ウォルト ディズニー lsd。 【DIS】ウォルト・ディズニー株へ投資することで得られる10つの所有欲

ウォルトディズニーは日本が嫌いだった?

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主な主要事業部としては、映画製作を行うウォルト・ディズニー・スタジオ、テーマパークやリゾートを経営するディズニー・パークス・エクスペリエンス・プロダクツ、テレビ放送を担うディズニー・メディア・ネットワーク、ホームメディアと国外展開を行うウォルト・ディズニー・ダイレクト・トゥ・コンシューマー&インターナショナルの4つが挙げられます。 ディズニーランドはアメリカのフロリダとアナハイム、香港、上海、パリ、日本と世界に6か所ありますが、2020年3月までにそれぞれ新型コロナウイルスの影響で一時閉園しています。 前日4日の終値103. 3ドルに対して5日の始値は101. 5ドルとなっています。 一時105. 1ドルまで上昇するもその後は下落し、終値は101. 0ドルと始値とほぼ同水準となりました。 次に同社の今までの株価の値動きについて概観していきます。 同社の株価は、上場後から若干の上下はあるものの、新型コロナウイルスによる経済の悪化が発生する2月中旬まで順調に上昇し、52週高値は153. 4ドルとなっています。 しかし、新型コロナウイルスの影響で同社の株価は大幅に下落し、3月末には86. 0ドルまで下落しました。 その後同社の株価は回復しているものの、新型コロナウイルスによる下落幅のうち30%ほどしか回復しておらず、NYダウ平均株価が下落幅に対して50%ほど回復していることと比較すると、同社の株価における回復率は低いと言えるでしょう。 人が集まることにより収入を得るテーマパークを主要事業に持つ同社は、新型コロナウイルスの影響を強く受けていることが分かります。 2億ドルと比較すると21%増加しています。 一方で純利益は4. 7億円であり、前年同期の54. 3億ドルと比較すると91%の減少となっています。 一株当たりの利益は0. 60ドルであり、前年同期の1. 61ドルと比較して63%の減少となっています。 前述のとおり、同社テーマパークを3月末までに閉鎖しており、新型コロナウイルスによる影響を大きく受けた企業であることが伺える決算結果となっています。 この決算結果に対して同社CEOであるBob Chapekは「新型コロナウイルスのパンデミックは、私たちのいくつかのビジネスにかなりの経済的影響を与えましたが、私たちはこの混乱に耐え、さらに強固なポジションを築いて復活する自信がある。 」と述べています。 具体的には、ディズニー・パークス・エクスペリエンス・プロダクツではテーマパークの一時閉鎖に伴う入園料と関連商品の売り上げの低下により10億ドルほどの損失を被ったとし、ディズニー・メディア・ネットワークとウォルト・ディズニー・ダイレクト・トゥ・コンシューマー&インターナショナルでは広告収入の減少という被害を被ったとしています。 同社は新型コロナウイルスの影響により、全体として14億ドル分の被害を被ったとしています。 詳細 次に事業別に同社の決算情報を見ていきます。 まずは事業別の売上高です。 ウォルト・ディズニー・スタジオ…25. 3億ドル:前年度比18%増• ディズニー・パークス・エクスペリエンス・プロダクツ…55. ディズニー・メディア・ネットワーク…72. ディズニー・ダイレクト・トゥ・コンシューマー&インターナショナル…41. 次にそれぞれの事業における営業利益を見ていきます。 ・ウォルト・ディズニー・スタジオ…4. 7億ドル:前年度比8%減 ・ディズニー・パークス・エクスペリエンス・プロダクツ…6. ディズニー・メディア・ネットワークが好調である理由について、21世紀フォックスが所有していた映画およびテレビ資産をウォルト・ディズニーが買収したことによる成果が第二四半期決算に表れてきたことなどを挙げています。 ディズニー・ダイレクト・トゥ・コンシューマー&インターナショナルについて、動画配信サービスである「ディズニー+ プラス 」などが大変好調であったものの、同サービスやHuluの統合などによる経費が大幅に発生したため、大幅な赤字拡大の結果になったとしています。 また同社は、第三四半期決算における業績は、現状の影響をさらに受けると予想し、さらに今年の業績予想に関しては具体的な数字での発表はしないとしています。 8ドル前後まで下落しました。 しかしながら翌日6日の始値は101. 4ドルとなっており、現地時間11:00現在、同社の株価は104ドル台にまで回復しています。 同社はテーマパークを主力事業の一つとしている以上、新型コロナウイルスによる業績への影響は免れません。 ですが、ディズニーブランドの力は大きく、新型コロナウイルスの影響が少なくなり、同社テーマパークが再び開園すれば、多くの人が来場すると予測できます。 また、この閉園期間に「ディズニー+」などの動画配信サービスによる収益基盤を強化しているため、同社テーマパーク再開とともに、さらなる業績の向上が期待できると言えるでしょう。 したがって、同社テーマパークが閉園している期間は株価の大幅な回復は期待できないものの、新型コロナウイルスによる影響の縮小とともに、同社の株価は2月以前の水準まで回復するだけでなく、さらなる続伸も期待できると言えるのではないでしょうか。 More reading• 免責事項と開示事項 記事の作者、白紙は、記事内で言及されている銘柄を保有してはいません。 記事は、一般的な情報提供のみを目的としたものであり、投資アドバイスではありません。 Copyright The Motley Fool Japan 2020.

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ウォルトディズニーの歴史:ウォルトディズニーのルーツ ウォルトディズニーは、1901年12月5日に生まれ、生後は、五大湖の南にあるイリノイ州のシカゴに住んでいました。 しかし、4歳の1906年のとき、シカゴから南西の内陸部にあるミズーリ州のマーセリンに小さな農場を購入して一家で移り住みます。 両親の希望で、都会の喧騒から離れた場所で子供を育てたいという思いからでした。 幼少期のマーセリンの生活では、キツネやウサギが駆け回り、リスやアライグマもいました。 耳をすませば鳥のさえずりが聞こえ、池にはカモが優雅に浮かんでいました。 ウォルトディズニーにとって、自然と戯れ、動物たちと楽しい時間を過ごし、農場が世界のすべてでした。 ある年、ウォルトの家の近くをサーカスのパレードが通り過ぎたことがありました。 しかし、ディズニー一家はサーカスを見に行く余裕がなかったため、ウォルトディズニーは、自分でサーカスの真似事を始めることを思いつきます。 ウォルトディズニーは、古びた麻袋を切り裂き、縫い合わせてテントをこしらえ、さらに、農場にいた動物をテントに入れて芸をさせました。 しかも、ただサーカスを作っただけでなく、ウォルトディズニーは、近所に住む子どもたちを集めて、10セントの入場料を徴収していました。 入場料で集めたお金は、母親に見つかってすべて返金することになりましたが、幼い頃から、そのようなちゃっかりした性格も持っていました。 ウォルトディズニーの歴史は、幼少期に過ごしたマーセリンという田舎の生活にルーツを発しており、後にウォルトディズニー自身が「わたしの人生に影響を及ぼすような出来事は、すべてマーセリンで起きた」と語るほど、ウォルトディズニーが生み出した想像の世界に大きな影響を与えています。 ウォルトディズニーの歴史:新聞配達時代 夢あふれる農場でのびのびと育ったウォルトディズニーでしたが、父親のイライアスが体を壊したため、農場を維持することができなくなってしまいました。 そのため、ディズニー一家は、同じミズーリ州の中でも街中であるカンザスシティへと移り住みました。 そして、農場を売ったお金で新聞の販売権を買った父親の元、父親、兄のロイ、ウォルトディズニーの3人は、毎朝3時30分と午後の1日2回、1回2時間近くかけて新聞配達を行いました。 とはいえ、ウォルトディズニーもまだまだ遊びたい盛りの子供でしたから、新聞配達しながらも、密かな楽しみを見つけていました。 新聞を配達する家は裕福な家庭が多かったため、ウォルトディズニーの家にはないようなお金持ちの子供のおもちゃが、玄関先にほったらかしにしていました。 そのため、ミニチュアの自動車や飛行機、積み木などを使って、夢中になって一人で遊び、満足すると、自分が使ったことを誰にも気づかれないよう、あった場所に、おもちゃをそっと戻しました。 ウォルトディズニーの歴史は、裕福な家庭ではありませんでしたが、そんな中でも楽しみを見つけ、想像の世界を膨らませていきました。 ウォルトディズニーの歴史:アルバイト時代 ウォルトディズニーが15歳のとき、父親は新聞配達業の権利を売却し、シカゴのゼリー製造会社に投資をしました。 さらに父親は、金を出したからにはと、工場建設と維持管理の責任者を自ら務め、事業を監視することにしました。 そのため、ウォルトディズニーは新聞配達から解放されて、今度は、夏休みのアルバイトを行うことにしました。 しかし若かったため、年齢詐称して、大手鉄道会社であるサンタフェ鉄道の乗客に新聞やキャンディーやタバコなどを売る仕事につきました。 今までの苦しくて大変だった新聞配達とは異なり、この仕事は楽しく、制服を誇らしげに着こなして続けました。 夏休みがあけると、両親の元へ帰り、シカゴの高校に通いながら両親のゼリー工場を手伝いましたが、仕事が退屈だったため、またもや歳をごまかして、郵便局で働きました。 さらに、軍隊にも興味を示し、16歳のときには、陸軍・海軍・海兵隊に志願しましたが、年齢制限に引っかかってしまいます。 そのため、最終的に、得意の年齢詐称を使って国際赤十字社の「傷病兵運搬部隊」に入隊を果たし、フランスで1年ほど活動しました。 ウォルトディズニーの歴史は、やりたいことのためならば、多少の嘘もつきながら、自分の道を切り拓いていました。 ウォルトディズニーの歴史:会社設立と1回めの失敗 少米兵運搬部隊の仕事を終えて帰国後、ウォルトディズニーは、父親から「週給25ドルで、ゼリー工場で働かないか」と持ちかけられますが、「絵描きになる」と職探しを行い、兄のロイに手伝ってもらって、「ペスメン・ルービン商業アート・スタジオ」で、見習いとして働き始めました。 月給は、ゼリー工場と比べれは半分の50ドルでしたが、やりがいのある漫画を描く仕事を手に入れました。 しかし、このスタジオは、経営が悪化してしまい、ウォルトディズニーは、働きだしてわずか6週間で解雇されてしまいました。 しかし、ウォルトは楽観的で、6週間働いたことにより、十分、漫画家としてやっていけると思ったため、同じく解雇された、元同僚のアブ・アイワークスと起業することにしました。 ウォルトディズニーは、無茶な提案に乗り気ではなかったアブ・アイワークスに説得を重ね、18歳にして、ウォルトディズニーの初めての起業となる「ウォルト・アイワークス・カンパニー」が設立されました。 しかし、貯金で机などの備品は揃えたものの、十分な設備を容易できなかったため、隣人のレストラン店主が業界紙を発行しているのに目をつけ、自分たちを絵を見せつけました。 そして、美術関係の仕事をすべて無料で引き受けるかわりに、事務所代わりの場所を提供してもらうよう持ちかけ、作業場を確保しました。 しかし、さすがに世の中はそれほど甘くはなく、まもなく、会社をたたむことになりました。 ウォルトディズニーの歴史は、自分のやりたいことのためならば、多少、向こう見ずでも突っ走っていく性格で作られていきました。 ウォルトディズニーの歴史:2回めの会社設立と、2回めの失敗 ウォルトディズニーは、会社をたたんだ後、映画館で上映される映画用の広告フィルムを製作する映画スライド制作会社で働くようになりました。 そして、働きながら、カンザスシティ図書館でアニメーション関連の書籍を借りてきて、日々アニメーションの研究に打ち込み、絵の動く仕組みや、動きを少しでもなめらなかにする方法などを、熱心に勉強しました。 そして、しばらく経つと、ウォルトディズニーは、仕事を終えた後に会社のカメラを拝借し、自宅のガレージでアニメーション作りに没頭するようになり、自分の作品作りをコツコツ続けました。 そんな中、ウォルトディズニーは、人手が必要だと感じ、無給で従業員の募集を行い、まだ駆け出しであったにも関わらず「アニメーション技術、教えます」という触れ込みで、数人の若いアーティストたちを集めました。 そして、なんとか、古典童話である「赤ずきんちゃん」を現代風にアレンジした作品を完成させました。 思わぬできの良さに気をよくしたウォルトディズニーは、あっさりと制作会社を退社し、「ラフォグラム・フィルムズ」を設立し、経営者として二度目の挑戦が始まります。 会社の規模を拡大するため、ウォルトディズニーは地元の投資家を探し始め、作品の一部を見せながら、一人あたり250ドル~500ドルの出資を募った結果、まだ若く無名であったにも関わらず、1万5,000ドルの資金をすぐに集めることに成功しました。 ウォルトは、若いアーティストたちとともに、朝から深夜までひたすら働き、童話をもとにしたウォルトのアニメーションのシリーズを作り、ピクトリアル・クラブという会社が配給してくれることになりました。 しかし、契約をしっかり結ばなかったため、ウォルトディズニーの会社は不利な条件を飲まされ、会社経営は成り立たなくなり、2回めの倒産をしてしまいます。 ウォルトディズニーの歴史は、順風満帆とは言えず、人生の中で2回、会社経営に失敗しています。 ウォルトディズニーの歴史:最後の会社設立と、1回めの従業員の裏切り ウォルトディズニーは、カリフォルニアに住む叔父の家のガレージを週5ドルで借り、映画スタジオを見学してまわるようなりました。 叔父には職について金を稼ぐよう忠告されましたが、ウォルトディズニーには、自分のしたい仕事をするというポリシーがありました。 そのため、未完成の「アリスの不思議な国」という作品を、配給会社のマーガレット・J・ウィンクラーという女性に送り、「これまでにない新しいアニメーション映画を製作すべく、ロサンゼルスにスタジオを設立しました」と送りました。 スタジオといっても、実際には、叔父に借りていたガレージでしたが、「アリス」に興味を持ったマーガレットは、1本1,500ドルで買うことに同意しました。 そして、ウォルトディズニーは、結核で入院中であった兄のロイに熱弁をふるって事業に引き入れ、そして1923年、ディズニー兄弟によって「ディズニー・ブラザーズ・スタジオ」が設立されました。 ウォルトディズニーは、「ディズニーの名前を世界中で有名にしてやる」と誓って、「アリス」シリーズを月に2本というハイペースで製作し続け、上々の評判を得ました。 そして、仕事が軌道に乗り出した頃に、授業員だったリリアンという女性と結婚し、仕事・プライベート共に、順調に回り始めました。 さらに、社名を「ウォルト・ディズニー・プロダクションズ」へと変更し、兄のロイも、ひとりの人物が作品を作っているように見えるほうが観客にもわかりやすくてよいだろう、と考え、承諾しました。 このように、兄は、名声にこだわらない一歩引いた性格で、ウォルトディズニーの事業を生涯支え続けました。 その後、「アリス」シリーズが徐々に行き詰まりを見せていたころ、マーガレットの夫であるミンツが、ユニバーサル映画から新しいプロジェクトを依頼され、今度はウサギを主人公とした「しあわせウサギのオズワルド」というアニメのプロジェクトを開始しました。 「しあわせウサギのオズワルド」は見事に当たり、オズワルドは人気キャラクターとなりました。 しかしそんな中、「ウォルト・ディズニー・プロダクションズ」の主な従業員はミンツに引き抜かれ、さらに、オズワルドという人気キャラクターも失いました。 キャラクター権については、ユニバーサル映画との契約の際、ウォルトディズニーにキャラクター権を認めないようにしていたためでした。 ウォルトディズニーの歴史の中で、ウォルトディズニーが著作権に厳しいのも、オズワルドのキャラクター権を得られなかったことからの教訓が、大きいと言われています。 ウォルトディズニーの歴史:3つの改革と、2回めの従業員の裏切り ウォルトディズニーは、引き抜き工作に応じずに残ってくれた、初めての会社の共同設立者でもあるアブ・アイワークスと共に、再出発を行います。 そして、次の3つの大きな改革を行いました。 音声化• カラー化• 長編アニメーションの制作 「1.音声化」は、ミッキーマウスの3作目で行われました。 ウォルトディズニーが再出発するとき、アブ・アイワークスに新しいアイデアとして、ネズミのキャラクターである「ミッキーマウス」を持ちかけました。 そして、ミッキーマウスを主人公として『飛行機狂』『ギャロッピング・ガウチョ』の2作品を発表した後、アニメの映画に音声をつけるという未開拓分野への挑戦を行い、3作品目の『蒸気船ウィリー』で大ヒットを記録しました。 しかし、兄のロイは冷静で、映画を配給していたパット・パワーズに不信感を募らせていました。 一方、当のウォルトディズニーは純粋で「兄さんは人を信じないんだね」と語っていました。 しかし、ウォルトディズニーが信頼していたパワーズは、ミッキーの人気を自分のものにしようと企んでおり、パワーズからの送金もまばらとなって額も減少していきました。 さらにパワーズは、大金をちらつかせて、ウォルトディズニーを自分の元で働かせようとしました。 もちろん、ウォルトディズニーは、いくら大金を積まれても応じませんでしたが、下積み時代からの親友であり、良き理解者でもあったアブ・アイワークスが、引き抜きに応じてしまいます。 その後、アブ・アイワークスとは、アブ・アイワークスが1940年代に再び「ウォルト・ディズニー・カンパニー」に戻るまで、袂を分かつこととなります。 ディズニー兄弟は、パワーズとの契約を打ち切り、今度は、コロンビア映画と契約しました。 そして、30歳頃の1931年には、業績も好調となり、社員数も75人にまで増えました。 「2.カラー化」は、成功を納めていたウォルトディズニーの、2つ目の大きな改革でした。 当時、テクニカラーという会社が、鮮明な色を出せる技術を開発していたものの、まだ実験段階でした。 そのため、兄のロイは、カラー化は早急すぎるとして弟を制しましたが、ウォルトディズニーは自分の直感だけを信じ、テクニカラー社と独占契約を結びます。 そして、製作中だった「花と木」という作品の製作を中止してすべて破棄し、始めからカラーで作り直すよう指示しました。 その結果、『花と木』は、アニメ史上初のアカデミー賞を受賞。 さらに1933年にも、『三匹の子ぶた』でアカデミー賞を受賞しました。 「3.長編アニメーションの制作」は、技術も去ることながら、莫大な制作費用を必要としました。 そのため、兄と妻に、わざわざ博打に出る必要があるのか、とたしなめられましたが、ウォルトディズニーは「僕は成功したかったら、短編を超えなければならないことに気がついた」と答えました。 ウォルトディズニーは、まず、現場の制作スタッフに理解してもらうため、スタッフの前で、長編アニメーションの題材に選んだ『白雪姫』の全編について、あらゆる登場キャラクターを演じて見せました。 その結果、当初は無理だろうと思っていた制作スタッフも、熱意にほだされていきました。 そして、「白雪姫」という大プロジェクトが動き出すと、スタッフは総勢500人ほどにまで膨れ上がり、最初に見積もられていた制作費も、気づけば150万ドルに跳ね上がりました。 そのため、会社の財政を一番熟知していた兄のロイからも、「ウォルト、短編に専念してくれ!」と匿名でメモが置かれるほどでした。 会社は多忙を極めましたが、ついに、36歳頃の1937年、社運を賭けて作られた長編アニメ『白雪姫』は、ロサンゼルスのカーセイ・サークル劇場で上映されました。 観客たちは、目の前で起こる見たこともない映像に釘付けとなり、チャップリンなどの大物スターたちも駆けつけ、世紀のアニメーションに酔いしれました。 以上のように、ウォルトディズニーの歴史は、常に新しいアニメーション技術への挑戦の歴史でもありました。 ウォルトディズニーの歴史:倒産の危機と労働争議 ウォルトディズニーは、『白雪姫』で稼いだお金で、カリフォルニア州バーバンクに新しく建設するスタジオの資金に回し、さらに、次の3つの作品につぎ込みました。 ピノキオ• ファンタジア• バンビ 一方、従業員からは、「白雪姫であれだけの利益を出したのだから、賃金を上げて欲しい」という要求が相次ぎました。 ウォルトにとって、お金は使うために存在するものであり、新しい作品のために投資するのは当然でした。 実際、ウォルトディズニー自身、借入が多く倹約家でもあったため、それほど裕福な生活を送っていたわけでもなく、ウォルトディズニーの娘たちによると「家も車も、人より少し良い程度」の質素の生活を送っていました。 そして、ウォルトディズニーは、周りのスタッフも、自分と同じように作品に投資したいはずだと思っていたため、従業員の言っていることの意味が分からず、自分と共通のビジョンを持てない従業員連中を怒鳴りつけました。 中には、長年共に働いてきたフタッフでさえ、皆の前で叱りつけることも珍しくなく、ウォルトディズニー自身も、当時のことについて「時々卑劣なろくでなしのような気分になった。 なにしろ、僕はけなして、けなして、けなしぬいたのだから」と語っています。 社内に不穏な空気の漂う中、1939年には戦争の影響で収入は激減し、『ピノキオ』と『ファンタジア』も興行的に失敗したため、会社は450万ドル負債を抱えるほどになってしまいました。 ウォルトディズニーは、ある日、会社が倒産しかけているという事実を兄のロイから説明され、その負債額の大きさに、笑いだしてしまうほどでした。 しかし、従業員にとっては、日々解雇の不安に怯える状況だったため、労働組合に入ろうとする従業員も増えました。 また、ベテランアニメーターのアート・バビットは、給与だけでなく、作品のクレジットに「ウォルト・ディズニー」とだけしか表記されないことにも不満を抱えていました。 そのため、アート・バビットを中心にして、従業員に対し、積極的に映画漫画家組合へ参加するよう呼びかけが行われ、ウォルトディズニーに反旗を翻しました。 その結果、ウォルトディズニーは怒って、アート・バビットに解雇を突きつけたため、今度は、組合員たちがストライキを行い、ウォルトディズニーは「ドブネズミ」とまで罵られ、最終的に、組合側の勝利に終わりました。 ウォルトディズニー自身、「あれは、生涯で最もつらい時期だった」という労働争議のゴタゴタの最中に完成した『ダンボ』は、無事に大ヒットを飛ばし、会社の危機は乗り越えられました。 以上のように、ウォルトディズニーの歴史は、理想の実現への投資に傾き過ぎていたため、やや危うい面も抱えていました。 ウォルトディズニーの歴史:夢の国の建設 ウォルトディズニーはその後も、『不思議の国のアリス』や『ピーターパン』などの作品に取り掛かろうとしますが、第二次世界大戦勃発により、制作は中断されます。 そして、その代わりに、『零戦の弱点』や『戦闘機の戦術』といった訓練用映画が作られ、愛国的な作品や反ナチス主義を描いた作品の中でディズニーのキャラクターは活躍しました。 戦後、ウォルトディズニーは、『不思議の国のアリス』と『ピーターパン』を完成させました。 さらに、新作として『シンデレラ』で記録的なヒットを飛ばしますが、ウォルト・ディズニーの頭の中は、ある途方もないアイデアでいっぱいになっていました。 それが、夢の国『ディズニーランド』の建設です。 しかし、ウォルトディズニーの遊園地建設計画に対して周囲は大反対で、兄のロイは「遊園地事業のことは何ひとつ知らない。 僕にはどうしてもうまくいくとは思えない」と言い、妻も同意しました。 また、専門家ですら失敗するに違いないと断言しました。 しかし、ウォルトディズニーは、「不可能なことをやるのは楽しいものだ」と周囲の意見を聞かず、ウォルトディズニーが54歳の1955年7月17日の日曜日、カリフォルニア州アナハイムで、ディズニーランドが開園しました。 ディズニーランドの開園初日は、トラブル続きで大変でしたが、ウォルトは完璧な「夢と魔法の国」を作り上げるためにこだわり続け、多くの観客を集めるのに成功しました。 さらに、アナハイムのディズニーランド開園から10年後、ウォルトディズニーは、フロリダ州の中心に、マンハッタンの倍にもなる敷地を買い、『ウォルト・ディズニー・ワールド・リゾート』の建設に着手しました。 それは、理想の都市そのものを建設するという、とてつもない計画でした。 しかし、ウォルトディズニーは、その完成を見ることなく亡くなります。 大変なヘビースモーカーでもあったウォルトディズニーは、65歳の1966年12月5日、肺がんによる肺炎で死去しました。 ウォルトディズニーの死により、性格の食い違いから喧騒も耐えなかった兄のロイも、病院の廊下で一人泣き崩れました。 しかし、ウォルトディズニーが亡くなった当日も、妻であるリリアンの意向で、ディズニーランドは通常通り開園されました。 そんなリリアンの行動を、新聞各社は非難しましたが、妻のリリアンは「ウォルトなら必ずそう望んだだろう」と決意したのでした。 以上のように、ウォルトディズニーの歴史は、最後まで、自分の夢や自分のやりたいことに向けられ続けた人生でした。 ウォルトディズニーの歴史:まとめ ウォルトディズニーは、アニメーションでの成功以後が取り挙げられることの多い人物です。 しかし、当初は、「嘘も方便」とばかりに、自分を誇大に語りながら、自分のやりたいことに向かって、勢いだけで駆け抜けた時期も多いという特徴があります。 そういう意味では、やりたい夢がありながら、それを諦めかけている人にとっては、ウォルトディズニーのパワフルな姿勢から学ぶことも多いかもしれません。 「嘘も方便」と似たような話としては、2ちゃんねるの創始者であるひろゆきさんが、『メディアが報道しない事実お伝えします…』のYouTube動画の8分32秒あたりで語っていた、プログラマーになるオススメの方法も思い出されます。 ひろゆきさんは、未経験でもプログラマーになる方法として「未経験でプログラマーといっても信用されないのでWebサイトかアプリを作って、これを自分で作った、と伝えるといい。 そうすれば、未経験とはみなされない」と答えていました。 このように、多少の捏造をしてても、自分で道を切り拓いていこうとする努力は、コネも実績もない人が夢を実現するためには、必要なのかもしれません。 もちろん、ウォルトディズニーは、見栄やハッタリだけでなく、仕事中毒かと思われるほど毎日仕事に明け暮れ、休暇もほとんど取らないほどの、努力家でもあります。 周囲に反対されても我を通すほど頑固で、傲慢で冷淡だと思われることもありましたが、それでも、信念を曲げなかったこからこそ、いくつもの夢を実現できたと言えるのかもしれません。

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H・フォード主演のディズニー実写映画、20年2月公開 アラスカを旅する男と犬の冒険物語

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受賞 『』 『』 『』 『』 『』 『』 『』 『』 『』 『』 『』 『』 『』 『』 『』 『』 『』 1953年『』 1953年『』 『』 1953年『』 『』 長年の功績に対して 1938年『』の製作に対して 1941年『』の製作に対して 1941年 長年に渡るアニメ映画製作への功績に対して 審査員特別賞 アニメ映画の革命に対して 『』 『』 芸術メダル 『白雪姫』 特別メダル 『』 ベルリン市政府特別賞 特別賞 『白雪姫』 『ファンタジア』 プロデューサー賞(録画番組部門) 『』 特別賞 『』 『砂漠は生きている』 名誉賞 その他の賞 ウォルト・ディズニー(Walt Disney, - )は、・に生まれた、、、、、、、。 世界的に有名な「」をはじめとするキャラクターの生みの親で、『』の創立者であり、兄のと共同で設立したは数々の倒産、失敗を繰り返すも、350億ドル以上の収入を持つ国際的な大企業に発展した。 本名は ウォルター・イライアス・ディズニー Walter Elias Disney。 一族はからの移民であり、姓の「ディズニー」(Disney)は元々「d'Isigny」と綴られ、の地方のの ()から11世紀にイギリスやアイルランドに渡来したノルマン人の末裔であることに由来し、後に英語風に直され「ディズニー」となった。 「イライアス」は父名。 を支持しとして知られていた。 生涯 [ ] 生い立ち [ ] の鉄道員でカナダ生まれのイライアス・ディズニーと、ドイツ人とイギリス人の血を引くフローラ・コールの4番目の子としてシカゴで生まれた。 父イライアスは元々で金鉱を探して暮らしていたが、妻のフローラのために定職を求めてカンザスやに移り、後に仕事の関係でシカゴへと移住していた。 しかしウォルトが幼い時に一家は叔父のロバート・ディズニーの住むマーセリーンへ更に引っ越して農業を始めたので、結局の所はミズーリ州で少年期を過ごす事になった。 しかし、父親のイライアスはこの地においても農業に失敗して、数年後に家族を連れて同地を去った。 イライアスとフローラは息子4人と娘1人を儲けたが、父親のイライアスは子供達に対して愛情に欠けた厳格な態度で接しており、ウォルトとロイが1920年代に成功をおさめても、彼らに対して冷やかな態度は変わらなかった為、ディズニー親子は長年距離を置いて交流はしなかった。 イライアスはリタイアするまで転職を重ねたが、結局結婚する前に金鉱で働いて小金を得た以外は、どの仕事に就いても成功出来ず、妻のフローラに苦労を掛け、1930年代後半にウォルトやロイが破格の成功をおさめた後に、彼らが両親を呼び寄せロサンゼルスに豪邸をプレゼントするまでは貧しい生活を送っていた。 ディズニー一家の畑の近くにはが走っており、その鉄道の走る音が好きだった。 アルバイトで、鉄道構内で新聞やを売る仕事をしていたこともある。 後に持ったウォルト自身の家では、8分の1スケールのミニチュア鉄道を庭に走らせていた が、そのミニチュアの汽車に乗って遊ぶのがウォルトの一番の趣味だった。 少年時代から絵を描くことやアートそのものに大変興味があり、7歳の時には自分の描いた小さなスケッチを近所の人たちに売っていたこともあった。 学校では勉強をしながらも、動物や自然などの様々な絵を描いていた。 青年期 [ ] 父のイライアスがシカゴで工場経営に加わり、再び一家はシカゴに舞い戻る事になった。 青年期を迎えていたウォルトも地元のマッキンリー高校に通いながら、当時無名であった夜間部のコースで絵を学ぶ生活を送っていた。 同時に、カンザスの新聞社で新聞配達のアルバイトを始め、朝4:30に起床して配達に行き、放課後に再度配達をするというハードな働き方をしていた。 そのためか、学校では居眠りをしたり、悪い成績をとることがたびたびあった。 学校では学級新聞の漫画欄を担当してその才能の片鱗を見せていたが、その内容はに沿った内容だった。 当時、不安定な国際情勢の中でアメリカでも愛国心が国民の間で高まっていた。 を切っ掛けにが勃発、アメリカが未曾有の大戦争に参戦すると、愛国心に駆られたウォルトは高校と美術学校を退学し、陸軍に志願した(兄のロイも同様に志願して兵士となっている)。 実はこの時ウォルトは16歳であり、軍に志願するには年齢が1歳足らなかったが、受付の列に並んでいる途中でこっそりとペンで生年月日を書き換えて誤魔化した。 しかし兄と違い若年であったために軍に説得され、兵士としての勤務の代わりに、のとして負傷した兵士の治療や輸送に従事した。 同じ衛生隊にはの創業者として知られるも居た。 大戦終結時、廃墟となったに居たウォルトは、一年振りに故郷のアメリカに帰国した。 帰国後、父の経営する工場以外で仕事を見つける事を望んだウォルトは家を出て、単身カンザスシティーへ戻った。 漫画家としての活躍を目指したウォルトは、取りあえず新聞で漫画を書く仕事を請け負った。 だが当時は一介の新人に過ぎないウォルトへの仕事の依頼は多くはなく、成功どころか日々の生活にも困る苦しい時代を過ごしていた。 見かねた兄のロイ(地元銀行の職員として働いていた)が知人に頼み、ペスマン=ルービン・コマーシャル・アート・スタジオでの広告デザインの仕事をウォルトに紹介した。 ウォルトはここで生涯の友人となると知り合った。 アイワークスとウォルトは翌年にアート・スタジオから契約更新を打ち切られて失業すると、二人で新しい創作活動を始める計画を立てた。 アニメーターへの転身 [ ] Newman Laugh-O-Gram 1921 1920年1月、ウォルトとアイワークスはデザイン会社「ウォルト・アイワークス・カンパニー」を創立して共同経営者となった。 だが、設立早々にウォルトはアイワークスを置いてカンザスフィルム社にとして雇用されてしまったので、会社は長続きしなかった。 初めは生活の為に雇われたウォルトだったが、短編アニメの作画を担当する中でアニメーターとしての資質に目覚めていき、漫画からアニメへと興味が移っていった。 社員としての仕事の傍らで、映像制作の為の機材を借り入れてアニメーション制作に没頭、それまでの切り抜き手法からに高い可能性がある事を確信した。 、独立して個人事務所を設立したウォルトは、フリーランスの製作者として仕事を募集、カンザスシティーの事業家フランク・L・ニューマンからの出資で初のオリジナルアニメ作品『ニューマン劇場のお笑い漫画』を制作した。 質の高い娯楽作品は良い評価を得て、ウォルトの元にはアニメ制作の仕事が順調に舞い込む様になった。 個人製作では事業の拡大に追いつかないと判断したウォルトは個人事務所からアニメ制作会社へと会社を拡張するべく、アブ・アイワークスを初め、や、、などの数人のアニメーター仲間を呼び寄せた。 弱冠20歳のウォルトにとってこのLaugh O'Gram Studio社は最初の成功となったが、制作に没頭する余りに資金のやり繰りが乱雑になり、最終的にスタジオは倒産してしまった。 これはウォルトに経営面のサポート役を立てる事の必要性を痛感させた。 倒産後の整理を終えたウォルトは再起を図って映画産業の本場ハリウッドへと移住した。 ディズニー社設立 [ ] とウォルト() ハリウッドでは兄のロイ・ディズニーと共にカンザス時代に一本だけ制作した「アリスの不思議の国」シリーズの続編商品を販売する会社「ディズニー・ブラザーズ社」を興した。 事業の過程でアリスシリーズのアニメを再度制作する機会を得たウォルトは以前の様にアニメーター仲間を集めた。 そこには、Laugh O'Gram studios時代のスタッフだけでなく、、といった新人アニメーターを雇った。 ディズニー・ブラザーズ社はアニメ製作会社へと転進した。 これが実質的な「ディズニー社」の設立であると考えられ、ロスアンジェルス市ダウンタウンの北側:シルバーレーク地区ハイペリオン通りに開設された制作スタジオは1939年のバーバンクへの移転による閉鎖までディズニーアニメを世に送り出し続けた。 少女子役の実写にアニメーションを織り交ぜた「アリスコメディシリーズ」は人気を博し、ディズニー社の経営は軌道に乗っていった。 、会社の従業員だったリリアン・バウンズ()と結婚し流産を経て実娘の(Diane)儲けた後に、養女のシャロン(Sharon)を迎え、忙しい生活を送りつつも、父親に愛されなかった反動もあり 後年、長期の南米旅行中ということで、彼は父親の葬儀にも出席しなかった 二人の娘を溺愛しながら育てた。 ユニバーサルによる引き抜き [ ] 1927年、興行師チャールズ・B・ミンツの紹介でと繋がりを得たウォルトは、自社キャラクターとして「」を考案、オズワルドを主人公にしたアニメをユニバーサル配給で制作した。 オズワルドはシリーズスタートと同時に子供の間で大ヒットを飛ばし、一躍ディズニー社躍進の切っ掛けを作った。 ウォルトはカンザスフィルム時代の旧友達を次々に会社へと誘って、ディズニー社はアメリカでも屈指のアニメ製作会社に急成長した。 だが1928年2月、チャールズ・B・ミンツと契約料の取引に臨んだウォルトはそこで大きな悲劇に見舞われた。 ミンツはユニバーサル社に法外な配給手数料を支払う様に要求、ウォルトがこれを拒否すると露骨な社員への引き抜き工作を仕掛けた。 ウォルトを二重に落胆させたのは、この引き抜き工作にアイワークスを除く殆どのアニメーター達が応じてしまった事だった。 (その例がハーマン=アイジングである)。 契約書上、オズワルドが配給会社の管理下に置かれていた事も不利に働き、ディズニー社は配給元と自社キャラクター、そしてスタッフの大半を失って倒産寸前に追い込まれた。 しかし、諦めきれなかったウォルトはその後も頑張って仕事を続けた。 ミッキーマウスの誕生 [ ] 再建するにあたって、オズワルドに代わる新たな自社キャラクターを必要と感じたウォルトは、それまでにもうさぎのオズワルドやアリスコメディの中で、ライバルとして度々登場させていた「敵役のねずみ」を主役に抜擢することを決定する デザインはルドルフ・アイジング。 アブ・アイワークスのスケッチでは、オズワルドそっくりのキャラクターとなった。 カンザスフィルム時代に飼っていたに思い当たり、幾つかのラフスケッチを制作したというのは権利処理の問題をクリアするために後年の後付け設定である。 すでにアリスコメディには当時高い人気を集めていたに似せたジュリアス・ザ・キャットも登場させており、フェリックス側のプロデューサーであるパット・サリバンから何度も警告されていた。 これに当時、監督や演出に専念し始めていたウォルトから作画監督を委ねられたアイワークスが、ウォルトの原案に動かす事を念頭に置いたアレンジを加えた。 かくして世に知られる「ミッキーマウス」は完成した。 後にディズニー社の従業員は「ミッキーの動きはアイワークスが、魂はウォルトが生み出した」と語っている。 因みに当初名前は「モーティマーマウス」とされる予定だったが、妻のリリアン・ディズニーが「悔しがる・恥をかく」の動詞である「モーティファイ」に言い方が近いため猛反対し「ミッキーマウス」と変更された。 [ ]モーティマーの名は後に初期作品でのミッキーのライバルキャラクターに用いられた。 ミッキーマウス・シリーズの初期作品において、秀逸な動きの描写をアイワークスが書き出す一方で、ウォルトは演出面で高い才能を発揮した。 ミッキーマウスの登場第一作『』(『飛行機狂』)および第二作『』はサイレント映画として作られたが、第三作『蒸気船ウィリー』で効果音や声を吹き込んでの短編アニメとしての制作が行われると、場面の転換や物語のテンポに合わせて効果的に音や音楽を使用し、また自らもミッキーマウス・ミニーマウスの声を演じた。 この演出技法は長らくディズニー映画の象徴とも言うべき手法となり、優れた作画と共にミッキーマウス・シリーズのヒットに貢献した。 対照的にウォルトの演出とアイワークスの作画を失ったオズワルドは次第に人気を失い、1930年代には完全にミッキーに取って代わられる事になる。 ミッキーはオズワルドを凌ぐ人気キャラクターとなり、世界的な知名度を得てディズニー社の再建に大きな力を発揮した。 ディズニーと(右) ディズニーは1948年ごろから、テーマパークの建設を具体化させていく。 ディズニーがいつからテーマパーク建設の意図を持っていたかははっきりせず、娘たちを遊園地に連れてベンチに座ったときに手持ち無沙汰な親の姿を見て、「大人も楽しめるテーマパークの建設」を思い立ったとも、趣味であるの製作が高じて大規模なテーマパークの制作を思い立ったとも言われている。 いずれにせよ、このころからディズニーはアニメーションの制作に代わってテーマパークの建設計画に熱中するようになっていった。 1951年3月にはスタジオのある市にテーマパーク建設計画を提出したが、これは遊園地建設による騒音などの住環境悪化を懸念した市当局によって拒否された。 また、このころには計画は当初のものを大きく超えた大規模なものとなっていたため、ディズニーは広大な土地の確保できる代替地の確保に乗り出し、1953年9月にはカリフォルニア州に160エーカー 730,000m2 の土地を購入し用地を確保した。 しかしこれほどの大規模な建設計画を行う資金はディズニーにはなかったため、彼はこの時期に登場した新たなメディアであるとの連携を考え付いた。 こうして、新たなテーマパークの建設計画を各企業や市民に売り込むために、には「」というTV番組をで放映し、ディズニー自らが出演してアトラクションやアニメ作品の紹介などを行った。 この番組は大好評となり、ディズニーランド建設後も変遷を経ながらまで54年間にわたって放映され続ける長寿番組となった。 ABCはこの成功によって業績を大幅に向上させ、またこの成功を見た大企業がこの計画に次々と資金提供や資本参加を申し出るようになった。 こうして無事に資金を調達したディズニーランドは、1954年7月21日に着工された。 実際の建設においてはカリフォルニア州オークランドにに作られた、最初の子供用遊園地「チルドレンズ・フェアリーランド」や、にに作られた遊園地など既存のさまざまな遊園地を参考としていたものの、ディズニーはこの遊園地を既存のものとは全く異なる小さな新しい世界にしようと考えていた。 彼はこのテーマパークの建設に熱中し、日夜建設現場に足を運んでは様々な指示を行った。 7月17日には正式にオープンし、上記の「ディズニーランド」番組内で全米にその様子が中継された。 ディズニーランドは瞬く間に大成功をおさめ、ディズニー社の経営の柱の一つとなり、現在まで続く多面的な経営の基盤を作った。 ウォルトはディズニーランド開設前に「いつでも掃除が行き届いていて、おいしいものが食べられる。 そんな夢の世界を作りたい」と語っていた。 無論これは現在のディズニーランドの土台となっている大事な思想であり、現に他のテーマパークでは何の変哲も無く行われている地面の掃除も、ディズニーランド内ではまるで1つのショーであるかの如く行われている。 また、ウォルトはディズニーランドのオープン時のスピーチの中で、「 私はディズニーランドが人々に幸福を与える場所、大人も子供も、共に生命の驚異や冒険を体験し、楽しい思い出を作ってもらえる様な場所であって欲しいと願っています。 」と言った。 その「誰もが楽しめる」というファミリーエンターテイメントの理念は、今も各ディズニーのパークで受け継がれている。 ディズニーランドの成功は、ディズニーに二つ目のテーマパーク建設を構想させるのに十分なものだった。 二つ目のテーマパーク予定地にはなどいくつかの場所が挙げられていたが、やがての中心部、に目をつけた。 ここに着目したのは湿地帯が広がっていて土地代が安く広大な土地が確保できたことや、アメリカ西端のカリフォルニアにあるディズニーランドに加え、ディズニーブランドを広める拠点が東部に求められたことによる。 、ディズニーはフロリダに二つ目のディズニーパークを作ることを公表した。 この新たなパークはアメリカ都市の生活の質を問題とし、アメリカ産業の創造性を見せるためのという名のパークを中心としており、マンハッタン島の2倍程にもなる広大な土地を買い、エプコットの他、ディズニーランド、ホテル等を取り入れたを作り始めた。 ウォルトの訪日が幾度か検討されたが、多忙のため実現しなかったという。 死去 [ ] 12月15日、によるで、ディズニー・ワールドの完成を見ないままバーバンク市内の病院で死去(満65歳没)。 その後ロイによってディズニー・ワールドは ウォルト・ディズニー・ワールド・リゾートへと改名された。 生前は大変なヘビースモーカーで、禁煙を勧められても「ヘビースモーカーでも長生きした人はいくらでもいる」と言ってとりあわなかった。 翌年、遺作となる『』が公開された。 晩年は酒に溺れ、朝食はドーナッツをスコッチ・ウィスキーに浸けて食すのが一番のお気に入りだった。 直後に発行されたフランスの週刊誌パリマッチでは表紙にミッキーマウスを用いた。 ミッキーマウスは誕生からこれまでの38年間滅多に見せなかった涙を流した。 [ ] LIFE誌が1999年に選んだ「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」に選ばれている。 人物 [ ] 従業員との関係 ウォルトは優秀なアニメーターには厚遇する事もあったが、アシスタントに対しては「誰にでも出来る仕事をしている人間に何故、高い報酬を支払わないといけない」と下に見て薄給でこき使い、アシスタント達を中心としてストライキを起こされた事もある。 ウォルトはウォルト・ディズニー・カンパニーの創業者で、ミッキーマウスの生みの親であるが、ウォルトが自分で原画を書いて映画を作っていたのは初期の頃であり、後世に名を遺すディズニー映画の大作のほぼ全ては脚本家とアニメーターが制作しており、ウォルトは金と口を出すのが仕事だった。 映画を製作する際は何度も意見が分かれ、ウォルトと制作陣が衝突・喧嘩にも似た侃々諤々の議論をする事は日常茶飯事だったという。 倹約家 アニメ界、映画界の大成功者であり、世界的企業の創業者であるにも関わらず借入が多かった事と倹約家だった為、人々が想像する程裕福でも無く、娘達曰く「家も車も人より少し良い程度」の質素な暮らしを送っていたという。 政治との関係 [ ] プロパガンダ映画の制作 [ ] 1941年12月8日のの開戦と第二次世界大戦へ参戦したアメリカは戦時体制への協力を国内産業へ求め、映画産業に対しても協力を要請するが当初は成功しなかった これは検閲や行政指導ができないことに加え、高度に資本化された映画産業は政府の要請よりも利潤追求を優先させる体制となっていたためである。 しかし、ディズニーは大衆がヨーロッパに関心を持ちはじめていると気づくと「反ドイツ」の色を薄めた「反」の形で戦意高揚の映画を制作した。 大衆文化史の研究者にはディズニーが孤立主義から友邦の援助へ大衆の意識が変わっていたのを見抜いた上で統合の象徴としてミッキーを選択させた点や、彼が没した今日でもミッキーマウスは「アメリカの象徴」として自己増殖を続けている旨を指摘するものもいる。 政治家や政府のプロパガンダにより大衆を説得することは難しい(出典『心理戦争』)。 しかし 大衆自身が願う形へミッキーを作り変える作業を続けることでディズニーは成功を収め、同時にアメリカ政府を顧客とすることにも成功した。 当時のウォルトディズニー社は白雪姫の大ヒットで得た莫大な収益を注ぎ込んで製作したピノキオやファンタジアがヒットしなかったせいで、あっという間に膨大な借金を抱える羽目になり、さらにヨーロッパも戦争中で映画の輸出も出来なくなり、株価も1株が25ドルから4ドルまで大暴落し倒産の危機に陥ったが、プロパガンダ映画の制作により、ある程度の収益を得て経営を建て直すことが出来た為、戦後も引き続きディズニーは経営の安定させる理由で政府の核実験、原子力開発キャンペーンのために 我が友原子力 という映画を作成するなどに参加している。 大戦当時に同スタジオで製作された以下のアニメ映画に、ミッキーマウスが戦闘機でのを撃墜するシーンがあったり、ドナルドダックのアニメ映画「」にやを風刺するシーンがあるが、これらは国の要請や強制を受けたものでもなく、ウォルトが積極的に自ら制作したものである。 Victory Through Airpower(1943年)• 新しい精神 The New spirit(1943年) このほかにものために文字を使用せず、漫画のコマ割り風に絵を配置して説明するマニュアルや、の兵士向けの映像教材など細かな依頼も引き受けている。 反共姿勢 [ ] 第二次世界大戦後、生前のと親友だったことなどから、当時吹き荒れていたの「()」の嵐に巻き込まれる。 彼は公聴会に出頭し、「(前の)ソ連に『三匹の子ぶた』(1933年)を売ったことがある。 非常に好評だった」と証言している。 最終的には無実とされた。 この様な形で赤狩りにこそ巻き込まれたが、戦時中や冷戦中、自らが版権を持つキャラクターを軍や政府に無償で提供したり、自社のと激しく対立していた事から、当人はむしろ熱烈な保守派、、者と考えられている。 マッカーシーの赤狩りでは、、、らも対象となった。 委員会への召喚や証言を拒否した10人の映画産業関係者()は議会侮辱罪で訴追され有罪判決を受け、業界から追放された()。 、、、、、、(バンド・リーダー)、らは赤狩りに対する反対運動を行った。 グレゴリー・ペックは、リベラルの代表格だった。 一方でウォルト・ディズニーとともに、政治家のや、(当時(SAG)委員長)、、、らは告発者として協力した。 この様な指摘に関連して、『闇の王子ディズニー』を著したマーク・エリオットは、「赤狩りの時代に、ウォルトはハリウッド内の映画人達の思想についてへの熱心な密告者であった」と指摘している他、ディズニーランドのモノレールの開通時に、アナハイムの近隣のヨーバリンダ出身で、赤狩り時代にマッカーシーに近い者で知られた共和党選出の元(後に)を招待している。 なお、7年に及ぶ調査とディズニー社の事前チェック無しに出版されたゲイブラーの執筆による伝記、「Walt Disney」(邦題:創造の狂気)の中では、大戦中のプロパガンダへの協力姿勢は、当時、労働組合との争いや大戦による海外市場の縮小により、経営が圧迫されていたスタジオの生き残りのための方策の一環であったこと、彼にとっても政府への協力には意義を見出していなかったことが記述されている。 同時に、戦後の赤狩り時代、彼の反共的な姿勢は、労働組合によりスタジオが壊滅的打撃を受けたことにたいする嫌悪感であったことを指摘している。 ともあれ、ウォルトは最晩年の1964年には、右派の共和党員として、大統領選に出馬したタカ派のを熱心に支持していた。 人種・性差別姿勢 [ ] ゲイブラーは、ウォルトが製作したミュージカル映画『』でのの描かれ方から、ウォルトがのレッテルを貼られたことについては、「製作に熱中するあまり、人種に関する配慮に欠けていたのだ」と主張している。 ウォルト自身は読書をほとんどせず、世相に対して鈍感な面を持ち合わせていたというのである。 この『』は、公開直後から「」()の激しい抗議を受け続けており、アメリカ本国では再上映やビデオ化が阻止され、「幻の作品」となっている(日本でビデオ発売が実現したが、廃盤)。 しかし、ウォルトに対する「者」、「人種差別主義者」との批判は、彼が死ぬまで浴びせられ続けたものであって、別に『南部の唄』に限ったことではない。 ウォルトは『南部の唄』では封切りイベントに主演の黒人俳優を出席させなかったほか、『南部の唄』の以前にも その二年後にも 、ミッキーマウスやミニーマウスがアフリカで野蛮で猿のように描かれた黒人を差別的に扱う民族侮辱的な漫画を出版しており、現在も批判の対象となっている。 また、彼は亡くなるまでウォルト・ディズニー社の要所に黒人と女性を雇い入れなかった。 彼の制作した作品群のほとんどすべてに、様々な民族に対する彼の白人中心視点から成る、および男尊女卑的なが指摘されている。 主な製作作品 [ ]• - (1929年)• - (1928年)• - 1937年• - 1940年• - 1940年• - 1941年• - 1942年• - 1942年• - 1944年• - 1946年• - 1947年• - 1948年• - 1950年• - 1951年• - 1953年• - 1955年• - 1959年• - 1961年• - 1963年• - 1967年 受賞歴 [ ] アカデミー賞 [ ] ディズニーのサイン の個人受賞最多記録をもつ。 1931年 - 1932年 『』• 1932年 名誉賞 ミッキーマウスの創造に対して• 1932年 - 1933年 短編アニメ賞 『』• 1934年 短編アニメ賞 『』• 1935年 短編アニメ賞 『三匹の親なし子ねこ』• 1936年 短編アニメ賞 『田舎のねずみ』• 1937年 短編アニメ賞 『』• 1939年 名誉賞 『』• 1938年 短編アニメ賞 『牡牛のフェルナンド』• 1939年 短編アニメ賞 『みにくいアヒルの子』• 1942年 名誉賞 『』• 1941年 短編アニメ賞 『プルートのなやみ』• 1941年• 1942年 短編アニメ賞 『』• 1948年 短編二巻賞 『あざらしの島』• 1950年 短編二巻賞 『ビーバーの谷』• 1951年 短編二巻賞 『大自然の片隅』• 1952年 短編二巻賞 『水鳥の生態』• 1953年 『』• 1953年 短編二巻賞 『熊の楽園』• 1953年 短編アニメ賞 『プカドン交響曲』• 1954年 長編ドキュメンタリー映画賞 『滅びゆく大草原』• 1958年 短編実写賞 『グランドキャニオン』• 1968年 短編アニメ賞 『プーさんと大あらし』 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• ウォルトはで、後に彼が作ったには必ず鉄道が走っている 出典 [ ]• ニール・ゲイブラー著/中谷和男訳『創造の狂気 : ウォルト・ディズニー』(ダイヤモンド社)p425-426 2007年7月26日第1刷• ニール・ゲイブラー著/中谷和男訳『創造の狂気 : ウォルト・ディズニー』(ダイヤモンド社)p439 2007年7月26日第1刷• ニール・ゲイブラー著/中谷和男訳『創造の狂気 : ウォルト・ディズニー』(ダイヤモンド社)p464 2007年7月26日第1刷• 『ディズニーリゾート物語』第9巻 2002年 講談社• 『ネズミの罠、ディズニーの夢のマシンの中で』(『NI』誌、1998年12月号)• 『ネズミの罠、ディズニーの夢のマシンの中で』(『NI』誌、1998年12月号)• 『MICKEY MOUSE ANNUAL』(1932年)• 『Thursday from Mickey Mouse and the Boy Thursday』(1948年)• 『The 9 Most Racist Disney Characters』()• 『ネズミの罠、ディズニーの夢のマシンの中で』(『NI』誌、1998年12月号) 参考文献 [ ]• グリーン夫妻著/山口和代訳 『魔法の仕掛人ウォルト・ディズニー』(ほるぷ出版) 1994年• マーク・エリオット著/古賀林幸訳 『闇の王子ディズニー(上、下)』(草思社) 1994年• ラッセル・シュローダー著/スタジオジブリ編集/田畑正儀訳 『Walt Disney : 伝記・映像の魔術師』(徳間書店) 1998年• ボブ・トーマス著/山岡洋一, 田中志ほり訳『ディズニー伝説 : 天才(ウォルト)と賢兄(ロイ)の企業創造物語』(日経BP社)1998年• ニール・ゲイブラー著/中谷和男訳『創造の狂気 : ウォルト・ディズニー』(ダイヤモンド社)• ボブ・トマス著『ウォルト・ディズニー』(講談社)1995年 (日本図書館協会選定図書・全国学校図書館議会選定図書) 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するメディアがあります。 - 1928年11月18日に公開された、ミッキーマウスとミニーマウスのデビュー作。 外部リンク [ ]• - (英語)• - (2016年11月2日アーカイブ分) - ジャンナルベルト・ベンダッツィ著『カートゥーン:アニメーション100年史』第6章。 1930年代末までのウォルト・ディズニーの伝記を、彼が生み出したアニメーション作品を中心にして語っている。 先代: - 原語版声優 初代(1928年~1947年) 次代:• 1937• 1938• 1939• 1941• 1942• 1943• 1944• 1946• 1948• 1950• 1951• 1952• 1953• 1956• 1958• 1961• 1963• 1965• 1966• 1967• 1970• 1973• 1975• 1976• 1977• 1979• 1981• 1986• 1988• 1991• 1994• 1996• 1998• 1999• 2000• 2009• 2010•

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