あはれなりの意味。 百人一首の意味と文法解説(45)あはれともいふべき人は思ほえで身のいたづらになりぬべきかな┃謙徳公

中学生の古文 「をかし(おかし)」と「あはれ」の違い|極上の受験勉強法

あはれなりの意味

うーん、本当は、それでもいいんです。 「あはれなり」は、しっとりとした感じの感動がある、ということが原義だから、 「いい」でも、その「いい」に、 「ハア・・・しみじみ、いいもんだなあ・・・」 という意味を含んでいるつもりだったら、 それでいいんだよ、本当は。 FBだっけ、なんだっけ、俺はやってないので知らないんだけど、 「イイネ」というのがあるでしょ、 あの感じではない、ってことなんだよ。 なんでも、ネガティヴな記事、 「もう死にたい」「俺はダメだ・・・」なんてのに「イイネ」を押したら、 それに賛同したってこと(「いいぜ、死ねよ」「そうだ、お前はダメだ」)になるらしいね? こういうのは、「陽性」の「いい」なんだよね。 「あはれなり」は、この「イイ」とは違うってことなのです。 「とびいそぐさへあはれなり」は、 秋の夕暮れの、烏のことを言っているところでしょ。 ちょっとしんみりした「良さ」であって、 「心を打つ」とか「感動的だ」と訳したっていいところなんだよ。 「じ~んときちゃう」っていう感じなの。 ウェットな感じ。 君は、「いい」を、そういう意味で使ったのだとしても、 答案用紙に書いたのだとしたら、たった「いい」という二文字の字面だけで、 「私の言っている「いい」は、しみじみと感動的なほうの「いい」で、 「イイネ!」の「いい」じゃないんです」 ということを、説明しきることはできないよね。 試験とかじゃなくて、自由に、 「枕草子」のある程度の分量の章段を現代語訳して楽しむ、 というような場合なら、 「あはれなり」が出てきたらいつでも「しみじみと感動的だ」と訳すんじゃ、 芸がないし、単調になるから、 あるところでは「泣けてくる」と訳し、あるところでは「いいものだ」と訳し、 あるところでは「心にしみる」と訳し、あるところでは「胸が震える」と訳し、 いろんなバリエーションで、豊かに「感動」を表現していいのだけれども、 試験のときは、「いい」だけでは、「伝わらない」のが現実だよね。 だから、試験の答案として、その一部分だけを訳せと言われた場合には、 「しみじみと趣深い」とか、「心打たれる」とか、 「あはれなり」の原義は分かっていますよということを、 アピールする訳にしておかなければなりません。 試験というものは、「私はここまで理解しています」ということを、 採点者に「伝え」ないと、点数につながってこないから、 だいたい合ってりゃなんでもいい、っていうわけではない。 セオリーとか、試験のルールっていうものはあるの、そこは分かってね。

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落葉松 北原白秋 詩の意味

あはれなりの意味

高校入試の古文で最もよく意味を問われるのが「をかし(おかし)」と「あはれ」です。 どちらも心が強く動いた時、感動した時に発する言葉ですが、意味や使い方に違いがあります。 まず「をかし」について述べます。 「をかし」は「面白い」とか「趣がある」と訳しますが、この面白いは、おかしくて笑ったときの面白いとは意味が違います。 知的な楽しさでの面白いです。 頭脳が「なるほど!ほう、これは面白い!」と判断し、心がわくわくした時に使うのが「をかし」です。 たとえば、一休さんのとんち話で「この橋、渡るべからず(この橋を渡ってはいけない)」という立札が橋のたもとに立ててあったとき、一休さんが橋の中央を堂々と渡り、それをとがめられて「端を渡ってはいけないとあったので、橋の真ん中を渡りました」と答えたときの「なるほどなあ!」と感心する面白さです。 また、をかしの代表的な文学として清少納言の「枕草子」があります。 枕草子には「いとをかし」のフレーズが随所に出てきます。 有名な「春はあけぼの」の段 夏は夜。 月の頃はさらなり。 闇もなほ、蛍のおほく飛びちがひたる。 また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。 雨など降るもをかし。 秋は夕暮れ。 夕日のさして山の端いと近うなりたるに、烏の、寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど飛び急ぐさへあはれなり。 まいて、雁などのつらねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。 日入り果てて、風の音、虫の音など、はた言ふべきにあらず。 この文章にも、「をかし」が何度も出てきます。 これを現代語に訳すときは「面白い」という意味よりも、「情趣がある」とか、「趣がある」と訳すのがしっくりいきます。 清少納言は、「蛍」「夏の夕立ち」「秋の雁」を、季節を象徴する風物詩的なものとして受け止めています。 季節を象徴するそれらのもと、季節に彩られた自然や風景全体とのつながりに知的な楽しさを見出し、「をかし」と表現しているのです。 次に「あはれ」について述べます。 「あはれ」は「しみじみとした趣がある」と現代語に訳すのが一般的です。 現代語では「あわれ」といえば、「かわいそう」の意味になります。 古文の「あはれ」も「かわいそう」の意味もありますが、「しみじみとした趣がある」という意味になることのほうが多いです。 「をかし」も「趣がある」と現代語に訳すのですが、「をかし」と「あはれ」で「趣がある」という心の状態は異なります。 「をかし」の「趣」は「なるほどな!」という頭脳を働かせての楽しさですが、「あはれ」の「しみじみとした趣」というのは、「心が揺さぶられ、感情が動くさま」のことです。 「心情に働きかける趣」が「あはれ」なのです。 「あはれ」について、さらに詳しく説明しましょう。 私たちは、何か予期せぬものを見たり聞いたり、あるいは経験した時、あまりの思いがけなさに感情が強く動きます。 そのとき思わず、口について出る言葉が、「あはれ」なのです。 あまりの思いがけなさに感情が強く動いたとき、その心の動きを表すのが「あはれ」であるため、「あはれ」は、実にたくさんの意味を持つことになります。 たとえばどこかに旅行に出かけたとき、思いがけず満開の桜の花が咲き誇る公園を見つけたとしましょう。 こんな時に、口をついて出ることばが「あはれ」なのです。 また、幼い子が、辛い顔をして泣いているのを見かけたとします。 私たちは、心配でいたたまれなくなり、なんとかしてあげたいという気持ちになります。 この時の感情も「あはれ」なのです。 美しい女性に偶然出会い、すぐさま恋に落ちたとします。 このときの感情も「あはれ」です。 ある人の不幸な身の上話を聞き、不憫に思い、もらい泣きをしたとします。 このときの感情もまた「あはれ」です。 このように「あはれ」は、同情であれ、美しさであれ、見事さであれ、何らかの感情が思いがけず強く動いたときに使う言葉です。 そのため、「あはれ」は、さまざまな現代語に訳すことができます。 あはれは、文脈に応じて、「感動する、かわいそうに思う、悲しく思う、素晴らしいと思う、恋をする、美しいと思う」などと訳すことができるのです。 先ほど引用した清少納言の「春はあけぼの」の段を読めば、「をかし」と「あはれ」の違いが理解できると思います。 「烏の、寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど飛び急ぐさへあはれなり。 」は、夕暮れ時、数羽のカラスが寝どころに急いで帰っていく姿に、思いがけず心が深く動くような感動をしたということです。 清少納言は蛍や夏の雨には頭脳を働かせての情趣を感じ、夕暮れの烏には心に響くようなようなしみじみとした趣を感じたのです。 また、「あはれ」の文学で代表的なものは紫式部の「源氏物語」です。 源氏物語は一言でいうと恋愛小説です。 恋愛というのは頭脳でするものではなく、心でするものです。 心が強く動くのが恋愛です。 ですから「あはれ」という語が多いのも納得でしょう。 あはれの文学とは、感動の文学というところでしょう。 最後にまとめると、「をかし」は頭脳の働きとともに湧き起こった感動や趣で、「あはれ」は、自分でも思いがけず、感情がひとりでに動いたときの、心に湧き立った感動です。

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「あはれなりつること、忍びやかに奏す。」の「つる」の意味は完了...

あはれなりの意味

野外に送りて夜半(よわ)の煙となし果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。 あはれといふも、なかなかおろかなり。 (蓮如上人 御文 「白骨」より抜粋) 浄土真宗本願寺八世の蓮如上人が、布教の一貫で全国の門徒へ手紙として発信した法語が「御文」です。 宗派によって「御文章」(本願寺派)、「御文」(大谷派)、「御勧章」(興正派)と呼び名は異なりますが、中でも「白骨」の法語は特に有名とされます。 念仏して地獄におちるとも後悔すべからず これまで、あまり葬儀というものと縁がなかったのですが、今年は立続きに参列させていただき、通夜・葬儀の最後に詠まれた「白骨の御勧章」に感じるところがありました。 浄土真宗は「他力本願」とされます。 解釈は様々かと思いますが、私は「悟りに至れない自己に対する徹底的な諦観に立ち、一心に念仏を唱えることによって弥陀の救いを得る」道であると考えています。 民衆にとって、欲心を去ることはあまりにも難しく、悟りはあまりにも遠い。 それでも救われたい。 そうであれば、悟りに至れない自己を認識し、一心・無心に念仏を唱えるしかない。 そうすれば、仏によって救われる。 『歎異抄』には、親鸞が法然上人の教えに接したときの描写として、 親鸞におきてはただ念仏して弥陀に助けられまいらすべしと、よきひとの仰せを蒙りて信ずる外(ほか)に別の仔細無きなり。 (中略) たとえ法然上人にすかされまいらせて念仏して地獄におちたりとも、更に後悔すべからず候。 その故は自余の業をはげみても仏になるべかりける身が、念仏を申して地獄におちて候わばこそすかされたてまつりてと云う後悔も候わめ、いずれの行もおよびがたき身なれば、地獄は一定すみかぞかし。 (『歎異抄』より抜粋) とあります。 行に励んでも仏になれるような我が身ではない。 「ただ念仏を唱えよ」という法然上人の教えにだまされているとしても、どうしようもないのだから、念仏を唱えて地獄に堕ちても後悔などありえない。 地獄が私の住処ということでしょう。 宮本武蔵は「神仏を尊み、神仏を頼まず」という言葉を遺していますが、愚禿と号した親鸞の覚悟も本質的には同じなのだと思います。 我や先、人や先、今日とも明日とも知らず さて、「白骨の御勧章」に戻ります。 それ、人間の浮生(ふしょう)なる相をつらつら観ずるに、おおよそ儚きものはこの世の始中終(しちゅうじゅう)、まぼろしのごとくなる一期なり。 されば、いまだ萬歳(まんざい)の人身(にんじん)をうけたりという事を聞かず。 一生すぎやすし。 今に至りて誰か百年の形体(ぎょうたい)を保つべきや。 我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、遅れ先立つ人は、元のしずく、末の露より繁しと言えり。 されば、朝には紅顔(こうがん)ありて夕には白骨となれる身なり。 すでに無常の風きたりぬれば、即ち二つの眼たちまちに閉じ、一つの息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李(とうり)の装いを失いぬるときは、六親眷属あつまりて嘆き悲しめども、さらにその甲斐あるべからず。 さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半(よわ)の煙となし果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。 あはれといふも、なかなかおろかなり。 されば、人間の儚きことは、老少不定(ろうしょうふじょう)のさかいなれば、誰の人も早く後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深く頼み参らせて、念仏申すべきものなり。 あなかしこ、あなかしこ。 (蓮如上人 御文 「白骨」) 一生は過ぎやすく、誰も100年の寿命すら保つことは難しい。 我が先か、人が先か、今日か明日かも分からぬ身である。 朝には血色良くあっても夕には白骨となる身である。 死ねば家族親戚集まって、嘆き悲しむが、どうすることもできない。 そのままにもできないので、火葬をして送るが、ただ白骨が残るだけ。 あわれと言っても、どうも言い切れない。 人の一生は儚い。 阿弥陀仏を深く頼み、念仏を申すべきである。 無常を感ずる、味識すべき文章です。

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