦しくないはずです。 (呼吸とか?) でも生きてるの辛いです。 成長するためです。 生物として人間として、 教育を受けることにより、社会貢献したり、する事に喜びを感じます。 喜びがあるから生きてます。 喜びが感じられません。 脳が麻痺しています。 病気です。 正常ではありません。 お薬飲みましょう。 喜びが感じられないと生きている価値ないんじゃ、、、、 そんな事ありません。 全ての人間は生きる価値があります。 何ででしょうねwwwwでも、絶対間違っちゃいけません 人間生きてる価値は絶対あるんです!! でも不思議で、死ぬ直前とか生命いの危機とかも気持ちいんですよねwwww それは、あなたを成長させるために出てるんです。 それに依存するためではありません。 まぁ、まとまってませんが、、、、、こんなこと考えました。 あ、、、意味ですか、そうですか、意味は人間だけが考えれますよね多分。。 ってことは、名前とか、座標を言わないと分かりません。 その時に考えてる事、感じてる事を、意味づけし、そこら周辺の物事を括り、名前を付けたのが、生きがいだと思います。 同感でありますよ。 但し、宗教&倫理の真理も真底まで入らず、入口までが無難ですね。 安易に、霊界とか暗夜の世界、チャクラ等々の世界に入っていくことは危険なのです。 霊界とか暗夜の世界を体験してきた人の多くは、体験後、心身の健康維持が出来ないからです。 開けてはいけないパンドラの箱、もっともっと真理の先の奥の世界を体験する欲望は、自然(神・仏)界の許容範囲を超えており、自分自身の欲望に対して、「罰が当たってしまった」行為に相当するからなのでしょうね。 自分自身の「身体(肉体)」と「心(気持ち)」の範囲に留め、「魂(霊魂)」の世界に入っていかない方が無難なことも友人・知人等々の様子(態様)を診て知徳しました。 (限界範囲を超えてはならない鉄則なのです。 貴重なコメントを頂戴し有難うございました。 ご指摘された「自分の生の意味の有る無しに疑問をいだく所に突き落とされている人に、癒しと抱擁はかなえてあげられないのでしょうか。 」との件、上記第17項目にも記述しましたように、 私は、昭和39年(高校2年生)から趣味をヴォランティア活動に活かし、 教会の礼拝堂で、バッハの宗教音楽を主体に紹介したり、東京文化会館やその他の施設を利用して、 クラシック音楽ファンに限らず、 人生に悩める人々に対しても、クラシック音楽による癒しと抱擁に作用・効果を来たす音楽鑑賞療法を活用して、参加者に喜んで貰い、「明日への活力の一助になって貰えれば幸い」との思いで、平成19年(還暦定年退職時)まで活動して参りましたよ。 「バッハの音楽に親しむ会」&「クラシック音楽を楽しむ会」等々の例会に、延べ3500人余り参加され、その中に、自分の生の意味の有る無しに疑問をいだく所に突き落とされている人が350人ぐらいいましたね。 それらの人達が、異口同音に、クラシック音楽鑑賞例会後の二次会(お茶やお茶菓子を戴きながら、自由に発言し合う討論会形式)の席で、聴くことによって、ああ〜良かった。 スッキリした。 サッパリした。 と次々に発言され、この作品を聴いて、癒されました。 人生の悩みが和らぎました。 と言いていた老若男女の方々が印象的でしたね。 クラシック音楽による「音楽鑑賞療法」は、癒しと抱擁に対して、抜群の作用・効果があることに気付かされましたよ。 音楽鑑賞会例会以外に音楽セミナーも同時に開催し、5〜20人ぐらいの小グループでのディスカッションに、自分の生の意味の有る無しに疑問をいだく所に突き落とされている人も参加して戴き、 更なる助言と別途に、クラシック音楽以外に自然音(海や山での波・風・水流・鳥の鳴き声等々)を活用しての森林浴的なヒーリング、アルファー波・ベーター波、1/fの揺らぎ効果のあるサウンドを駆使した音楽ソフト、NASA(米国の宇宙事業団のナサ)の知的所有権を複数利用したサウンド・スペース(地球の囁き、土星・木星・海王星の囁き等々)の音源ソフトで、宇宙旅行している気分・雰囲気・臨場感たっぷりのサウンドを聴いて貰い、多くの悩める人々が、ヒーリング後、癒された、悩みが解消したと言って貰えることが嬉しかったですね。 音楽&自然音による療法、対処法には、医薬による副作用的なものもなく、安心して、ヒーリング効果、即ち、癒しと抱擁に寄与する方法と想えてなりません。 まあ、音楽療法で悩みを解消できなかった人もいましたね。 心が純粋な人ほど、音楽鑑賞療法は作用・効果が「大」であり、純粋でない人ほど「小」でありました。 宗教、倫理は、明朗・愛和・喜働の精神で、それらを纏めて「素直(すなお)、純粋(すなお)」と言われておりますので、醜い複雑な心(邪心:我儘)を真心(持って生まれた清い心)に変心(変換)するところに本質的な役目があるものと考察しているのですよ。 全て、ボランティア活動の一部として、活動してきましたよ。 長年、活動できたことは、皆様に喜ばれ、少しはお役に立たせて戴けたものと想っております。 感謝 僕と「生きる意味」という言葉の付き合いは長いです。 元々、つらい受験勉強をなぜがんばるのかという問いかけから始まり、 それは大学ではスポーツにおける勝利や達成の価値への問いになり、 病気で休学した後からは、生きることの意味を問うようになりました。 「生きる意味」の意味も、その間で変わっていきました。 目標や目的へ進んでいることと捉えたとき、 その達成すべきもののそもそもの価値が問題になりました。 行為の意味への問いが、生きることそれ自体の意味への問いとなったとき、 それは、死によって、もしくは自己に関係する生の、将来の必然的な消滅によって、 成立することは不可能であるだろうと思われました。 僕は科学をやってきた人間だったので、死後生や、宗教的説話などは信じられず、 かろうじて、宗教における様々な象徴の指し示す先にあるかもしれない、 超越的ななんらかによる、生への意味付与に希望を持とうとしていました。 そのうち、それはどうも理性で認識することはできないようだということがなんとなく わかってきたので、わからないものを信じることもできず、行き詰ってきました。 そのころ、死のうとしていた僕に生きてほしいと言ってくれた人がいたことをきっかけに、 生きる意味は、生きていく中で出会う他者のなんらかの求めに対する、 応答の内にあるのだろうと考えるようになりました。 現在は、具体的な他者との関係性、特に利他的な応答のさなかに、 超越的な存在のなんらかのはたらきが介在するというような、 漠然としたイメージを持っています。 ただ、それも確かなものと考えているわけではなく、今でも、日々虚無感と闘っています。 今では僕は、「生きる意味」という概念を、 苦痛な生を生きる中で、その生を肯定するための媒介項の一つとして考えていますが、 最近は、漠然としていて、人によって規定が様々であり、自分の中でも手垢がついているうえ、 哲学においてはそもそも意味を成していないとも言われがちなこの言葉を、 自分が考えたり書いたりする中で使うことを避ける傾向があります。 ですが、どれだけ「生きる意味がある(ない)」という命題がそもそも無意味だと言われようが、 この表現を通して意味されているものは、実存的に非常に重要な意味を持つと思っているので、 今後も追究し続けるし、追究し続けざるを得ないのではないかと思います。 私も貴殿と同様に、科学(サイエンス)をやってきた人間です。 理系人間の考え方、捉え方で、高校1年生(1963年)時から現在に至るまで、宗教と科学の関係について、色々な視点・観点から考察・検証を繰り返し、楽しんできましたよ。 高校1年生時、立正大学附属高校の3年間、「日蓮上人の生涯」を1年間、「法華経」を2年間、必須科目として宗教担当の先生(お坊さん)から学び、また、同時期に、東京・墨田区の東駒形教会(賀川豊彦牧師設立)のKKS(高校生のための聖書研究会)に毎日曜日3年間通い続け、仏教と基督教を学びましたよ。 どちらも経典・聖典の神話解釈の可笑しさに、先生や牧師・伝道師・長老さん達に訴えてきましたよ。 特許法第2条に規定された自然法則と照らし合わせて鑑みれば、自然法則に反した物語(事件)は、全て「奇跡」扱いとしていることに、何らクリスチャン達、聖職者のプロ達が疑問を持たずに、通り越している姿が不可思議でしたね。 この半世紀余り、種々の宗教団体の活動現場を視察し、何をやっているのか、現場検証して参りました。 理系人間としては、事実確認が不可欠だからです。 多くの現場検証を重ね、事実を把握し、事実検証を積み上げると真実がみえてきましたよ。 真実検証を積み上げるとこんどは真理(真髄:本質)がみえてきたのです。 大学時代は千葉工業大学の金属工学科で、文化系と理科系の全授業科目を受け、卒業論文では、原子物理学(東京大学・東北大学の派遣名誉教授)をベースに、超高純度のアルミニウムの双結晶体の圧延における結晶粒界の挙動について、実験を重ね、電子顕微鏡観察の面白さ、原子構造の変化(転位論:ディスロケーション)の観察に没頭し、科学(超ミクロの世界)の偉大さに吃驚仰天していましたね。 1970年に就職して技術部に所属し、新宿駅近辺や東京駅近辺の超高層建築の外装材(アルミニウム・カーテンウォール)の強度試験をしていましたね。 強度不足が生じても、ゼネコンに対して、事実を知らせることはできず、強度不足でも、どんどん高層ビルが造られていく有様、大人の不正行為の事実を見せつけられ、正義感が強い人程、仕事が辛い、やっていけないことに気付かされましたよ。 正論・筋論を会社のトップ(技術部取締役部長、ビル建材事業部取締役部長等々)に訴えると、お前えは学生気分が何時までも抜けないのかとよく怒られていましたね。 10年余り、技術部で、金属材料の開発研究・異種金属の溶接研究、金属材料のリサイクル技術とシステム化を取り組んできましたよ。 大人になることは、嘘を嘘で誤魔化した、虚構の社会であることを学び、モラル的に、倫理的に、どのように生きていかなければならないのかを考えさせられましたね。 世渡りが上手い人程、嘘つきが多く、誤魔化しの世界観で生きていることもわかりましたね。 意外に、このような葛藤で、仕事で苦しんでいる人、余り見かけませんでしたね。 「皆で渡れば怖くない」と言う思想観、法律違反スレスレで行っている仕事に対して、正義感の強い人はやっていられませんよ。 会社のトップ達に対して、若僧が生意気なことを言い続けてアピールしてきた結果、技術部を首にされてしまいましたよ。 良かれと想って10年間、やってきたことが、水の泡になりました。 技術部を追い出された後、特許部を希望して、特許(実用新案、意匠、商標、著作権)侵害事件を中心に、東京地裁・高裁(現在は専門の知的裁判所)で、多くの事件処理を28年間、携わってきましたよ。 工業所有権法(現在、産業財産権)を主体に、知的所有権を含めた裁判所の世界も、必ずしも正義が勝利するとは言えないことを体験・経験してきましたよ。 や〜さん弁護士、弁理士の主張の仕方で、可笑しな判決が出るときもあるのですよ。 民事訴訟法(特許法)の裁判の85%は、和解ですね。 2〜3回目の弁論で、裁判長が和解勧告をするケースが多いのですよ。 和解は、裁判長が判決を出すこともなく、原告・被告の両弁護士が成功謝礼金を戴けるから、徹底的に弁論せずに、和解になってしまうのです。 兎に角、この世はお金次第、金儲け主義で、地獄界で、皆様もがいている状態なのです。 このような狭間で、還暦定年退職(2007年)まで仕事を楽しむことが出来、大人の社会の実態を見極めることが出来、この地獄界で、如何に生きるか、生かされているかを学んできましたね。 生きる意味は、上記第17項目に記述してあります。 理系人間の思考法を宗教・倫理・哲学にリンクさせ、本件テーマの「人間の生きる意味ってなんですか?」について、楽しみながら考察・検証を繰り返してきました。 貴重なコメントを頂戴し有難うございました。 理系人間は、何事も現場主義で、事実を確認・検証していく思考法が身についています。 また、色々な比較実験を実験計画法に基づいて行い、分析・解析・精査・考察・検証等々の繰り返しを行い、マトリックス図形、特性要因図、パテントマップ、ポートフォリオ等々に纏め、事実確認を深めていきますよね。 文系人間は、このような思考法で物事を深め、追究していくことは少ないようです。 即ち、理系&文系で、思考法が異なるため、職場をはじめ、社内・外の会議・会合等々で意見の相違で、ぶつかり合ってきましたよ。 技術屋同士だと直ぐ意見が合っても、文系が絡むと意見が合うことが多くはありませんでしたね。 宗教&倫理の活動現場を訪れ、事実確認を重ねてまいりましたが、宗教&倫理活動をしている人も大半が苦しんでいる様子をみてきましたよ。 貴殿からのご質問に対して、回答申し上げますので、ご参考になれば幸いです。 Q1:地獄界で、それでも支え合うのが生きる意味ということでしょうか。 A1:地獄界でも、お互いに支え合うことが生きる意味に通じます。 仏教で言われている十界(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、縁覚、声聞、菩薩、仏)の最低界に属する、地獄界、支え合うことが肝心要なのです。 生きるとは、自分自身が中心で、「人生、如何に喜んで(楽しく)生きるか」を検証することで、これが即ち「哲学」と定義してきました。 生かされるとは、自分自身が受け身で、「神仏のお蔭で生かされている、何と有難いことか」を検証することで、「神仏が主体」である世界観を「宗教」と、「自分以外の他人、即ち、皆様が主体」である世界観を「倫理」と定義してきたのです。 地獄界において、「ああでもない、こうでもない」ともがいている世界でも、「お互いに支え合う」と言うスタンスを意識して、抱き続けることが生きる意味に通じることになるのです。 Q2:モリオバッハさんは、神仏を信じてらっしゃるのですね。 A2:私は理系人間ですので、神仏を信じておりませんよ。 古代人は、自然がよくわかららなかったため、自然を神仏に置き換えたと考察していますよ。 特許屋を28年余りやってきましたので、特許法第2条に規定されている自然法則が優先順位第一位に置いていますよ。 自然を信じると言うより、自然が大好きですね。 哲学・宗教・倫理の探究の次に、神秘主義を後妻から学びましたよ。 神秘主義は秘密主義でありますから、公開・公示することはご法度なのです。 しかし、この世の中、どこも悲惨で、悲劇・不幸が面々と古代から続いてきました。 聖職者のプロをはじめ、宗教&倫理の活動家に至るまで、宗教・倫理の本質・真髄・真理に気が付かぬうちに他界して仕舞い、大半の人々は宗教・倫理の絡繰りを知らずして、誤認混同(勘違い)が甚だしいため、理解・納得をして貰うために、神秘主義の一部分を公開しておりますよ。 「宗教・倫理の本質は、こういうことだったのか」とうなづいて貰うと嬉しですね。 因みに、神秘主義の観方・捉え方は、仏教でのお釈迦様や基督教でのイエス・キリスト様、イスラム教でのマホメット(ムハマード)様は、自分自身の「真心(持って生まれた清い心)」を表現しているのです。 それに対して、お釈迦様の10人弟子やイエス・キリスト様の10人弟子は、自分自身の「邪心(大人になるにつれての我儘の言い放題の心)」を表現しているのです。 世界中の聖典・経典の神話の中身の全ては、「真心」の「善」の世界観、「邪心」の「悪」の世界観の葛藤劇に出来上がっており、「善」と「悪」の葛藤を演じているのです。 このような「善」と「悪」の葛藤は、クラシック音楽の世界観も同様であることに気付き、私が半世紀余り開催してきた種々のクラシック音楽鑑賞会や音楽セミナー等々で披露・公開して参りました。 自然界=神仏界、この神秘的な世界観をクラシック音楽を介して皆様にお披露目することが私の生き甲斐の一つになっているのです。 Q3:科学と折り合いをつけた信仰には、興味があります。 A3:信仰はしていませんよ。 私が毎日行っていることは、「朝、目が覚めたらパット起き上がり、東方面の太陽(ご来光:日の出)に対して、今日一日宜しくお願いします。 」と心の中で唱えることです。 また、「夕、西方面に沈んでいく太陽(日没)に対して、今日一日有難うございました。 」と心の中で唱えていますよ。 原始宗教に通じる信仰と言えるかもしれませんがね。 感謝 意味なんかないよ。 そもそもの思い違いがあるようだが、 アプリオリななにか、うまれつきとか「絶対的な」とか、 そういった意味は、どんなものにも存在しない。 「意味」とは、ある尺度を設定して、 その中で存在するものだ。 だから「生きる」ということそれ自体には意味なんか一切無いけれど、 尺度、「こういったことを意味があると定義した場合」において、 意味があるとかないとか、判断ができる。 第39項目の追記: この世の中の世界観を「物質次元界」と「精神次元界」に分析すると、 科学は、「物質次元界」での出来事(事象)と捉えております。 宗教は、「精神次元界」での出来事(事象)と捉えておりますよ。 其々、集合論的に考えて、「和」になるところもありましょうが、解析・精査していくためには、其々の次元界を区別して考察していくと、理系人間でも理解・納得できることに気が付きましたよ。 区別できない人間は、皆様、誤認混同(勘違い)が激しく、そんな世界はないとか、そんな分析の仕方がないとか、文系人間から散々避難、中傷・誹謗されてきましたよ。 所謂、分析・解析をしたことがない人達の言い分なのでしょうね。 前記、記述しましたように、哲学・宗教・倫理において、自分自身の立ち位置(位置づけ)、対象(物)は何か、目的・役割は何か、を区別して考察すると、あるべき姿(スタンス)がみえてくると言うものですね。 マトリックス図、特性要因図、パテントマップ、ポートフォリオ等々を駆使し、分析・解析・精査・考察・検証等々の力(パワー)を磨き上げることが重要であり、五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)と第六感(心で、みる・きく・かぐ・あじわう・ふれる)の感性力を常に磨き続けることが肝心ですね。 このようなことを四半世紀余り、私の開催してきた種々のクラシック音楽鑑賞会&音楽・オーディオセミナー等々で、老若男女に語り続けてきましたよ。 これらの活動は、全てボランティア活動の一部として、皆様に喜ばれ、少しでもお役に立たせて戴ければ有難い・嬉しいと言う気持ちで、長年にわたって、皆様のお蔭で続いてこられたのです。 この活動が、私の生きがいでもあり、他界するまで、続けていきたいと思っておりますよ。 皆様と一緒に、「歓喜の人生を謳歌したい!!」と想っているのですよ。 それとも、意味に関して言っているだけですか。 意味という語を、人間の決めごととしてのひとつの尺度をつくるものととらえた場合、 たしかに、生きることの意味は人間が決めた場合だけ存在するかもしれませんが、 でも、たとえば勉強して受験に受かった場合、 別に人間が意味という言葉を知らなくても、その基準を決めなくても、 今われわれが使っている意味で、 勉強は、受験に受かるための意味を成していたようにも思えます。 貴重なコメントを戴き有難うございました。 ご質問戴いた件、回答申し上げます。 Q1:科学主義者で、神仏も信じていなくて、信仰も持っていないけれど、神秘主義の立場から、 仏教やキリスト教やイスラム教の中にある知恵を認めている、ということでよかったでしょうか。 A1:神秘主義による世界中の聖典・経典の神話解釈は、理系人にも理解できる説明ですよ。 世界中の宗教の知恵を認識していますよ。 Q2:ところで、モリオバッハさんは、実践倫理宏正会で朝起き会に参加されているのですか? A2:実践倫理宏正会の早起き会は、知っておりますが、私が参加した朝起き会は、元祖の純粋倫理の方ですよ。 丸山敏雄先生が立ち上げ、丸山先生の弟子の平井氏が後に実践倫理をたちあげたのですよ。 1987年頃から純粋倫理の朝起き会に参加し、派遣講師の講義内容に対して、倫理のお話としては相応しくない内容に気が付いた時、派遣講師に対して、釈迦に説法をしてきた次第です。 倫理に限らず、どの宗教団体のお話(礼拝でのメッセージ説教)も哲学の話が中心のとき、聖職者のプロに対して、礼拝後、釈迦に説法してきたのです。 聖職者のプロの大半が誤認混同している有様で、宗教の本質論を説教している人がいませんでした。 Q3:太陽に感謝を告げるのは、自然の恩恵を受けていることを自分の中で確認する目的なのですか? A3:太陽は、地球上にある全ての宗教の基の基なのですよ。 目的は、自分の中で確認することでもなく、自然の恵み、皆様方々の働きに対して、感謝の念を持っているだけですよ。 理系、文系に限らず、人間としての自然的なスタンスですね。 Q4:精神的世界の存在が科学的に実証されて、精神的世界の出来事が科学的に記述し分析されえるなら、それはすごいことだとは思います。 A4:仰る通りですね。 物理屋として、精神次元界の出来事を科学的に実証することは出来ないため、次元界を「物質」と「精神」に分解して考察することにしたのです。 自然界での自然法則と人間の中身の精神界での法則が一致していることを知恵としては理解できていても、科学的根拠(エビデンス)を表示して、実証したよ。 とは断言できませんね。 頭の悪い私の頭脳の限界を感じますよ。 無暗に、霊界や暗夜に、我欲で入り込んでしまうと健康(元気)を害し、精神的な病気になって治癒できない人を多くみかけておりますよ。 誰でも、探究していく限界はありますが、多くの探究家が限界まで挑戦しても、この件、解決できない領域だと思っております。 理系人は、あくまでも、物質次元界の範囲内に留めておくべきです。 精神次元界の暗夜・霊界に入り込まないために。 精神次元界も「心」の範囲までに留め、「魂」の範囲の奥底までに、突っ込まない方が賢明ですよ。 特許の請求範囲(クレーム)と同じように、許容範囲を知る、見極めることが大切ですね。 今まで開催してきた種々の音楽鑑賞会やセミナー等々で、許容範囲内で語り掛けてきましたよ。 感謝 「生きる意味」というテーマは吸引力があるのか、幾度も途絶えても知らない間に復活しているのですね。 最近というか『聖徳太子の大罪』に取り組んでいまして、聖徳太子の摂政期に天照大神を主神と皇祖神に差し替えたということを論証しています。 これはとんでもない結論で、昔なら天皇制国家の鼎の軽重を問う議論だし、聖徳太子の責任で行われたとしたら聖者の聖性の秘密を解く議論です。 それで私が生きている意味もこの秘密を解き明かすことにあったのかと思いましたが、いよいよ九月には出版ということになるのですが、近づけば近づくほど読者の反応が不安になります。 おそらくそんなの一つの解釈にすぎないし、どうとでも解釈できるという形でシカトされるのでは不安なのです。 そうなると私の生きてきた意味や、私が明らかにした聖徳太子の生きた意味も忘れ去られてしまうのではないでしょうか。 ご無沙汰しております。 両親の老々介護で日々忙しく、このほど、6年間続いた老々介護も終わりました。 久しぶりに本件テーマが目に留まりましたので、コメントさせて戴きます。 聖徳太子の大罪に取り組まれているのですね。 我々が小学校から大学(大学院)で習ってきた歴史学ほど、誤認混同され、錯綜状態が延々と続きてきましたね。 世界史や日本史で、お釈迦様やイエス様、マホメット(ムハマッド)様が誕生したときから他界まで、この世の出来事(事件)として存在したことが記述されたこと自体に疑問wp呈した方がどのくらいいるでしょうかね。 歴史誕生時の神話は、この世の事件であったことを証明するエビデンス(科学的な根拠)の証拠物件(甲第一号証)を表示して説明・解説できる人がいますかね。 神話をこの世の事件と想っている人は、神話の絡繰りをご存知ないのですよ。 聖徳太子が存在していた証拠文献資料はどこにありますかね。 聖徳太子が法隆寺を建てとかをはじめ、色々なエピソードがありましたよね。 聖徳太子が法隆寺を建てた証拠文献資料はどこにあるのでしょうか。 十人の喋っている人の話を聞き分けたとか、聖徳太子も神話の世界観ですよ。 神話解釈に統一見解があれば、混乱しませんが、学者間でも様々な意見が出され、一向に纏まらず仕舞いで、錯綜状態が延々と続きいてきております。 日本書紀をはじめ、仏陀の言葉、聖書、コーラン等々の内容(中身)は、この世の事件でないことに気づかれたならば幸いなのですが、多くの学者先生達、気づかれていないのですよ。 聖徳太子、聖者の聖性の秘密を解く議論ですか。 神秘主義をご探究されたら如何でしょうか。 神秘(ミステリアス)は解釈の間違いで、とんでもない過ちを犯しますよ。 世界の様々な聖人、偉人達のお墓探しをしている考古学者達、御気の毒様ですね。 この世の事件ではないので、お墓や遺骨を見つけ出すことは不可能なのですから。 まあ、文学的な小説(創作物)としてなら、出版される意義、意味はあるでしょうが、ノン・フェクションを追求している理系人としては、証拠資料文献の一つに該当するとはとても言えませんよ。 もともっと歴史(世界史・日本史)学の真意を探究され、この世で起こった事件だったのか否か、見極める裁量が必要です。 この世の事件、あの世の事件の混雑性、錯綜性、いつになっても明快な回答(解答)は出せませんよ。 文系人の思考法のフェクション、理系人の思考法のノン・フェクション、歴史を捉える診方が違うのですよ。 私は28年間仕事で、産業財産権(特許権・意匠権・商標権等々)の侵害事件処理に従事してきましたので、常時、証拠物件資料探しに尽力してきましたよ。 裁判所では、知的財産権の問題は民事訴訟法に該当し、訴訟は民法第709条がベースにあるのです。 この基本的な考え方をベースに弁論していくわけで、主張するには、証拠物件資料に基づいて、答弁の繰り返しですよ。 甲第一号証を示すことが出来なければ、答弁はそこで終了ですね。 もっともっと現実的に、ノンフェクションの世界観を実践されたし。 貴殿ご自身の不安要因の「どうとでも解釈できる」とか「私の生きてきた意味や、私が明らかにした聖徳太子の生きた意味も忘れ去られてしまうのではないでしょうか。 」 よりも、生き甲斐について論じられたら如何でしょうか。 仰る通り、大学ばかりでなく、小学校から大学院まで、モラル観に欠けた教育をしていますよ!! 教える先生が問題であり、先生自身が認識されていないことを生徒に伝授することは不可能であると言わざるを得ませんね。 国家の根底にあるのは、金儲けのためのビジネスモデルしかありませんよ。 安倍さんや麻生さん、祖父が達成できなかったことを今お孫さんが尽力されていますよね。 世界的な戦略を一つひとつ国会で、内閣内で無理やりに通していることみえみえでしょう!! フリーメイソンをフリーライド(商標のただ乗りと同じ意味)したユダヤ・フリーメインの大組織軍団の世界戦略を実践活動していることに気づかれていますかね。 天皇制、天照大神等々、上記にも掲載されてありましたが、天皇制を創作した人種はユダヤ・フリーメイソンだと推察していますよ。 確かに産業主体の学部形成体ですよね!! 私も金属工学科を専攻しましたので、建築業界で、高層建築物のカーテーンウォール材をはじめ、高性能な金属材料の開発研究や金属材の廃材のリサイクル技術開発研究に10年携わってまいりましたよ。 10年携わった建築・土木関係の社会環境、28年携わった特許関係の社会環境、経済産業省、特許庁、都庁、諸々の役所との社会環境等々、どこの社会環境も、嘘を嘘で固めた嘘の世界観でしたね。 所謂、これが大人社会の実態でしたよ。 ねつ造やコピペは今に始まったことではなく、大学生時の卒論にはじまり、サラリーマン時代にいやというほど経験しましたが昔々からあることなのですね。 江戸時代、いやもっともっと古い時代から延々に、永遠に続いてきたことでしょうね。 国家の根底ばかりではなく、人間一人ひとりの根底に、倫理・モラル観が育っていないのですよ。 最近、教科書で、「倫理」が復活したみたいなニュースを目にしましたが、スクールでどのくらい活用され、明日へのライフスタイルにどのくらい活かされるのか、甚だ疑問に想うのは私ばかりではないでしょうね。 先生や親自身が倫理観を身につけていないからですよ。 朝起き会(純粋倫理)での、「17条からなる万人幸福の栞」を実践・研鑽しなければ、身につかないですね。 哲学部門もです。 はその通りですね。 哲学、宗教、倫理のすみわけが出来ているでしょうか。 種々の宗教団体の施設で行われている礼拝、聖職者(神父、牧師、伝道師、宣教師、高層、宮司、神主)のプロが話される説教(メッセージ)の内容(中身)は、哲学的な事ばかりですよ。 哲学、宗教、倫理のすみわけが出来ていないからですよ。 大半の聖職者のプロが発する「生きる」、「生かされる」の言葉の使い分けが出来ていないのですよ。 聖職者のプロや大学の教授、学者達の先生自体が認識されていない状況でありますから、まず先生達の認識革命がプライオリティー(優先順位)が第一位ですね。 先生が育たない環境では、子供を育てることは無理難題ではありませんかね。

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